62 奇跡の魔女
数か月後。
その日は、どこまでも続く快晴だった。
「先生、おきれいです!」
「せんせえーー!」
「え、ちょっと、泣かないでよ」
「だって……!」
「先生、先輩はこの一週間くらいずっと泣いてます」
「え、なんで?」
感極まってまた泣き出すマリーナを、アルヴァーがここぞとばかりに慰める。
「姉さん、マリーナを泣かせないでよ」
「だからなんで? てか、どさくさに紛れて抱きしめてない?」
「な、なに言って――!」
「アルヴァー、うるさいぞ」
「あ、義兄上まで……!」
真っ赤になって口をぱくぱくさせるアルヴァーを見て、セルマ嬢もギルロス殿下も、さっきまで泣いていたマリーナでさえ笑い出す。
「お前たち、俺の大事な奥さんをあんまり疲れさせんなよ。体に障るだろ」
そう言って、鏡の前に椅子を持ってきて私を座らせるディーン。「大丈夫か?」とか「具合悪くないか?」とか心配そうに確認することも忘れない。
「大丈夫ですよ。幸い、今のところなんともないので」
「悪かったな、こんなタイミングになって」
「いえ、むしろ今でよかったと思いますよ?」
意味ありげな顔をして、ディーンを見上げてみる。もしかしたらもっと体調が悪い時期にぶつかってしまった可能性もあるし、更にあとだったらドレスを調整するか、ドレスそのものを変更しないといけなかったかもしれないし。
そんな私たちの会話を聞きながら、ニヤニヤし出すのは研究室のいつものメンバーである。
「ディーン先生の溺愛に拍車がかかってる……」
「過保護が加速しているというか」
「そりゃあ、叔父上にとってはおめでたいことだしさ」
「もちろん、僕にとってもね」とうれしそうに微笑むギルロス殿下。
あれから、ギルロス殿下とセルマ嬢の婚約は無事正式に決まり、二人は順調に愛を育んでいる。学年が違うせいか、何かと研究室を待ち合わせ場所にしているけど。別にいいんだけど。
ギルロス殿下はセルマ嬢との婚約が決まると同時に、立太子することがほぼ確実となった。多分、学園在学中には正式に決定するだろう。賢明で洞察力に優れ、謙虚で人望もあるギルロス殿下に期待を寄せる声は多い。
ちなみに、第一王子ハルラス殿下のほうはやっぱり婚約者が決まらず、結局大陸北部の大国に婿入りすることがつい先日発表されたばかりである。本人はすごく嫌がっているらしいけど。だって、北方の大国は代々女王が治めていて、ハルラス殿下はその三番目の王配として婿入りすることになるのだもの。宰相(つまりお父様)は、「貰い手があっただけありがたいと思っていただきたい」とかなんとか言っていたらしいけど。ハルラス殿下にはどこまでも手厳しいお父様である。
一方、マリーナはといえば。
ノルマン男爵がゴート商会の面々とともに罪を裁かれ終身刑を言い渡されたこともあり、養子縁組は解消となった。そして、本来の立場だった平民に戻ることになる。
でもディーンが言っていた通り、学園には特待生制度というものが存在する。宰相の口添えもあったため、マリーナがただの平民のマリーナとして学園に通い続けることになんの支障も生じなかった。だからマリーナはすぐさまフォルシウス侯爵邸から出て、学園の寮に移り住んだ。
これに焦ったのは、アルヴァーである。というか、多分、今も焦っている。
二人の婚約がノルマン男爵からマリーナを守るための偽装だったことも公になってしまい、アルヴァーはマリーナと一緒にいる口実を決定的に失ってしまった。それでなくてもマリーナはアルヴァーの気持ちに一切気づかず、さっさと侯爵家から出て行ってしまったのだ。更に自分の気持ちを自覚したアルヴァーが意を決して想いを伝えても、それまでの態度が悪すぎてまったく伝わらないという不運も重なる(むしろ自業自得)。だから二人の仲は、驚くほどなんの進展もしていない。
ただ、最近マリーナにアルヴァーのことを尋ねるとあからさまに挙動不審になるから、もしかしたら何かが変わりつつあるのかもしれない。
本気を出したアルヴァーがマリーナの心を掴むため用意周到に外堀を埋め始め、気づいたらマリーナを掌中に収めていた、なんて未来が来るのは、もう少し先の話である。
「それじゃあ、私たちは向こうで待っていますので」
セルマ嬢がそう言うと、賑やかな四人はわちゃわちゃと控室を出て行った。ディーンと二人きりになると、ついつい本音が漏れる。
「なんだか少し、緊張しますね」
我ながら柄にもない、とぎこちなく笑うと、ディーンが私の手をそっと握る。
「心配するな。今日のルーは世界一きれいだよ」
「ディーンだって、まぶしすぎて直視できないです」
「マジか? めかしこんでみるもんだな」
硬い空気をほどくように、わざと軽い口調で悪戯っぽい目をする夫。安心する。そして、勝てないなあ、と思う。
「……式もそうですけど、そのあとお披露目パーティーがあるじゃないですか? キルカ公爵家としてのデビュー戦なんだなと思ったら、やけに緊張しちゃって……」
「そんなに気負うものでもないだろ? 姉上たちだってグスタフだって、みんないるんだし」
「それは、そうなんですけど……」
「大丈夫だよ。お前が心配するようなことは何もない。『奇跡の魔女』様は、安心して俺の隣にいてくればいいんだよ」
「……その呼び名が元凶なんですけど」
「はは、悪い悪い」
