9 なんでも美味エッセンス
意気込んで帰宅したものの、多忙を極める宰相がそう都合よく早めに帰ってくるはずもない。
ラウリエ家の材料採取の話をした日は、本当に運がよかっただけなのだ。今となってはラッキーだったとしか言いようがない。
なかなか会えない状況に痺れを切らし、先にお母様にだけ話してしまおうかとも思った。でもお母様がどう答えようと、結局はお父様次第なのだ。宰相を、本丸を落とさなければ意味がない。日和ったら負けだ。
そうは思うものの、時間がたてばたつほど思考はどんどん後ろ向きになる。くじけそうな気持ちを鼓舞しながら、根気強く待ち続けて一週間。
ようやく、チャンスが訪れる。
その日、決して早いとは言えない時間に帰宅したお父様が執務室に向かったと聞いた私は、すぐさま目の前の紅茶に『ワンダーポジティブ』を一滴たらした。
淡い水色は、あっという間に紅茶と同化する。
それを景気づけにぐいっと飲み干すと、心の底から勇気がみなぎってくるような圧倒的な無双感が溢れ出す。さすがは『元気百倍薬』。やばい。即効性がすごい。アルフリーダ様、マジですごい。
これで準備は整った。
いざ、尋常に、勝負……!
「お父様、今よろしいでしょうか?」
この前と同じようにおずおずとドアを開けると、お父様はやっぱり執務机の向こうで何やら書類に目を通していた。
「ルーシェルか? なんだ?」
私を一瞥すると、つまらなそうにまた書類に目を落とす。温かさの見えない声に怯みそうになりながらも、私は執務机に向かって歩き出す。
「実は、お父様にお願いがあって参りました」
「なんだ?」
書類から目を離さないお父様の正面に立つと、私は大きく深呼吸した。
「ハルラス殿下との婚約を解消させてください」
さすがのお父様もハッとして、勢いよく顔を上げたかと思うと真っすぐに私を見つめる。
数秒の睨み合い。そして――――
「わかった」
以上。
「え? 終わり?」
「何がだ?」
やばい。声に出ていた。
「だって、『わかった』って、どういう……?」
「婚約を解消したいのだろう? 即日で解消してやる」
「は?」
「お前が言い出すのを待っていたんだ。というか、いつ言ってくれるのかとずっと待っていた」
「は?」
「ハルラス殿下の学園での様子に関しては、とっくに王城にも噂が届いている。去年まではなんの問題もなかったが、今年に入ってあのなんとかという男爵令嬢が編入してきてからの殿下は何なのだ。陛下でさえ、頭を抱えているんだぞ」
「陛下まで……?」
「当たり前だ。お前という当代随一の婚約者がいながら、常識知らずの勘違い令嬢に入れ揚げて不誠実な言動を繰り返しているとは何事だ。あの痴れ者がお前を放置していると聞いて、私がどれほど怒りに震えていたか……!」
「え……?」
「お前が殿下に恋情を抱いていたのは知っている。だからこそ王子妃教育にもこれ以上ないほど熱心に取り組んできたのだろう? ところがあのポンコツは愚かな珍獣にうつつを抜かし、お前のことなど放ったらかしだと専らの噂だ。その話を聞くたびに、婚約解消を提案しようと幾度も思ったのだ。珍獣に夢中になって、お前を傷つけ続けるようなぼんくらとの婚約なんて解消してしまえと何度言おうとしたかわからない。でも殿下のために努力を重ねてきたお前の気持ちを思うと、それが正しいことなのかわからなかった。もしかしたら、傷ついてでも殿下のそばに在りたいと、それほどまでに殿下を想っているのかと……」
そんなわけないでしょう。と思いつつも、お父様の葛藤が衝撃過ぎて何も言えない。
「だからお前が殿下を見限って、婚約を解消したいと言ってくれるのを今か今かと待っていたのだ。本当はラウリエ伯爵家の材料採取に同行したいと言いに来たとき、もしや殿下との婚約の話かと期待したのだが」
「え?」
そうなの?
そういえばあのとき、材料採取の話だとわかってなんだか妙に間の抜けた反応が返ってきたけど、あれってそういうことだったの?
