入学式の一日の終わり
儂は風呂から上がり、まだ濡れた髪をタオルで拭きながら、二階の自分の部屋へ向かった。
階段を踏む足取りは、少しだけ急ぎ足だ。親たちの盛り上がる声が、一階から漏れてきていたから。
あの酒宴に巻き込まれたら、確実に逃げ場を失う。爺だった頃の経験則が、そう告げている。
部屋のドアを開けると、思わず声が漏れた。
「あー……」
もう驚きすら薄れてきた光景が、そこにはあった。
男物と並んで、可愛らしいワンピースやブラウスがハンガーラックに揺れている。
少し前までは目にするたび違和感があったが、今はもう慣れた。いや、慣れたくはなかった。けれど、時間とは残酷だ。
引き出しを開けると、Tシャツの隣にレース付きのパンツやブラが整然と収まっている。
机の端には、知らぬ間に増えていた化粧品。ファンデーション、リップ、ハンドクリーム――爺だった頃には縁遠かったものばかり。
「……カオスだな」
思わず、独り言が漏れる。
男でもあり、女でもある儂――岩村レイという存在が、この八畳間に凝縮されている。
窓から射し込む月明かりが、部屋の隅々まで淡く照らしていた。白いカーテンが、微かに揺れる。
穏やかな夜。だが、胸の奥は妙にざわついていた。
「……まぁ、いいか」
諦めと、ほんの少しの開き直り。
タオルを適当に放り投げ、ベッドにダイブする。
沈む布団。柔らかな感触に包まれると、張り詰めていた心が、少しずつほどけていく。
――こういう瞬間だけは、性別も過去も全部忘れて、“レイ”でいられる。
顔を埋めた布団に、静かに息を吐いた。
明日からは、本格的な学校生活が始まる。
訓練、座学、仲間たちとの日々。
パイロット科という未知の世界。
アキラと一緒に歩む、特機型パイロットとしての道。
――二度目の青春。
爺だった儂にとっては、まさに夢のような時間。
だが、不安がないわけではない。
前線に出る日が来れば、命を賭けることになる。
死――。
前世では、畳の上で穏やかに迎えたものだ。
だが、この世界では――戦場で、それも機体に乗って散るかもしれない。
その覚悟は――まだ、完全にはできていない。
けれど。
「楽しもう」
誰に言うでもなく、呟いた。
どっちの性別でも、儂は儂。
この体で、この世界で、生きていく。
目を閉じると、今日の出来事が浮かんできた。
測定、軍曹の言葉、仲間たちの顔。
そして、アキラの笑顔。
――悪くない。
そんなことを思いながら、眠りに落ちようとした――その時だった。
下だ。
一階のリビングが、まだ盛り上がっている。
父さんとマサタカおじさん、完全に酒スイッチが入ってる。
母さんとユカおばさんも、笑ってる声が聞こえてくる。
「おう、もう一杯!」
「次、俺注ぐ!」
テンション最高潮。
まるで宴会場だ。
――ああ、儂もこんなだったなぁ。
前世、息子や孫が帰ってきた時は、嬉しくてつい深夜まで飲んでいた。
今なら、わかる。
――ごめんな、息子よ。孫たちよ。
「深夜の酒盛り、マジでうるさいわ……」
苦笑しながら、布団を被る。
でも、寝れない。
耳に残る親たちのハイテンション。
「母さん!それ旨いのか?俺にも注いで!」
「おいしいわよ。はい、あなた」
――こっちは寝たいんだよ。
そんなことを思っていた矢先だった。
コツ、コツ。
ドアをノックする音。
――いや、待て。
ノックの直後、普通にドアが開いたんだが?
儂、まだ「入れ」とは言ってないぞ?
「姉ちゃん。うるさくて寝れない」
ひょこっと顔を出したのは、ミサキだった。
その後ろには、アキラも顔を覗かせている。
パジャマ姿のミサキは毛布を肩に掛け、アキラは腕を組んで苦笑い。
「……テンションが上がり過ぎてるわね」
――いや、わかるよ。
儂も同意だ。
あの宴会騒ぎは、子供には刺激が強すぎる。
「お前ら、寝るんじゃなかったのか」
「寝れないから来たんでしょ」
アキラが肩をすくめる。
「姉ちゃんの部屋なら静かかなって」
ミサキが期待に満ちた目で布団を見つめてくる。
「兄だ!」
思わず突っ込む。
「でも、今は女の子になってるよ?」
ミサキがキラキラした目で言う。
――儂、敗北。
戻るのが面倒で女性体のままだった。
今日一日で何回変わったかも思い出せん。
「……勝手にしろ」
観念して布団に潜ろうとした、その時だった。
「レイ!」
急に鋭い声。
――アキラだ。
「どうした?」
「どうした?じゃないでしょ!」
布団をバサッと剥がされ、儂は顔を上げる。
「髪濡れたままじゃない!」
アキラがジト目で睨んでいる。
「あ……」
触ってみると、確かに湿っている。
湯上がりに軽くタオルで拭いただけだった。
「だって、面倒だったんだよ」
「ダメだってば!風邪引くよ!」
「この体、丈夫だから平気だって」
「そういう問題じゃないでしょ!」
アキラの声が鋭くなる。
その目は真剣だった。
儂も、さすがに少し気まずくなって、目をそらす。
――こいつ、こういう時だけ妙に母親っぽいよな。
