56 夏虫草
先触れもなく訪れた私たちではあったけど、さすがに邪険に扱われることはなかった。
でも久々の対面を喜ぶ暇もなく、お父様もお母様も私たちの隣に立つマリーナ嬢に対して怪訝な表情を隠さない。アルヴァーに至っては、わかりやすい敵意を露わにしている。
「突然すまないな、グスタフ」
「一体どうしたというのです?」
「折り入って、頼みがあるんだ」
そのまま応接室に移動すると、ディーンは早速マリーナ嬢を取り巻く事実についてかいつまんで説明する。
ノルマン男爵を頼るしかなかった不運やハルラス殿下との醜態はすべて演技だったこと、改心してからの学園での様子とのっぴきならない差し迫った現状について明かすと、三人ともただただ呆気に取られた顔をしている。
「ちょっと待て。では君は、リネーア・ビョルク子爵令嬢の娘だというのか……?」
驚きで目を見張るお父様の言葉に、お母様もハッとしてマリーナ嬢を凝視する。
「……母を、ご存じなのですか……?」
「もちろんだよ。彼女は学園で私たちの一つ下の学年だったからね。成績優秀で定期試験ではいつもトップだったし、同い年の王妃殿下が唯一勝てない相手だといつも悔しがっていたのだから」
「そうそう。あなたと同じ髪色の可愛らしい令嬢だったわね。でも突然、学園を退学してしまって……」
「子爵家が事業経営に失敗して爵位を返上したことは知っていたが、そんなことになっていたとは……」
お父様もお母様も、どうやらマリーナ嬢の母親と面識があったらしい。急に合点がいったような表情になって、マリーナ嬢に向ける視線も一気に和らぐ。
「そういえばあの頃、ノルマン男爵家がビョルク子爵家に婚約を申し入れたと聞いたことがあるわね。でもそれからすぐにリネーア様は学園を退学してしまったから、その後の話が有耶無耶になって」
「サムエル・ノルマンは品性を欠いた粘着質な男だったし、学園を卒業したあとの評判も決して良くはないからな。爵位を返上して平民になったリネーア嬢を、血眼になって探し回ったのだろう。あんなやつに狙われたとあっては、逃げ切れまいよ」
あとで聞いた話だけれど、現ノルマン男爵であるサムエル・ノルマンは学園生の頃から低劣で粗野なうえに傲慢な性格で、素行の悪い輩とつるんでいるという噂もあったという。
若い頃から碌な人間でなかったことだけは、確からしい。
「とにかくこのままだと、マリーナ嬢はノルマン男爵の愛人にさせられてしまう」
焦燥を帯びたディーンの声が、語気を強める。
「そんなことは言語道断だし、才能ある若者を黙って見捨てるようなこともしたくない。ルーシェルもなんとかしてマリーナ嬢を助けたいと言ってるんだが、残念ながらキルカ公爵家ではマリーナ嬢を保護する正当な理由がない」
「それで、うちに連れてきたのか?」
「そうだよ」
「しかしだな、匿う理由がないのはうちも同じなのだが?」
お父様が眉を顰めると、ディーンは待ってましたとばかりに口角を上げる。
そして自分の斜め前に座る、アルヴァーに目を向けた。
「理由ならある。アルヴァーとマリーナ嬢を婚約させればいい」
「はあ!?」
「え?」
アルヴァーが素っ頓狂な声を出して立ち上がったのとマリーナ嬢が小さく叫んだのは、ほぼ同時だった。
「な、なに言ってるんですか先生!」
「そうですよ。婚約だなんて……」
「幸い、アルヴァーにはまだ婚約者がいないだろ? 二人が恋仲になったとでも言って、婚約が決まったことにするんだよ」
「な、なんで俺が、こんなやつと……!」
立ち上がったままのアルヴァーは、鬼のような形相でマリーナ嬢を睨みつけている。その強い視線に耐えられず、マリーナ嬢は強張った表情で俯いてしまう。