ディーンはけらけらと笑いながらもう一つの椅子を持ってきて、私のすぐ隣に置いた。並んで座ると、愛おしげな目で私を見つめる。
「困り事を抱えるたくさんの人たちのために、類まれなる独創的な魔法薬を次々に生み出す『奇跡の魔女』。奥さんが有名人で、俺も鼻が高いよ」
「……褒めすぎですよ。大体、半分はディーンの功績じゃないですか」
「そうか? 俺は別に、何もしてないけどな。俺がしたことといえば、気の済むまででろでろにルーを甘やかしてたくらいだけど」
そう言って、とろけるような笑顔のディーンがちゅ、とこめかみにキスをするからどうにも反論できなくなってしまう。
『嘘発見薬』の開発以降、私たちの研究室にはたくさんの迷える学園生たちが足を運ぶようになってしまった。
言ってみれば、ちょっとした駆け込み寺状態である。
訪れる学園生たちの話を聞いてみると、「婚約者との仲を深めたいがどうしたらいいかわからない」という実直な令息の可愛らしい相談もあれば、学生らしく「頭がよくなりたい」とか「集中力を上げる魔法薬がほしい」なんていう依頼もあった。いつも俯き加減で思考も後ろ向きになりがちな令嬢が「高慢で自分を見下す婚約者をぎゃふんと言わせる勇気がほしい」と相談に来たこともあったし、終いには噂を聞きつけた学園生の親が現れて「毛生え薬を作ってほしい」とか「事情があって生き別れになった妹を探してほしい」なんてとんでもない話をされたこともあった。
そのすべてに、新たな魔法薬を開発したわけではない。でも学業に勤しむ学生のために『集中力爆上げ薬』を生成し、勇気がほしいと言った令嬢にアルフリーダが断念した『勇気百倍薬』の材料を選び直して『ワンダーポジティブ・リブート』を完成させ、生き別れた妹を探したいと願う某伯爵のために『血縁判定薬』を開発した。
そんなことをしていたら、いつのまにかあんな二つ名で呼ばれるようになっていたのだ。
学園生以外の相談や依頼が増えている現状に、ラウリエ研究所では『個別依頼対応部門』を立ち上げる話も浮上している。これまでもそうした依頼はあったけれどさほど数が多いわけではなかったし、本来の業務からは少し逸脱していたこともあってイレギュラーな対応として処理されてきたのだ。それをしっかり部門として立ち上げて、世の中のニーズに応えようという意図らしい。
「ディーンの助手をしながらでいいから、こっちの手伝いもしてくれないかしら?」とロヴィーサ様に提案されてまもなく、なんと私の妊娠が判明する。
妊娠がわかったとき、本当は少し怖かった。
ディーンがどんな反応をするのか、予想がつかなかったから。子どもがほしいと言ってはいたけど、いざとなったらやっぱり気後れするんじゃないかとか、複雑な顔をされたらどうしようとか。ずっと一人で孤独に生きていこうとしていた人だから、余計に。
でもそんなのは、完全に杞憂だった。
ディーンは喜びのあまり私を抱き上げて、ちょっと涙声になりながら「すごい、すごいよルー!」と叫んで、それから慌てて私をソファに降ろしたあと「ご、ごめん! いきなりびっくりしたよな? 大丈夫か?」なんて一人で大騒ぎしていた。
それからは、まさに上げ膳据え膳、至れり尽くせりの生活で、むしろ自分一人では何もさせてもらえない状態になってしまう。研究所の新部門を手伝う話も保留になり、学園での助手の仕事すら休むように言われて初めてちょっとケンカになった。
しかも、王都の一等地に建設中だったキルカ公爵邸が完成したため、一週間後には私たちの結婚式とお披露目パーティーが控えているというタイミング。
もう全部キャンセルしよう、なんて無茶なことを言い出すディーンを宥めるのは、だいぶ苦労した。珍しく非現実的な主張をする夫には苦笑するしかなかったけど、今のところは悪阻も何もないし、体調が悪いわけではないのだからと説き伏せて医者からもお墨付きをもらい、今日という日を迎えることができたのだ。
なんというか、本当にバタバタな一週間だった。
でも嬉々として私の世話を焼きたがるディーンを見ていると、なんだかんだ言ってやっぱり幸せだなと思ってしまう。
「ルー」
不意に呼ばれて、隣に目を向ける。
なぜか深刻そうな顔をするディーンに「なんですか?」と首を傾げると、今度は私の手をぎゅっと強く握る。
「俺を選んでくれて、ありがとう」
「え?」
「俺と違って、お前にはもっと別の選択肢があったはすだ。でもお前は俺を選んでくれて、俺の意固地な決意を受け入れて、そのうえともに生きることを誓ってくれて、おかげで諦めていた新しい家族まで授かったんだ。こんな奇跡、ほかにないだろ」
「そんなの……」
「俺にとっては、お前の存在そのものが奇跡だよ」
切なげなラベンダー色の瞳が、少し揺れている。ディーンの右手が、私の頬に触れる。
「ずっと一人で生きていくつもりだった俺にとっては、お前もその子も奇跡でしかない。俺の生きる意味、俺のすべてだよ」
「ディーン……」
「だから生涯、俺のそばにいてくれるか?」
溢れる涙をこらえて頷くと、優しく微笑むディーンの顔がゆっくりと近づいてくる。
「ルーシェル、愛してる」
これ以上ない甘いささやきが目の前で紡がれたのを合図に、私はゆっくりと目を閉じた。
私にとってはあなたこそが奇跡なのだと、そう思いながら。
完結です!
最後までおつきあいいただき、ありがとうございました。