そう思っていると、アキラが椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「はい、座って。乾かすから」
半ば強引に促され、儂は諦めて椅子に腰を下ろした。
鏡越しに映る自分の顔は、ほんのり赤らんでいる。
――恥ずかしい。
爺だった頃に、こんな風に世話を焼かれることなんて、なかった。
むしろ世話をする側だったんだ。
孫の髪を乾かしてやったことはあっても、まさか逆になるとは。
――転生って、こういうことかよ。
そんな苦笑まじりの思いを胸に、アキラがドライヤーのスイッチを入れた。
低く柔らかな音と共に、温かな風が髪に触れる。
ゆっくりと指が通され、根元から丁寧に乾かされていく。
「ん……」
自然と息が漏れた。
くすぐったさと心地よさが混ざったような、不思議な感覚。
指先が頭皮をなぞるたび、力が抜けそうになる。
髪を引っ張ることなく、優しく、でもしっかりと。
アキラの手つきは慣れていた。
「……上手いな」
つい本音が出る。
アキラは、ふっと笑った。
「でしょ?私、母さんの髪とかよく乾かしてあげてるし」
「へぇ」
「レイ、髪サラサラだよね。羨ましいわ」
「そうか?」
「うん。女の子としては最高の髪質だよ」
「……儂、男だってば」
そう言い返しながらも、どこかくすぐったかった。
アキラの指が、髪の間を滑っていく。
時々、ふわっと触れる手のひらが、妙に安心感をくれる。
不思議だった。
前世で誰かに触れられることに、こんな安堵感を覚えたことがあっただろうか。
孫を抱っこした時とは、また違う。
――これが、若い体だから、なのか?
それとも、アキラだから、なのか?
「……はい、もう少しね」
アキラが声をかける。
鏡越しに目が合った。
優しい笑顔。
儂は、少し視線を逸らした。
「姉ちゃん、いいなぁ。私もやってほしい!」
ミサキが頬杖をつきながら、じっとこちらを見ていた。
「兄だ!」
反射的に言うが、すでに流れは決まっている。
「じゃあ、今度ミサキも乾かしてあげるね」
「やったぁ!」
アキラとミサキが笑い合う。
儂も、つられて口元が緩んだ。
「……なんか、家族だな」
ぽつりと零れた独り言に、アキラが手を止めた。
鏡越しに、驚いたようにこちらを見る。
「……何?」
「あ、いや……なんでもない」
ごまかそうとするが、アキラはにっこり笑った。
「そうだね。家族みたいだね」
その言葉に、胸が温かくなる。
――転生して、性別まで変化できるようになって、わけわからん毎日だけど。
でも、こんな時間もある。
ありがたい。
「はい、できた!」
アキラがドライヤーを止める。
鏡に映る髪は、サラサラに乾いていた。
手ぐしでとかすと、指通りが驚くほど滑らかだ。
「……ありがとな」
照れくさくて、少し早口になってしまう。
「どういたしまして」
アキラは満足そうに笑った。
「じゃあ、次はスキンケアね!」
「え?」
「だって、風呂上がりだよ? ちゃんとやらなきゃ、将来後悔するんだから」
「いや、儂、男だし――」
「今は女でしょ!」
アキラはすかさず化粧水を取り出す。
その横で、ミサキがボディクリームのボトルを握っていた。
「姉ちゃん、塗ってあげる!」
「兄だって――待て、出しすぎ!」
ミサキの小さな手に、クリームがこんもり乗っている。
「えへへ、贅沢に塗るね!」
「贅沢とか、そういう問題じゃ――冷たっ!」
腕に広げられたクリームがひんやりして、思わず身を竦める。
アキラは笑いながら化粧水をぱたぱた叩き込んでくる。
――至れり尽くせり。
いや、むしろ、いじられてる感の方が強い。
「姉ちゃん、すべすべになぁれ!」
「だから兄だって――」
言いながらも、次第にしっとりしていく肌に、少しだけ満足感があった。
「レイ、顔にもこれね」
アキラがクリームを差し出す。
もはや抵抗する気力もなく、言われるがままに手の甲に伸ばした。
爺だった頃には考えもしなかった光景。
――でも、悪くない。
そんな気持ちが、不意に胸を満たす。
ミサキが嬉しそうに笑っている。
アキラも楽しそうに化粧水を仕上げている。
家族みたいだと、さっき言ったけど。
――これが、今の儂の居場所なんだな。
「よし、完了!」
アキラが手を叩く。
儂は深く息をついた。
「じゃあ、寝るぞ」
布団に潜り込むと、ミサキもアキラも、嬉しそうに潜り込んできた。
――結局、こうなるのか。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
「姉ちゃん、おやすみ!」
「兄だ……」
小さく言い返すが、もう訂正する気力もない。
三人で並んで布団に入る。
一階からはまだ、楽しそうな親たちの声。
――寝られん。
儂は小さく息を吸い、意識を集中させた。
「音遮断」
ふっと、周囲が静まる。儂の力の一つだ。このおかげでよく眠れる。
ミサキが「すごーい」と囁く。
アキラは「便利だね」と微笑んだ。
柔らかな布団。
隣には、温かな気配。
――まぁ、こういう日があってもいいか。
肌、すべすべだな。
そんなことを思いながら、ゆっくりと眠りについた。




