第13話 聞いてないです
〈男を楽しむわ!〉
決意した沙魚丸の顔がほころぶ。
苦悶の表情を浮かべる沙魚丸を起こすべきか悩んでいた小次郎だが、突然、沙魚丸の表情がぱぁっと明るくなったことに安堵の吐息を漏らす。
〈良かった。いい夢でもご覧なのかな。〉
沙魚丸の穏やかな寝顔に小次郎の心も明るくなる。
同時に、一抹の不安を覚える。
〈寝顔とは言え、こんなにクルクル表情をお変えになる御方では・・・。〉
腕を組み、首を傾げ、沙魚丸との過去を振り返る。
だが、無表情で不愛想な顔しか思い出せない。
んんん、と小次郎は目を疑った。
さっきまでは心配が勝っていたため気がつかなかったが、明らかに寝顔が違うのだ。
〈いつもは口をピシッと閉じていらっしゃるのに・・・。何だろう、このだらしなく開いている口は。あっ、涎が。〉
口から零れた涎を優しく拭き取った小次郎は閃いた。
〈木から落ちたせいだな。〉
正解!
と言う風に、パンと焚火が爆ぜ、火の粉がパッと舞い上がる。
ぱかっと開いた沙魚丸の口を目指して、火の粉がフワリと落ちて来る。
幸か不幸か、コースアウトした火の粉は沙魚丸の頬にそっと舞い降りた。
「あっつ。」
飛び起きた沙魚丸は、頬をゴシゴシとこする。
〈ビックリしたぁ。焚火あるあるだけど、まさか、顔に直撃とは。〉
もう大丈夫、と頬をこするのをやめた沙魚丸を気遣う声がする。
「無事にお目覚めになり安心いたしました。どこか痛いところはありますか。」
沙魚丸は咄嗟にブンブンと顔を横に振った。
〈緊張して声が出ない。イケメン耐性ゼロな私には無理よ。〉
この時、沙魚丸は男になったことをすっかり忘れていた。
「そうですか。良かった。」
ホッとする小次郎をチラリと盗み見た沙魚丸は心の中で小躍りを始める。
〈高校生ぐらいかしら。いやぁ、これは、イケメンですわ。なんちゃってイケメンが泣きながら走って逃げるレベルだわ。この子は私の側近。よし、イケメンの練習をしよう!〉
ぐふふ、と怪しげな笑いをかみ殺す沙魚丸は、待って、と口を押さえる。
〈蘭丸もビックリな容姿ってことは、男からも狙われるわね。主君である私がしっかり守らないと。あれ、私、男だったわ。えっ、もしかして、そういう関係なのかしら。〉
ヤダー、と黄色い声を心の中で発し、淫らな想像をする沙魚丸。
しかし、そういう記憶がないことに安心し、どこかガッカリしている自分にドン引きする。
「吐き気とかしませんか。」
いつの間にか小次郎の横に座った源之進が、これまた心配そうな様子で尋ねる。
大きな体をできるだけ小さく縮め、沙魚丸の顔を覗き込む源之進の顔をちらりと見て、沙魚丸は顔を伏せた。
〈秋夜叉姫様、体だけ男にするのは失敗です。おぼこ娘な私がこんなイケメンたちとどうやって生きて行けと・・・〉
心も男にしてよ、と遠い目になった沙魚丸は、源之進が月代でないことに気づいた。
〈さすが、異世界。月代ではないのね。見てる分には、月代も素敵なんだけどね。確か、この時代は毛抜きで抜いてたはず。兜の中が蒸れる対策は別に考えるとして、髪の毛を抜かなくてもいい幸せを噛みしめましょう。〉
手を合わせ、沙魚丸は秋夜叉姫に感謝する。
質問に答えることなく、ブツブツ呟き、拝み始めるなど、何か様子のおかしい沙魚丸に不安を感じた源之進が改めて問いかける。
「沙魚丸様、ご気分はいかがですか。」
心配そうな源之進に沙魚丸はニッコリ笑う。
〈私も男になったんだし、『キャー、イケメン!』とか言ってたら、ヤバい人よね。〉
吹っ切れた沙魚丸は、爽やかな笑顔で答えた。
「源之進さん、心配してくれてありがとうございます。もうすっかり大丈夫です。」
沙魚丸の返事を聞いた源之進はグレーがかった目を大きく見開き、小次郎は絶句した。
一方、雨情はやれやれと立ち上がる。
ようやく起きたか、と呟いて。
