第10話 加護
ゆっくりと戻した手を結衣は、そのまま口に当てた。
そして、何事もなかったように、コホン、と咳払いをした。
秋夜叉姫が不思議そうに結衣の顔を覗き込む。
「手を出したり引いたりして、何をやっておるのじゃ。」
「何もありませんよ。」
何か言いたげな秋夜叉姫を笑顔でかわした結衣はピシッと背筋を伸ばす。
「私、こう見えましても異世界にはとても詳しいのです。異世界と言えば、加護。女神様と言えば、加護。加護から始まり加護で終わるのが異世界。チートな加護でもって、秋夜叉姫様の信者をビシビシ増やすのはいかがでしょう。」
結衣はかけてもいない眼鏡をクイッとする。
そして、口角を上げて笑顔を作った結衣はスッとひざまずき、秋夜叉姫の手を取った。
「さぁ、お教えください。秋夜叉姫様が私に授ける加護を。」
目をギラギラと血走らせた結衣は、フシューと鼻息を荒くする。
秋夜叉姫は憮然とした表情で結衣の額をバチンとはたいた。
「いったぁ。」
おでこを押さえ、なぜ? と訴える結衣。
「少し落ち着け。欲情したオークとやらに見える。」
えぇっ、と結衣は顔をしかめる。
〈うら若き乙女をオーク呼ばわり。しかも、欲情って・・・。いや、なぜ、秋夜叉姫様がオークを知っているのかしら。〉
もしや、出所は私の日記か、とうろたえる結衣を軽く無視した秋夜叉姫は、無意識の内にトントンと自分の肩を叩く。
「クーリングオフしたい・・・」
「何か言いました?」
「いや、何でもない。」
微笑んだ秋夜叉姫は、転生契約書に押印する際に『ナマモノだから返品は一切受け付けぬ。』と猿神に言われたことを思い出していた。
〈返品したくなるような魂が来るとは思わんじゃろう、普通・・・〉
いや、人とは成長するものじゃ、と呟いた秋夜叉姫はピシャリと顔を叩き、気合を入れた。
「心して聞くのじゃ。其の方は、日ノ本で言うところの戦国時代に転生する。確か、其の方は戦国時代が好きであったな。では、喜ぶがよい。この世界は地球の文化の影響を強く受けておるから、抵抗なく溶け込めるじゃろう。さて、肝心の転生先だが、椎名沙魚丸と言う十二歳の男子じゃ。」
「戦国時代とは素晴らしいですね。ご期待に添えるよう精一杯頑張ります。とは言いましても、加護がなくては始まりませんけどね。」
へい、かもーん、と両手の指をクイクイっと動かす結衣を見て、秋夜叉姫はため息をついた。
「加護は無い。」
その一言の破壊力はすさまじかった。
秋夜叉姫と結衣は睨みあうように対座する。
〈今、無いって言ったような・・・。いやいや、あり得ないでしょ。加護が無い異世界転生なんてあるの? あぁ、そっか、聞き間違えたのか。〉
結衣は、静かに人差し指を立てた。
「すいません、もう一回。」
そう、結衣は秋夜叉姫に言い直す機会をあげたのだ。
だが、帰ってきた言葉は、結衣にとってただただ無情であった。
「じゃから、無いと言っておろう。」
「えっ? 本当に無いのですか? 何にも?」
「無いと言ったら、無い。これ以上、ごちゃごちゃぬかすのであれば、手足を切り落としたマイナススタートにしてくれる。」
秋夜叉姫は結衣の鼻先にずいっと薙刀を突きつけた。
今さら刃先を突きつけられて怯む結衣ではない。
明るい転生生活のために、結衣は薙刀を押しのけて前に出る。
「私は経理事務とイラストを描くぐらいしか能の無い女です。なんか下さい。すごいのくれないと、すぐ死にます。」
家族も友達も知り合いすらいない。
それどころか、顔見知りと殺し合っている世界へ行くのだ。
〈まだ12歳の男の子でしょ。小学校6年生に何ができるのよ。それに、私は文系女子よ。刀や槍を振りまわして、ヒャッハーしている人たちの中で加護無しの乙女が生きていけるわけないじゃない。〉
必死に訴え続ける結衣だが、秋夜叉姫はプイッと横を向いて相手にしてくれる気配がない。
〈酷い、無視してる。こうなれば、破れかぶれよ。〉
チクショー、と結衣は秋夜叉姫に飛びかかった。
過去の成功体験に縋りつく結衣だが、そうそう甘いものではない。
二度もしがみ付かれる神などいないのだ。
いや、一度でもおかしいのだが・・・
飛びかかって来る結衣を秋夜叉姫は闘牛士よろしくサッといなした。
虚しく宙をつかんだ結衣は、あーれー、と落下した。
腹ばいのまま、およよ、と泣く結衣に秋夜叉姫が冷ややかな声を飛ばす。
「其の方、『異世界に行くならチート無しの世界で活躍する主人公がいいよね。』と日記に書いておったではないか。」
むっくりと起き上がり、女座りになった結衣は信じられないと言った表情で呟く。
「覚えてるんですか。」
「妾は神じゃぞ。其の方の日記なぞ、一言一句覚えておるわい。」
ふふん、と笑う秋夜叉姫の前で、結衣はガックリと肩を落とす。
〈日記を燃やしたって覚えてるんじゃ意味ないじゃない。えぇ、書きましたよ。でも、妄想だもん。いいじゃない、日記なんだもん。何を書いたって。〉
やり場のない怒りに震える結衣だが、秋夜叉姫の記憶力に恐怖を感じ始める。
これ以上、日記の内容を追及されると本当にやばい。
性癖をフルオープンされる恐れがある。
〈沈黙は金、沈黙は金。災厄は黙って行き過ぎるのを待つしかないわ。〉
うなだれた結衣の前に秋夜叉姫はずいっと立つ。
「ようやく静かになったか。これからのことを説明しようと思ったが・・・。うむ、さっさと沙魚丸のもとへ行くがよい。」
秋夜叉姫は印を結ぶと呪文を唱え始めた。
先ほどの転生呪文の効力が残っていたのだろう。
結衣の体があっという間に透けていく。
「秋夜叉姫様。私、具体的なことを何にも聞いてないんですけど。」
「ぜーんぶ、其の方が悪い。もう時間切れじゃ。」
「時間のことなんて、何にも言ってなかったじゃないですか。」
「うむ、そうであった。では、言おう。妾の神力ではそもそも転生は無理なのじゃ。今回の転生は、妾の頭である月詠様のお力をお借りしておるから、時間制限があるのじゃ。という訳で、其の方にはすっごく期待しておるぞ!」
説明を終えた秋夜叉姫は、がんばるのじゃ、と大鎧から取り出した真っ赤な手拭いをひらひらと振り始めた。
〈赤い手拭いってカッコイイわね。じゃなくてぇ・・・〉
結衣は消滅する前に最後の力を振り絞り叫んだ。
「アイル・ビー・バック!」
サムズアップをした結衣は神界から消え去った。
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序章がようやく終わりました。
次回から本章が始まりますので、引き続きよろしくお願いいたします。