42 トロスの葉
「顔を上げてください」
私の声に怒りや憎しみの色が乗っていないことに気づいたのか、マリーナ嬢は恐るおそる顔を上げる。
「いろいろと複雑な事情がおありだったのですね。突然ご両親を亡くされて、たった一人でさぞおつらかったでしょう?」
「……お、怒らないんですか?」
「怒る理由がないですし」
「でも、私の側の勝手な事情で、結果としては殿下との婚約が解消されることになって……」
「それについてはですね、どちらかというと感謝していますので」
あっけらかんと答える私を見て、マリーナ嬢は呆然としている。
「今のほうが幸せなので、いいんです」
「ルーシェル様……」
「私はずっと、ハルラス殿下は穏やかで優しい人だと思っていたんですよ。でも振り返ってみたら、結構傲慢で勝手な人だったなと思ってて」
「そうなんですか?」
「だって、あんなに堂々と浮気しておきながら『結婚するのはルーシェルだと心に決めていた』とか『ルーシェルならわかってくれると思っていた』とか、どの面下げて、と思うでしょう? マリーナ嬢と出会う前も、王子教育がつらいからって教師陣に泣きついて学ぶ量を減らしてもらってたんですよ。その分のしわ寄せは私に来るのを知ってたくせに」
「えー……」
「だからね、意外に勝手なんですよあの人は」
好きだった頃は、それでもよかった。私が妻として支えていけばいいのだと単純に思っていた。
でもハルラス殿下が私に甘えることはあっても、私のほうが甘やかされることはなかったなと今では思う。ハルラス殿下も私のことを好きでいてくれたのだろうけど、私はいつも頼られるばかりだった。ハルラス殿下の愛情は、私の献身の上に成り立つものだった。
ディーンに毎日毎日これでもかと甘やかされるようになって、初めて気づいたことだけど。
「それに、その、私も好き勝手やらせてもらいましたし」
暗に『ディフェンスフレグランス』を開発してハルラス殿下やマリーナ嬢にぎゃふんと言わせたことを明かすと、「あの匂いは、確かにきつかったです」と苦笑するマリーナ嬢。
「でも、どうして今になって本当のことを話してくれる気になったのですか?」
素朴な疑問が口をついて出ると、マリーナ嬢は決まり悪げな顔をする。
「……少し前に、ヘレナ・クランツ先生がラウリエ先生の気を引こうと追いすがって冷たくあしらわれていた場面に遭遇しまして」
そういえば。
あのとき、視界の端にマリーナ嬢がいたことを思い出す。
「あれを見て、自分のやっていることもまったく同じなのだと気づいてしまったんです。私は私で必死だったけど、きっとまわりからは浅ましい恥知らずだと思われていたんだろうなと……。そしたらもう恥ずかしくて情けなくて、それからずっと悩み続けて、やっぱりあんなことは金輪際やめようと決めたんです」
「え、でも、どこかの令息と縁付くことを諦めたら、男爵の愛人になるしかないんじゃ……?」
「いずれは、男爵家を出てどこかの修道院にでも逃げ込もうと思っています。いくら生活に困っていたとはいえ、ノルマン男爵の提案なんて最初から断ればよかったと後悔してるんです。私はもともと平民ですし、身の丈に合った生活を選ぶべきだったんです」
踏ん切りがついたとでも言うように、マリーナ嬢は幾分ほのぼのとした表情になる。
「それでも、私がとんでもないことをしてしまった事実がなくなることはありません。ルーシェル様には一度しっかり謝罪しなければと思った次第です」
明確な意志を宿したアンバーの瞳には、嘘も演技もなかった。むしろ聡明さを秘めて、穏やかな光を放つ。
その光には、確かに人を惹きつける何かがあるらしいと思わずにはいられなかった。
◇◆◇◆◇
「ということがあったんですよ」
授業から戻ってきたディーンに一部始終を伝えると、驚きながらもどこか腑に落ちたような顔をする。
「まさかあれが全部演技だったとはな」
「どうりで話が通じないわけですよ。最初からわざと馬鹿っぽい令嬢を演じて、会話が成立しないような受け答えを選んでたんだから」
「その場その場で臨機応変に演じ切っていたのなら、逆に相当頭の切れるやつってことにもなるよな」