「……でも、いいのですか? お父様にとって、この家から王妃を出すことは悲願だったのでは……?」
恐るおそるそう言うと、お父様はわかりやすく眉間に皺を寄せる。
「そんなことははじめから望んでいない。誰に聞いたのだ?」
「え?」
「私が望むのはお前たちの幸せのみだ。お前を傷つけ、これまでの努力を踏みにじり、未来の幸せを脅かすような愚か者に誰が嫁がせたいと思うか。そんなやつはこっちから願い下げだ」
「で、でも、この婚約には政略的な意味合いがあったのでは……?」
「まあ、なくはないが、それほど重要なものでもない。うちは別に、王家とのつながりを持ちたかったわけでもないしな。王家としては宰相家の娘を娶ることで第一王子の治世を盤石なものにしたい思惑もあったのだろうが、何よりハルラス殿下がお前との婚約を望んだのだ。ひと目惚れしたとかなんとか言ってな」
「そうだったの?」
「それなのに堂々と醜態をさらしおって、あのすっとこどっこいめ。あんな口先だけの見かけ倒しに大事な娘はやらん。今回の件でハルラス殿下の立太子の話もとっくに立ち消えだしな。ざまあみろだ」
……え。
どんどん荒ぶるお父様が、今とんでもないことを言ったような気がするんだけど。
でもそれよりも、驚愕の事実をこれでもかというほど並べられて私の理解が追いつかない。もしかして、今まで私が思ってたことって全部ただの思い込みだったってこと? 私ってば、いつからかどういうわけか盛大な思い違いをしていたってことなの?
情報量の多さに混乱する私を尻目に、お父様はすっと立ち上がる。
「とにかく善は急げだ。明日の朝一番で陛下に婚約解消を申し入れる。昼には晴れて、お前は自由の身になっているだろうよ」
「いや、王族との婚約解消ってそんなに簡単なことじゃないと思うんだけど……」
「お前が婚約解消を望んだら、すぐにでも手続きを進めるられるようとっくに準備はできているんだ。まあ、安心して待っていなさい」
かくして。
お父様の宣言通り、翌日の昼前には私とハルラス殿下の婚約が解消になったと大々的に報じられたのである。
◇◆◇◆◇
「先生は、知ってたんですか?」
婚約解消の翌日。
一部始終を報告しようと、先生の研究室を訪れる。開口一番「がんばったな」と言われて、なんでだか先生を直視できない自分に焦る。
「知ってたって、何をだよ?」
「お父様のことです。私が思ってたのと、お父様が考えていたことが全然違ってて」
「ほう」
「でも先生ははじめから、親に話せ、話してみなきゃわからないって言ってましたよね? もしかして先生はお父様の思いを知ってて、それで話してみるよう勧めてくれてたのかなって」
「うーん、多分知らなかったのは、お前だけだと思うんだが」
「は?」
「侯爵の子煩悩ぶりはわりと有名な話だからな。あの人、ちょっと強面で表情も動かないからわかりにくいけど、相当な家族思いだよ。姉上も『宰相がいつも仏頂面でご機嫌斜めなのは、忙しすぎて早く帰れないからだ』って言ってたし」
「え?」
「子どもたちの話になると真顔でべた褒めし出すとか、家族のイベント事がある日は早く帰るために鬼畜並みの仕事量をこなすとか、そういう話はよく聞いてたけどまさか娘のお前にその愛情がまったく届いていなかったとはな。むしろ驚きしかなかったよ」
そう言って表情を和らげる先生の話に、こっちのほうが驚きである。なんだその、家族思いエピソードの数々は。子煩悩なら子煩悩らしく、もう少し表情を緩めてくれてもいいと思うんだけど。わかりにくすぎるのよ。
「まあ、お前たち親子にとって致命的に足りないのは会話だな。言葉というか、コミュニケーションというか」
「それは、痛感しております……」
「でもこれで、お互いの気持ちがわかったんだから逆によかったんじゃないか?」
「それもこれも、先生と『ワンダーポジティブ』のおかげです」
言いながら、私は鞄からあの小瓶を取り出した。テーブルの上に置くと、淡い水色の液体がきらりと揺らめく。
「え、お前、ほんとにそれ飲んだの?」
ちょっと前のめりになって、素っ頓狂な声を上げる先生。
「……飲みましたけど。どういう意味ですか?」
「いや、それさ、実は『ワンダーポジティブ』じゃないんだよな」
「は?」
思ってもみない言葉に、私は唖然としてしまう。
「というか、『ワンダーポジティブ』は実在しない。アルフリーダが開発しようとしたんだけど、結局は途中で頓挫したんだよ」
「じゃあ、これは……?」
「それはな、『なんでも美味エッセンス』だ」
…………は?
「覚えてないか? アルフリーダがかつて開発した『どんなにまずい飲料でも一滴たらせばおいしくなる』っていう」
「もちろん覚えてますけど」
「最初にここに連れてきたとき、俺がブレンドした紅茶飲ませただろ? 改めてあれを飲んだらやっぱりまずいなと思って、それでアルフリーダの調合法を見ながら『なんでも美味エッセンス』を作ってみたんだよ。一滴たらして飲んでみたら超うまくなったから、常備してあるんだ」
「え、じゃあ、昨日私が感じた圧倒的な無双感は……?」
「それはな、紛れもない偽薬効果だ」
ニヤリと悪戯っぽく笑う先生に、うまいこと言い返せるわけもなかった。