「随分とご機嫌な目覚めだな、沙魚丸。」
「はい、絶好調です。」
沙魚丸の答えに拍子抜けした雨情は苦笑する。
「絶好調なお前にいいことを教えてやろう。ハゼは木登りできないどんくさい魚だと覚えておけ。」
「はい。了解です。」
〈木登りする魚ねぇ、そんな魚いるのかな。叔父上は厳つい顔で何をおっしゃっているのかしら。〉
笑顔の沙魚丸に雨情は、ゴキゴキと首を鳴らし、独り言ちた。
「皮肉も通じんか。幸せな奴だ。」
「何かおっしゃいました。」
「何でもない。儂は戻る。明日はお前のせいで遅れた分を取り戻すために早く出立する。間違っても寝坊するなよ。」
雨情は手にしていた木を草むらに投げ捨てると、背を向け去って行く。
その背中へ沙魚丸が言葉を投げる。
「お任せください。」
〈自慢じゃないけど、遅刻したことはないんだからね。〉
ふふんと沙魚丸は鼻を鳴らす。
立ち止まった雨情は、ふむと首を捻る。
「期待しておこう。」
白い歯をこぼし楽しそうに笑うと、雨情は鼻歌を歌いながら去って行った。
雨情の背中が視界から消えて、沙魚丸はふぅ、と安堵の息をついた。
〈グッバイ、叔父上。渋い声、ご馳走様でした。〉
感謝のお辞儀をする沙魚丸の横で、ゴトッ、と音がした。
何だろう、と沙魚丸は振り向く。
そこには、ただ茫然と立ちすくむ小次郎がいた。
小次郎の足下には水が入っていた木椀が転がっている。
〈小次郎さんが木椀を落としたみたいだけど、どうして二人とも固まっているのかしら。〉
とりあえず、話しかけてみようかな、と沙魚丸は口を開く。
「あのぉ、叔父上が行っちゃいましたけど。」
「沙魚丸様がしゃべった・・・」
カッと目を開いた小次郎が、猛然と沙魚丸に近づく。
「今、お話になられましたよね。」
「しゃべりましたよね。」
連発で話してくる小次郎を必死でブロックする沙魚丸。
〈近い、近いわ。イケメンが近すぎる。〉
数センチの距離に詰め寄って来た小次郎に対し、沙魚丸の膝はガクガクと震える。
前世では男と手すらつないだことが無いのだ。
しかも、美少年。
沙魚丸が昇天しそうになった時、源之進が小次郎を羽交い絞めにして後ろに引きずって行く。
もがきながら、沙魚丸様と叫び続ける小次郎。
パニック状態の小次郎を座らせた源之進は、小次郎を落ち着かせようとする。
「小次郎、深呼吸だ。深呼吸をしろ。」
それどころじゃないでしょう、と小次郎の目が叫んでいる。
「父上もお聞きになったでしょう。沙魚丸様がしゃべったのですよ。」
「私も聞いた。」
「夢ですか?」
「いや、現実だ。」
現実・・・、消え入りそうな声で小次郎は呟いた。
しばらくの間、ブツブツと呟いた小次郎が自分の頬をバシンと張り飛ばした。
沙魚丸は激しい音に縮み上がる。
小次郎の口からスーッと流れ落ちる血を見て、ヒィー、と震えあがる。
「夢じゃありません。」
「そうだ、夢では無い。」
頷きあう二人に沙魚丸はごくりと喉を鳴らす。
〈頬をつねって夢じゃない、って確かめるやつですか。怖い、怖すぎる。血が出るまで叩くって、修羅すぎません? 私、本当に生きていけるかしら。〉
目の前で起きた出来事にショックを受ける沙魚丸は、二人からの視線を感じ取る。
色々と聞きたいのですが、御覚悟はいいですか? と言う視線に。
沙魚丸は自分が大失態を犯したことに遅まきながら気づいた。
〈記憶を受け継いだからと言っても、すぐに沙魚丸君そのままに行動できないでしょ。あーぁ、重要なことは前もって教えておいて欲しかったなぁ。〉
沙魚丸が心の中で愚痴るのも無理はない。
元沙魚丸は、ここ数年、一言も話さない少年だったのだから。
であるのに、転移した早々に沙魚丸はのほほんと口を開いてしまった。
しかも、沙魚丸に最も身近な存在の前で・・・
沙魚丸は頭を抱えた。
〈ごまかすとかって言うレベルじゃないわね。どうしよう。〉