7 火炎石
「よし、よくできたな」
結果として、『憂い草の朝露』の採取は難なく成功した。もちろん、先生の的確なサポートがあったからだけど。
小瓶を目の高さまで持ち上げてゆらゆらと少し揺らすと、朝露が鮮烈な光を放つ。
「今日はこれが終わったら家に帰ってゆっくり休め。あさっての放課後なら時間が取れるから、早速調合してみるか?」
「いいんですか?」
「早く作ってみたいだろ?」
「はい!」
帰り支度をしているみんなのところに戻ると、案の定ユリウス様が
「なにコソコソしてんだか」
なんて悪態をつき、ヴィオラ様にこっぴどく怒られていた。
「ルー姉様、また遊びに来てくれる?」
「え?」
「ルーシェル嬢、よければまたいらしてください。いつでもお待ちしていますから」
ヴィオラ様が可愛らしい顔でおねだりするように私を見上げ、ロヴィーサ様もその後ろでにこやかに微笑んでいる。
「いいんですか?」
一応、と思って片づけをしている先生のほうを窺うと、途端に柔らかな笑顔を見せる。
「ヴィーの遊び相手になってやってくれよ」
「はい! もちろんです!」
「じゃあ、ルー姉様がいらっしゃるときは、絶対にユリウスお兄様が来ないよう気をつけなきゃ」
「なんでだよ!」
どこまでも賑やかな笑い声に包まれながら、この温かな縁がいつまでも続いたらいいのに、と願わずにはいられなかった。
そのまま伯爵家の馬車で送ってもらい、うとうとしながら帰宅すると驚いたことに玄関でお父様が待ち構えていた。
「お父様? どうかしたのですか?」
「あ、いや、ちょっとな……」
「これから王城に行かれるのですか?」
「いや、今日は出仕を遅らせたんだ。お前が帰ってきてからと思って……」
「え?」
「伯爵からも今回の採取は危険を伴うものではないし、心配は無用だと直接挨拶を受けていたんだがな。でもまあ、ちょっと気になってな……」
「え?」
眠くて頭が回らないからだろうか。お父様の真意が掴めず、ついまじまじと見返してしまう。
「……どうだ? 楽しかったか?」
遠慮がちに尋ねるお父様なんて、初めて見たかもしれない。
「もちろん、とても楽しかったです」
外泊なんて初めてだったし、小さなお友だちもできたし、ユリウス様は微妙に鬱陶しかったけど、ラウリエ家総出の材料採取はちょっとした早朝のピクニックみたいでワクワクした。地平線から顔を覗かせる太陽の輪郭を見たのも初めてで、朝日に照らされた先生の顔は別人のように秀麗だった。
あんな貴重な体験、二度とできない。
「ルーシェル」
「はい?」
お父様はなぜか思い詰めたような険しい顔になって、何か言おうとして口を開きかけ、そして「あ、いや……」と諦めたように目を逸らす。
「ゆっくり休みなさい」
それだけ言って、背を向ける。
「あ、お父様」
いつもなら、こんなふうに呼び止めるようなことはしない。でも眠すぎて思考が溶けていたのか、私は咄嗟に声を発していた。
「行かせてくれて、ありがとう」
「……行きたいときは、また言いなさい」
予想外の答えが返ってきても、私はただへらへらしながら大きなあくびをしただけだった。
◇◆◇◆◇
翌々日。
待ちきれない思いで、一日を過ごす。
こんな日に限って、魔法薬学の授業もない。今日はまだ、先生を一度も見かけていない。まさか来てないってことはないわよね? なんて無駄に疑心暗鬼に陥っていたから、まったく気づかなかった。
「ルーシェル」
不意に、呼び止められる。
私を呼び捨てにする人なんて、一人しかいない。嫌な予感に、すぐさま振り返る。
「なんだか久しぶりだな」
目の前で涼やかな笑顔を浮かべているのは、第一王子その人だった。物思いに耽っていた私はハルラス様にまったく気づかず、すぐ脇を追い越そうとしていたらしい。
「こ、これは失礼いたしました」
すぐさま一歩退き、平身低頭の姿勢を取るとたまたま居合わせたまわりの生徒たちがざわついた気がする。
