8 ワンダーポジティブ
放課後になった瞬間、私はラウリエ先生の研究室に駆け込んだ。
「おう、来た――」
「先生!」
有無を言わさぬ私の勢いに、先生は目を見開く。
「ど、どうした……?」
「いつの間にか、恋心が粉砕されてました!」
「は?」
何を言ってるんだとばかりに私を凝視する先生に、さっき廊下で二人に会ったことを手短かに伝える。
「びっくりするほど、冷めてたんですよ私」
「……ほう」
「ハルラス殿下を見ても、ハルラス殿下にまとわりついてるマリーナ様を見ても、なんだかこう、心が一つも動かないというか、全然動じないというか」
「へえ」
「振り返ってみれば、最近ハルラス殿下のことを考える時間がめっきり減っていたんです。『恋心粉砕薬』のことを考えたりラウリエ家の材料採取に参加する準備をしたり、ここで部屋の掃除をして魔法薬学の本を読んで、そんなことにかまけていたらだんだんハルラス殿下の存在自体が小さくなっていたみたいで」
「なるほどな」
「でも全然気づいてなかったんです。仲睦まじい二人を目にすると息もできないほど苦しかったのに、驚くほど冷静に話せている自分がいて、なんだか信じられないけど妙に清々しているというか。ハルラス殿下と過ごしたたくさんの時間を思い出すと少し寂しい気もするんですけど、でもそれだけなんです。別にもう、どうでもいいかなって」
ハルラス殿下への想いを持て余し、痛みに喘いでいた日々はすでに遠ざかっていた。
自分以外の人に心を傾ける不誠実な婚約者のことより、今の私は魔法薬のことを考えているほうがずっとずっと楽しい。頭の中は魔法薬に関することだけでいっぱいで、ハルラス殿下の存在なんて頭の片隅からも追いやられている。あんなに好きだった気持ちは、どこへ行ってしまったのだろうと思ってしまうほど。
「そうか」
一方的な私の報告を聞きながら、先生が可笑しそうに笑う。
「お前もアルフリーダと一緒か」
「は?」
「アルフリーダはな、実は『恋心粉砕薬』を使ってないんだ」
「え? でも、効果は実証済みだって……」
「アルフリーダ自身も、『恋心粉砕薬』の開発に夢中になっているうちに自然と恋情が消え失せてしまったんだと。日記にそう書いてある」
「そう、だったのですか……? でも、じゃあ効果はどうやって……?」
「どうしても欲しいと言う友人に渡したんだ。最初はアルフリーダも断っていたんだが、その友人がどうにも引き下がらなかったらしい。だいぶ切羽詰まってたんだろうな」
「渡した相手のことも、日記に書かれてるのですか?」
「名前まではさすがに書いてないよ。ただあの時代の国内の情勢を考えれば、誰のことなのかおおよその見当はつく」
「……もしかして、どこぞの高貴なお方ってことですか?」
「まあ、そうかもな」
不敵に笑う先生。ちょっと。ますますアルフリーダの日記が読みたくなっちゃうじゃない。門外不出ってとこがほんとネックなんだけど。
「じゃあ『恋心粉砕薬』はどうする? 作らなくてもいいのか?」
先生が軽い調子で尋ねる。
確かに、粉砕したいと思っていた恋心はとっくに見事にきれいさっぱり霧散してしまっている。となると、作る必要性は、どこにもない。
「そうなんですよね。どうしましょう?」
「うーん、まあ、材料もそろってるし作ることはできるが、使う当てのないものをあえて作るってのもちょっとな……」
「ダメですか?」
「ダメってことはないが、万が一誤用したり悪用されたりしたときのことを考えるとな。その辺の一般的な魔法薬じゃない、いわばアルフリーダの『秘薬』なわけだから」
「そうですよね……」
「でも作ってみたい気持ちも、正直ある」
「ですよね! じゃあ、やっぱり」
「いや、でもな……」
押し問答のようなやり取りを繰り返し、結局『恋心粉砕薬』の調合は保留になった。作ろうと思えばいつでも作れるけど、それなりにリスクもあることを考慮した結果である。
「でもお前、これからどうするんだよ?」
「何がですか?」
「ハルラス殿下への恋情はなくなって、二人を祝福するようなことまで言ってのけたとしても、お前が殿下の婚約者である事実は変わらない。このまま自分は正妃になって、マリーナ・ノルマンは側妃にすればいい、とかそういうことか?」
