50 女神の魔眼
「ディーン先生、ルーシェル先生、このたびはおめでとうございます」
学園の長期休暇が終わり、真っ先にお祝いを言いに来たのは意外というかなんというか、マリーナ・ノルマン男爵令嬢だった。
「キルカ先生って呼ぶの、なんだか違和感しかないのでディーン先生と呼ぶことにしました」
「勝手に決めるな、おい」
「先生方の話で学園は大騒ぎですよ? といっても私は友だちがいないので、みんなが話してるのを脇で盗み聞きしているだけですが」
「あなたもちょっと、キャラが変わってきたわね」
「自虐が過ぎるだろ」
ディーンが実は王弟であり、臣籍降下して公爵になったことはすぐさま大々的に報じられた。
悪意ある噂や誹謗中傷の的になることも覚悟していたけど、意外や意外、ラウリエの家門の根回しやカルドランとの一件もあったせいか、概ね好意的に受け止められている。
ちなみに、公爵になっても私たちは変わらずラウリエ伯爵家の離れに住んでいる。事実の公表と臣籍降下が急だったこともあるし、陛下が「公爵には公爵に相応しい立派な邸が必要だろう」とかなんとか言い出して、王都の一等地に新たな公爵邸を建設する話になっているからである。
公爵邸が完成したら、結婚式とお披露目パーティーを盛大に執り行うことになっているらしい。「らしい」というのは、陛下とお父様が勝手に盛り上がっている、というのをディーンから聞いただけだから。
本当に、あのおじさんたちは暇なのだろうか(そしてこの国は大丈夫なのか?)。
まあ、そんなこんなでもろもろの問題はほぼ解決したのだし、しばらくは平穏な日々が戻ってくると思っていたのだけど。
そうは問屋が卸さないのである。
「じゃあ私、次の授業がありますので。また来ますね」
「お前はもう来なくていいんだよ」
マリーナ嬢とディーンの掛け合いもお約束の光景になってきたなと思いつつ、見送ろうとドアを開けたときだった。
「あ……」
どこか見覚えがあるようで、でもはっきりとは思い出せない女子生徒が一人、ドアの前に立ち尽くしている。
令嬢は部屋から出て行こうとしていたマリーナ嬢に気づくと目を見開いて一瞬睨みつけ、それから弾かれたように私に視線を向ける。
「あ、あの……」
「あなたは……?」
「セルマ・レクセル侯爵令嬢ですよ、ルーシェル先生」
マリーナ嬢が涼しい顔で即座に答える。
「レクセル侯爵令嬢?」
俯きがちに立ち尽くす令嬢は、黙って頷いている。
「ていうか、なんでマリーナ嬢が知ってるの?」
「セルマ様は学期末の試験で二年生の学年トップだったんですよ。学年トップ者は一緒に表彰されるから、そのときに」
「この学園、そんなイベントあったっけ?」
「今年から急に始まったみたいですよ」
私たちが気安い態度でやり取りしているのを、セルマ嬢はぽかんとした様子で見つめている。
ひとまず授業に向かうマリーナ嬢を見送ってから、うちの研究室に用があったらしいセルマ嬢を招き入れる。
「どうした?」
「セルマ・レクセル侯爵令嬢がいらっしゃって」
「レクセル……?」
ディーンが訝しげな顔をするのも無理はない。
そもそも、この研究室に生徒が訪れることなどほとんどない。去年だって私以外にここに来る生徒はいなかったし、だから入り浸っていたというのもあるんだけど。あ、でも最近はマリーナ嬢がたびたび顔を出しに来るんだった。
それでも、今目の前にいるレクセル侯爵令嬢とはほとんど面識がない。外交を担当しているお父上のレクセル侯爵とは当然顔見知りだけども。
硬い表情で立ち上がったディーンが「どうかしたのか?」と尋ねると、セルマ嬢は「あ、あの、ルーシェル・キルカ公爵夫人に、お話が……」なんておずおずと答える。
……ルーシェル・キルカ公爵夫人!
何これ。ちょっと。最高の響きじゃない?