「嫌だな、ルーシェル。そんな他人行儀なことしないでよ」
困ったように苦笑するハルラス様。そういえば、いつも隣に侍っているマリーナ様の姿が見えない。
「ルーシェル、王子妃教育が一段落したそうだね。さすがだよ」
「もったいなきお言葉でございます」
自然に口をついて出た言葉が、まったく自然ではなかったことに我ながら驚く。他人行儀とやんわり咎められ、妙によそよそしい態度になってしまっている自覚はあるのだけど、じゃあ今まではどんなふうだったかと問われてもさっぱり思い出せない。
そんな私に苦笑したまま、ハルラス様はなおも続ける。
「最近、あまり顔を合わせることがなかっただろう? どうかしたのかと心配していたんだ」
確かに、最近はずっとラウリエ先生の研究室にいることが多かったから。片づけたり掃除したり、そのまま借りた本を読んだりなんならそこで勉強したりしていて、先生にも「俺よりここにいる時間長くね?」と言われるくらい、長居している。というか籠っている。なんか快適すぎて。
だから学園内でハルラス様にエンカウントする機会は、確実に減っていたのだ。
「お気遣いいただき、ありがとうございます。ですがご心配には及びません」
「そうか。なら――」
「ルーシェル様! ひどいです!」
突然横から現れた小動物を思わせる珍獣に、私だけではなくこの場にいる誰もが目をパチクリさせる。
珍獣は当たり前のようにハルラス様の左腕に縋りつき、その異様に甲高い声を張り上げた。
「そんな、わざとよそよそしい、冷たい態度を取らなくてもいいじゃないですか! ハル様がかわいそう!」
「……は?」
「ハル様はルーシェル様のことを心配しているだけなのに! いくら私たちに嫉妬しているからって、その態度はあんまりです!」
…………開いた口が塞がらない、とはこのことを言うのだろう。
とにかくどこからツッコめばいいのかわからない。ツッコミどころがありすぎる。ハルラス様でさえ、ちょっと困惑している。多分。
「……ですから、お気遣いいただきありがとうございますとお礼申し上げました」
「そういうのがわざとらしいって言ってるんです!」
「マリーナ、よさないか」
「でもハル様!」
真正面で痴話喧嘩を始める二人を眺めながら、私は唐突に気がついた。
動揺一つせず、冷めた目で二人を見据えている自分自身に。むしろ、そこはかとない煩わしさすら感じてしまっていることに。
二人を前にすると必ず巻き起こっていたどうしようもない嵐は、いつの間にかどこか遠くへ行ってしまっていた。むしろ、心の中は凪いでいる。というか、無風。
信じられないことだけど、行き場を失くしてくすぶっていた恋心という名の熱は知らず知らずのうちに霧散していたらしい。
代わりにあるのは、私と二人との間に横たわる果てしない距離。致命的な断絶。
でも私は、楽に呼吸ができている。
「ハルラス殿下、マリーナ様」
穏やかに微笑む。それは決して、自分を守るための愛想笑いなどではなく。心の底から笑える日は、とっくに訪れていた。
「ご気分を害されたのでしたら、お許しください。ですがお二人の仲を嫉妬するなど、滅相もございません。お二人の末永いお幸せは、臣下として心よりお祈りいたしております」
言いながら、すんなりと覚悟は決まっていた。
なんだか急に目が覚めたような、正気に戻ったような気さえして、笑みがこぼれてしまう。
これまでずっと頑なに排除してきた選択肢が、私の中で俄かにその存在感を増していく。どうなるのかは、わからない。でも先生だって言ってたじゃない。話してみなければわからない、どうしてもというのならどうにかして説得するしかないって。
私は私の未来を、やっぱり諦めたくないんだもの。
恥知らずな二人に向かって火炎石を投げつける不敬な妄想が理由もなく脳内に浮かんでしまって、また一つ笑みがこぼれた。