「アルヴァー、言い過ぎだぞ」
「だって……! いきなりそんなこと言われて、『はい、そうですか』なんて言えるわけがないでしょう! いくら今までの態度が演技だったとしても、こんな女すぐには信用できません! それに俺にだって、選ぶ権利くらい……!」
「じゃあお前は、マリーナ嬢がこのままノルマン男爵の愛人にさせられてもいいって言うのか?」
「そうは言ってませんけど……!」
アルヴァーがあからさまな拒絶を表明するのも、無理はない。
なんせ、アルヴァーとマリーナ嬢は同じ学年。クラスは違うけど、去年の醜態を嫌というほど間近で見せつけられてきた一人なのである。
しかも、マリーナ嬢の相手は自分の姉の婚約者であるハルラス殿下だったのだから、誰にもぶつけられない悔しさをずっと抱え続けていたのだろう。
激昂し、ふーふーと息を荒げるアルヴァーに対し、ディーンは顔色一つ変えずに冷ややかな目をしている。
「そう興奮するな。これはな、いわば偽装婚約だよ」
「偽装婚約……?」
「ああ。今はとにかく、マリーナ嬢をノルマン男爵邸に帰さずに保護することが最優先だからな。お前との婚約が急に決まったことにすれば、マリーナ嬢をフォルシウス侯爵邸に引き留めておくことができる。婚約してすぐに嫁ぎ先の家に入って家政をひと通り学ぶなんてのは、別に珍しいことでもないだろ?」
「……確かにな」
思ってもみない話の流れに混乱しているアルヴァーの代わりに、お父様が興味深そうに答える。
「おまけにマリーナ嬢は男爵家の令嬢だ。上位貴族である侯爵家、それも現宰相家に嫁ぐとなれば、それ相応の礼儀作法や教養の習得が望ましい。一刻も早く嫁として迎えるためにこちらで必要な教育を施したいとでも言えば、男爵だって文句は言えないだろ」
「で、でも、そんなことしたって根本的な解決にはならないじゃないですか? 当面はそれで凌げたとしても――」
「当面を凌げればいいんだよ。そうだろ? グスタフ」
アルヴァーの言葉にディーンは突然訳知り顔をして、なぜかお父様に視線を移す。
お父様は一瞬でいつもの仏頂面に戻ったかと思うと、不愉快そうにため息をついた。
「どうしてそれを……。ああ、そうか。ユリウスか」
「情報源を明かすわけないだろ」
「まったく……。騎士団の情報管理はどうなってるんだ」
「まあ、そう言うなよ。俺だってやっと聞き出したんだからさ」
唐突に始まった謎の会話についていけない私たちを置いてけぼりにして、二人はまるで共犯者のように頷き合う。
「……いいだろう」
「父上!」
「そう目くじらを立てるな。ディーンも言った通り、これは『偽装』だ。何も本当に婚約するわけじゃないんだし、時間稼ぎにはなるだろうよ」
「時間稼ぎ……?」
「マリーナ嬢は、それでいいか?」
一番の当事者であるマリーナ嬢はディーンに問われて、そろそろと顔を上げる。
「いいも何も……」
そして消え入るような声で、おずおずと全員の顔を見回した。
「むしろご迷惑をおかけすることになります……。いいんでしょうか……?」
潤んだ瞳が、すがるように隣に座る私の顔を見つめている。
「いいに決まってるじゃない。あなたのことは、キルカ公爵家とフォルシウス侯爵家が全力で守るから安心なさい。あなたをノルマン男爵の愛人になんかさせるものですか」
「先生……」
アンバーの瞳からぽろりと大粒の涙が流れ落ち、やがてマリーナ嬢は堰を切ったように泣きじゃくる。
ひっくひっくとしゃくり上げるマリーナ嬢の背中を、なだめるように優しくさすっていたら。
こんなときだというのに、突然場違いな名案がひらめいてしまった……!




