6 憂い草の朝露②
ラウリエ伯爵家では、到着早々丁重なおもてなしを受けた。
私の訪問と滞在に最も大きな関心を寄せてくれたのは、ラウリエ伯爵の一人娘ヴィオラ様と先生の従兄弟で王国騎士団長家の令息でもあるユリウス・バーリエル様だった。
ヴィオラ様は、八歳になったばかりの可愛らしい女の子。伯爵よりも淡い薄墨色の髪に、やっぱりラベンダー色をした愛くるしい瞳をキラキラと輝かせ、
「ルーシェル様のこと、ルー姉様とお呼びしてもよろしいですか? 私のことは『ヴィー』と呼んでくださって構いませんので!」
なんて早くも完全に懐かれてしまった。たまらない。可愛いが過ぎる。
一方のユリウス様は黒髪に端正な顔立ちの偉丈夫で、物静かな印象の硬派な人かと思いきや、
「まさかディーンの秘蔵っ子が第一王子の婚約者とはねえ」
なぜかそこはかとない敵意を向けられている気がしないでもない。
「ハルラス殿下が別の女性に夢中だからって、ディーンに色目を使うのはどうかと思うが」
はっきりと皮肉めいた物言いに、唖然としてしまう。
いやいや、なんでよ。
『秘蔵っ子』はともかく、『色目を使う』ってのはなんなのよ。なんでそんな話になってるのよ。私がラウリエ先生に取り入って、何がどうなるというのだろう? まあ、今のところだいぶ世話にはなっているけれども。先生の厚意に甘えている自覚はあるけれども。
でもいくら先生の親戚だからって、初対面の人にそんな言われ方をされる筋合いある? いや、断じてない。
沸々と湧き上がる怒りをひた隠し、王子妃教育で培った鉄壁の微笑みを浮かべて言い返そうとしたら。
「ユリウスお兄様。ルー姉様に失礼なことを言うのでしたら、お帰りいただきます」
「は? ヴィー、何言って――」
「ルー姉様はディーンの大事なお客様だから、しっかりおもてなししないとねってお母様が言っていたもの。それなのにあんな失礼な物言い、ラウリエ伯爵家の人間として恥ずかしいわ」
「え、いや、だって――」
「ルー姉様にきちんと謝罪するまで、ユリウスお兄様とはお話ししません」
「ちょっと! ヴィー!」
「なに騒いでるんだ?」
聞き慣れた低い声に振り返ると、先生がようやく学園から帰宅したらしく物珍しげな顔で立っている。
「ディーン! おかえりなさい! ルー姉様はもういらしてるのよ!」
「ルー姉様……?」
「先生、おかえりなさい」
私がそう言うと、先生はどういうわけか一瞬目を見開き、それから呆気に取られて言葉を失った。
そしてちょっとしどろもどろになりながら、
「あ、ああ、来てたのか」
ぎこちなく笑う。
私のほうが先に到着することになるだろうというのは、とっくに打合せ済みなのに。何をそんなに驚いているのだろう。
「ディーン、あのね、ユリウスお兄様がルー姉様にひどいことを言ったの」
そんな先生の不可思議な様子などお構いなしで、ヴィオラ様は容赦なくユリウス様の不届きな態度を告げ口する。
「ひどいこと?」
「婚約者のハルラス殿下のこととか、ルー姉様がディーンに色目を使ってるとか」
「は?」
「いや、だって、今までディーンが材料採取に生徒を参加させたいなんて言ったことないしさ。どっちかっていうと生徒たちとは一定の距離を保ってたはずなのに、急にそんなこと言い出すなんてって思うだろ? しかも相手は第一王子の婚約者だって言うし――」
「ルーシェルはそんなんじゃない。ただ純粋に魔法薬学に興味と関心があって、うちの材料集めに参加してみたいって言うから連れて行くことにしただけだ」
どきりとした。
それは先生の台本通りの説明に、ではなく。
『ルーシェル』と呼び捨てにされたことに、である。
先生は普段、生徒の名前だけを呼び捨てにすることはない。大体がフルネーム、そうでないときは姓のほうだけを呼ぶ。
だから急に名前で呼ばれて、なぜだか異常に心臓が跳ねた。
「ユリウスは王家を目の敵にし過ぎなんだよ。もっと寛大な気持ちでさ」
「あいつらに対して寛大な気持ちでいられるかよ。こいつだっていずれ王家の一員になるんだぞ」