「そうなんです。さっきのここでの受け答えも想像以上にしっかりしていて。平民として生活していたとはいえ母親は元子爵令嬢ですし、その辺りのしつけはしっかりなされていたんだろうなと思いますよ」
「なんだ? やけに肩を持つんだな? お前にとっては憎い仇だろ」
訝しげな顔をするディーンに、私も困ったように苦笑するしかない。
「そのつもりだったんですけどね」
ハルラス殿下を奪われて失意のどん底に沈み、婚約を解消してなお鬱陶しく追いかけ回され、最後には『ディフェンスフレグランス』の標的としてぎゃふんと言わせた相手ではあるけれど。
「でもマリーナ嬢がいなかったら私はハルラス殿下と決別することもなかったし、そしたらディーンを好きになることもなかったし、『ディフェンスフレグランス』を開発することもなかったと思うんです。マリーナ嬢がいたから、今の幸せがあるんだよなと思ったりして」
「ふーん」
ディーンの声はちょっと不満そうである。多分、それでもマリーナ・ノルマンのせいで私がつらい思いをしたのは事実なのに、とか思っているんだろう。優しい人だから。
「先生」
授業の道具を片づけるディーンに近づいて、わざと以前の呼び方で呼んでみる。
「あ? なんだよ急に」
「あのときのつらさも苦しさも、私にとってはもう過去のものですから」
「え?」
「ディーンと一緒にいられる今が幸せだから、あの頃のことなんてもうどうでもいいってこと」
迷いのない笑顔を見せるとディーンは虚を衝かれたように目を見開いて、それから口元をほころばせる。
「ルーは俺と一緒にいられて幸せ?」
「もちろんですよ。ディーンに甘やかされすぎて、ダメ人間になっちゃいそうですけど」
「んじゃ、もっともっと甘やかすから俺なしじゃダメになってよ」
「え」
「俺はもうとっくにルーがいないとダメになってるから。ルーももっと俺に溺れてくれよ」
なんだろう。あのカルドランの夜以降、ディーンの色気がだだ漏れな気がするんだけど。
◇◆◇◆◇
それから、マリーナ・ノルマン男爵令嬢は本当にすっかり大人しくなってしまった。高位貴族の令息を見ればすかさず擦り寄っていたのが嘘のように、常にすん、とした表情で過ごしている。
学園の誰もがその変化に驚いていたけど、当の本人は我関せずを貫いていた。勉強にも熱心に取り組むようになり、授業態度が目に見えて真面目になったとディーンだけじゃなくいろんな先生たちが褒めている。
多分、もともと地頭のいい、努力家なのだろう。じゃなかったら、あそこまで完璧に『ちょっと頭のおかしい令嬢』を演じられないと思う。そう考えると、なんだかもったいない気もする。
ただ、マリーナ嬢は魔法薬学だけはどうやら苦手らしい。図書館で勉強しているのを見かけるようになったけど、しょっちゅう魔法薬学の教科書を開いている。ディーンに聞いたら、魔法薬学の成績はやっぱりさほどよくないらしい。
「そこは『ホーリーネスタの葉』じゃなくて『トロスの葉』ですよ」
「え?」
がばりと顔を上げたマリーナ嬢は、声の主が私だと気づいて固まった。
「どちらも心身の回復を担う素材なので間違えやすいんですけどね。『トロスの葉』はどちらかというと、精神や神経を落ち着かせる作用に優れているんです」
「あ……」
きょろきょろと視線を泳がせるマリーナ嬢は、「あ、ありがとうございます……」と小さく答える。
図書館に本を返しに来たついでにマリーナ嬢のノートがちらっと見えたら、ディーンの引っかけ問題にまんまと引っかかってるんだもの。つい教えちゃったじゃない。
「マリーナ・ノルマン嬢。魔法薬学のことでわからないことがあったら、いつでも研究室を訪ねてきてください。私でよければ、力になりますから」
「え……?」
にっこり微笑むと、なぜかマリーナ嬢はポッと頬を赤らめる。
「あ、あの、ほんとにいいんですか……?」
「もちろん」
因縁の二人が穏やかに話している状況に、図書館内にいた学園生たちが俄かにざわつき始める。
それがなんだか可笑しくて、笑顔を抑えることができなかった。