結婚してからディーンにはわざとらしく何度も呼ばれているけど、まったくの他人に言われちゃうと俄然テンションが上がってしまう……!
鼻息も荒く興奮ぎみの私を可笑しそうに一瞥して、ディーンはセルマ嬢をソファに座らせると自分も向かい側に座った。
その様子を視界の端で捉えながら、ふとあることに気づく。
「あなた、私をハルラス殿下から逃がしてくれた方ね」
「え?」
「ハルラス殿下との婚約を解消してすぐ、あの方に追いかけ回されるようになったときに。あっちにハルラス殿下がいるから避けたほうがいいって教えてくれた……」
「は、はい。そうです」
私が覚えていたことがうれしかったのか、セルマ嬢はポッと頬を赤らめる。
そういえば、当時ハルラス殿下を冷ややかな目で見ていた生徒たちの中に、セルマ嬢もいたような。
「私、入学してからずっと、ルーシェル様に憧れていて……。父からも話を聞いていて、これほど次期王妃に相応しい方はいないと思っていたんです。それなのにあんなことになって……」
「そうだったのね」
「でも卒業式の日にラウリエ先生が公開プロポーズされるのを見て、感動したんです。その後もお二人が仲睦まじく過ごされているのを見て、ハルラス殿下より先生のほうが余程ルーシェル様を大切にしてくれるだろうと確信しました」
そんなの当たり前だ、とでも言いたげな顔をするディーン。そういえば、レクセル侯爵もあの公開プロポーズに感動して涙する令嬢が続出したとかなんとか言ってたっけ。
「それで、今日はどういう……?」
単刀直入に尋ねると、途端にセルマ嬢は表情を曇らせる。
「……不躾ながら、実はルーシェル様に、あ、いえ、キルカ公爵夫人に、折り入ってご相談したいことがあるのです……」
なんだかやけに切羽詰まったその雰囲気に、否やを唱えることなどできるわけがない。
「私でよければ、なんなりと」
軽い気持ちでにっこりと微笑んだ私が、セルマ嬢から聞かされたのは。
残念ながら、ほとほと頭が痛くなるような話だったのだ。
「私は学園に入学する直前に、婚約が決まりました。相手は同い年のエドヴァルド・カスタル伯爵令息、他国に向けて新たな事業展開を模索しているカスタル伯爵家から是非にと懇願されての縁談でした」
「我が国の外交を一手に担うレクセル侯爵家と縁続きになることを狙ったわけね」
「そうです。ただ、エドヴァルドは『この縁談に政略的な意味合いがあるとしても、君とは良好な関係を築いていきたい』と言ってくれて。学園に入学したあとも頻繁に交流を続けて、それなりにうまくやってきたつもりだったんです。ところが、今年の春にエドヴァルドの従妹が学園に入学しまして」
「いとこ?」
「はい。リンダ・オールステット子爵令嬢と言います。エドヴァルドはその方と幼い頃から仲がよかったらしく、学園に入学したばかりで心細い思いをしているリンダ様の面倒を見てくれるようオールステット子爵から頼まれたそうなのです」
なんか、ここまでですでに、そこはかとなく嫌な予感がしてきた。
隣に座るディーンの顔をちらりとうかがうと、やっぱり微妙に渋い顔をしている。
「リンダ様の入学以降、エドヴァルドは常にリンダ様を優先し、私との交流も途絶えるようになってきました。それとなく問い質しても、『リンダの面倒を見てくれと頼まれているから』とか『リンダはまだ一年生だし、慣れない環境で一人置いておかれるのはかわいそうだろう?』などと言って取り合ってもらえず……」
……これはもう、未来予知ができると言われる女神『スール』の魔眼でなくても、次の展開が読めてしまう。
「二人は学園の中でも常に連れ立って歩き、その親密そうな様子は私自身幾度も目にしております。それでも、エドヴァルドは『僕はかわいそうなリンダを放っておけないだけだよ』『セルマならわかってくれるだろう?』と悪びれることもなく……」
次第に意気消沈して消え入るような声になるセルマ嬢を前に、思わずため息が漏れる。
なんでこう、学園って、同じようなことが何度も起こっちゃうんだろう……?