「そうだとしても、今はただの俺の教え子だよ」
ああ、そうか。
唐突に理解する。
ラウリエ伯爵家と王家の確執は有名な話。私は第一王子の婚約者だから、伯爵家にとっては因縁の相手と縁続きになる人間なわけだ。ユリウス様の敵意は、そうした背景があるからだろう。
でも残念ながら、ユリウス様の不満は小さな次期当主に一蹴されてしまう。
「そうよ。お兄様は心が狭いと思うわ」
腰に手を当て、ぷりぷりと小鼻を膨らませるヴィオラ様に、「ちょっと! ヴィーってば!」と泣きつくユリウス様。どうやらユリウス様はこの小さな女王様に頭が上がらないらしく、それはなんだかとても、微笑ましかった。
◇◆◇◆◇
翌日、早朝。
まだ薄暗いうちから起き出して、準備をし始める。
廊下を行き交う人の足音がひっきりなしに聞こえてきて、私もそわそわと落ち着かない。
憂い草の自生地は、実はラウリエ家の管理下にあるという。王都の外れ、ラントの森近くに広大な自生地があり、王家の許可を得て管理しているんだとか。ラントの森自体が魔法薬の材料になる素材の豊富な場所であり、特に森の奥深くにある『精霊の泉』の水はポーションを作るときに欠かせない。
「着いたぞ」
先生に促されて、馬車から降りる。
目の前には青々とした憂い草が伸びやかに生い茂る、圧巻の景色が広がっていた。
「す、すご……!」
「お前は俺についてこい」
後ろから声をかけられ、振り返ると籠やら鎌やらいろんな道具を担いだ先生がみんなとは別の方向に歩き出す。
「え、あっちに行かなくていいんですか?」
「いいんだよ。『憂い草の朝露』目当てだってバレるといろいろ面倒くさいだろ」
「あー、はい」
特にユリウス様辺りが面倒くさそう。ヴィオラ様の手前、ユリウス様はあれ以降失礼な言動は控えているものの、納得してないのは顔を見ればわかる。
「ユリウスがひどいこと言って、悪かったな。お前だって、ある意味王家の被害者なのに」
「でもヴィオラ様が私の代わりにガツンと言ってくれたので」
「ユリウスはヴィーには逆らえないからな」
「どうしてですか?」
「うーん、なんでだろう? 小さい頃はユリウスのほうに懐いてて、ユリウスもだいぶ可愛がってたからな。自分の子どもみたいな感覚なのかもな」
「そういえば、どうして先生のことは呼び捨てで、ユリウス様は『お兄様』なんですか?」
「最初は俺のことも『ディーンお兄様』って呼んでたんだよ。でも義兄上や姉上が『ディーン』って呼ぶから、ヴィーも自然にそうなったんだよな」
他愛もない会話をしながら、二人並んで歩く。
家族の話をするとき、先生は学園ではあまりお目にかかれないような柔らかい表情を見せる。ラウリエの家門の結束力が垣間見えるようでちょっとうらやましい反面、その中に自分が入っていないことに言いようのない疎外感を覚える。
「この辺でいいか」
そう言って、先生は籠やら鎌やらを無造作に置いた。
「これ持ってろ」
手渡されたのは、コルクの栓がされた小さめの瓶。
「その瓶に朝露を入れればいい」
「私がですか?」
「お前以外に誰がやるんだよ?」
え、そんな重大任務を私が? と怯む暇も与えてはくれない。
「大丈夫だ。時間は充分あるし、焦る必要はない。そんなにたくさんの量は要らないしな」
「でも緊張します……」
「お前がやるからこそ、意味があるんだろ?」
気後れする私を尻目に、先生はずるそうにふふ、と笑う。
できるだろうか? もし失敗したら? いろいろ考えてたら手元が震えてきたけど、ここまで来たらやるしかない。
小瓶をギュッと、握り締める。
「見ろ、夜明けだ」
言われて、顔を上げる。
遥か彼方の地平線が、せり上がってくる朝日に照らされてひと際輝き出す。
次の瞬間太陽がその輪郭を現して、世界は少しずつ目を覚ます。
昇る朝日を浴びる先生の顔は見たこともないほど透明で、なんだかずっと見ていたくなって、私はなぜかこの人のことをもっと知りたいと、思った。