「まさか」
語気を強めて即答する私に、先生は訝しげな顔をする。
「父に、婚約解消を願い出ます」
きっぱりと言い切った。
言葉にしてみたら、意外なほどすんなりと、心に馴染む。
どうしてこれまでその考えに至らなかったのだろうという気持ちと、ようやくここまでたどり着いたのだという気持ちとが交差する。
「『恋心粉砕薬』を作りたかったのは、恋情なんてないほうが冷静でいられると思ったからです。このまま王子妃、いずれは王妃として生きていかなきゃならないのならそのほうが楽になれる気がしたし、それが必要だとも思いました。でもいざ恋心がなくなったら、なんでそうまでしてあの方に尽くさなきゃならないのかなって考えちゃって。もう好きでもないし大事にもされないのに、どうして私が犠牲にならないといけないんだろうって思ったら、もう一秒でも早く婚約を解消してあの方から解放されたくなったんです」
鼻息も荒く、一気にそこまで話すと先生が納得したように優しく微笑む。
「それで、侯爵に婚約の解消を願い出ようと思ったのか?」
「はい」
「でもできるのか? 今までだって、俺が散々親に話してみたらどうだ? って言ってもお前はそれができたら苦労しないとかなんとか言って拒んできたくせに」
「そうなんですよね……」
先生の言うことは、もっともである。これまでは親に言ってもどうせわかってもらえない、きっとどうにもならないと諦めていた。高を括っていた。行動する前から、結果を決めつけていた。
でもそれじゃダメだと気づいたのだ。ダメというか、もうそれでは私の気持ちが収まらない。殿下とはこれ以上かかわりたくないし、一刻も早く婚約を解消してしまいたい。それがどんなに難しいことでも、私はどうにかして親を説得しなきゃならないし、してみせる。
そういう、達観の境地なのである。
とはいえ。
「先生も言ってたじゃないですか。『話してみなきゃわからないし、どうしてもと言うならどうにかして説得するしかない』って」
「ああ、言ったな」
「今はそういう気持ちで自分を奮い立たせてるんですけど、次の瞬間にはほんとに親に言えるのかな、とかやっぱり話しても無理なんじゃ、とか怖気づいてしまう気持ちもあって」
「そりゃそうだろうよ」
あっけらかんと笑う先生を見て、普段はやさぐれたこの人もこんな笑い方をするんだなと思う。先生がこんなに無防備に笑うのは、初めて見た気がする。
「多忙な侯爵と接する時間なんてほとんどないまま育ってきたお前が、侯爵に対して見えない壁を感じてしまうのは当たり前のことだ。そのうえ言いたいこともずっと我慢して、逆らうことなんかできなかっただろうしな」
「……はい」
「それがいきなり婚約解消を願い出るんだ。怖気づいて当然だろ?」
「そうでしょうか……?」
「まあ俺としては、今までずっと敵前逃亡していたやつが背水の陣で挑む決意をしたことのほうが、余程すごいと思うけどな」
は? 何それ。敵前逃亡してたやつって何よ。とは思うものの、事実なので何も言えない。
それに、さらりと褒められたような気もして、なんだか急に顔が熱い。
「というわけでだ」
先生はいきなりソファから立ち上がり、机の脇にある魔法薬保管庫から何やら取り出した。ガラスの蓋がなされた小瓶には、とろりとした淡い水色の液体が入っている。
「お前にこれをやろう」
「なんですかこれ」
「『勇気百倍薬』、通称『ワンダーポジティブ』だ。アルフリーダの調合リストに載っていたから、試しに作ってみた」
「は?」
手渡された小瓶と先生とを交互に見つめると、先生は訳ありげにふふんとほくそ笑む。
「いざというとき、ちょっと勇気がほしいとき、背中を押してくれる薬だそうだ。それを紅茶か何かに一滴たらして飲めば自然に勇気が湧いてきて、なんでもやれそうな前向きな気持ちになるらしい」
「……そんな魔法薬があったんですか?」
「まあこれも、アルフリーダの秘薬ってわけだな」
「天才過ぎますね、アルフリーダって」
「言っただろ? 『異端の天才』なんだよ」
自慢げに目を細める先生の顔を見ていたら、私だってなんでもできそうな、常勝不敗の英雄にさえなれそうな、そんな気がしてきた。