41 氷結石
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします!
「あ、あの、ルーシェル・フォルシウス先生にお話があって参りました」
目の前のマリーナ・ノルマン男爵令嬢は、見たこともないほど神妙な面持ちで立っている。
まさかマリーナ嬢が私を尋ねて来るなんて。一体何事だろう? 今更、何を言おうというのだろう?
「とりあえず、どうぞ」
私はドアを大きく開けて、マリーナ・ノルマンを研究室に招き入れる。いつもはディーンの不在時に来客があっても部屋に入れることはほとんどなく、入り口付近で対応することが多い(ディーンからもそうしろと言われている)。でも今日は、研究室の中に入ってもらったほうがいいような気がした。
「すみません」
マリーナ嬢が、とても恐縮している。
……え、ちょっと、何?
こんな殊勝なマリーナ嬢、見たことないんだけど。大体、まともなやり取りができているという事実にまず驚きである。話が通じなさすぎて毎回カオスだった去年の様子からは、ちょっと考えられない。
お茶の準備をする間も、マリーナ嬢はやけにおどおどと、なんならどこか思い詰めたような表情をして部屋の中を見回している。その怯える小動物めいた雰囲気に、学園に編入してきた頃を思い出す。
「どうぞ」
テーブルの上に紅茶を置くと、私は向かい側のソファに座った。
マリーナ嬢は「ありがとうございます」と軽く頭を下げて、出された紅茶に手を伸ばす。
……「ありがとうございます」だって! お礼言われちゃったんだけど! ほんともう、どうなってんの?
去年の様子とのギャップに狼狽えつつも、そんなことはおくびにも出さずにマリーナ嬢を真っ向から見据える。
「それで、今日はどういったご用件ですか?」
問われたマリーナ嬢は一旦テーブルの上にティーカップを戻すと、徐に居住まいを正す。そして背筋をぴんと伸ばし、硬い表情をしながら私を見返した。
「これまで度重なる無礼によりご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした」
そう言って、深々と頭を下げるマリーナ嬢。
思いもしなかったいきなりの謝罪に二の句が継げずにいる私を知ってか知らずか、マリーナ嬢はなおも続ける。
「謝っても許してもらえることではないというのは重々承知しております。王族の婚約を解消に至らしめるなんて、本当に取り返しのつかないことをしてしまいました。フォルシウス先生には多大なご迷惑をおかけしてしまい、弁解の余地もございません。謹んでお詫び申し上げます」
「ちょ、ちょっと待って」
また深々と頭を下げようとするマリーナ嬢を制し、慌てて口を挟む。
「まず、その『フォルシウス先生』っていうのやめてもらえませんか? 私はディーン先生の助手をしているだけで、教員ではないので」
「では、なんとお呼びすれば……?」
「そんなの、今まで通りでいいですよ」
「今まで通り……? では『ルーシェル様』とお呼びしてよろしいのですか?」
「まあ、いいです、けど……」
しおらしい態度で返されると、なんだか調子が狂ってしまう。
ていうか、問題は別に、呼び方なんかではない。そんなことであーだこーだ議論している場合じゃない。
「それよりあなた、一体どうしちゃったんですか?」
「……え?」
「振る舞いや言動がこれまでとずいぶん違うと思うんですけど」
いや、マジで、別人かと思うほど違いすぎるんだけど。
マリーナ嬢は「そうですよね……」と言いながら少し俯いて、それから意を決したように顔を上げる。
「実は、今までのはほぼ全部演技だったんです」
「は? 演技?」
「わざと男受けするような、庇護欲をそそる馬鹿っぽい令嬢のふりをしていたんです」
「は? なんで?」
「……ルーシェル様は、私が学園に編入することになった経緯をご存じでしょうか?」
聞かれて、過去の記憶をどうにかこうにか引っ張り出す。
「確か、お母様が急に亡くなられて、父親であるノルマン男爵に引き取られたとお聞きしましたが……」
「そもそも、それが嘘なのです」
「は? 嘘?」
「私はノルマン男爵の娘ではありません」
「はあ?」
想像の斜め上を行く秘密の暴露に、まったく理解が追いつかない。
「私の母は、もともと子爵家の令嬢でした。でも母の父、つまり私にとっては祖父が事業経営に失敗しましてどうにも立ち行かなくなり、爵位を返上して平民になったのです。母はそのまま、子爵家の使用人で実は恋仲だった男性と結婚しました。それが、私の父です」
「え……?」
「私たちは平民として、それなりに平和な暮らしをしていたのです。ところが一昨年、流行り病で父と母が立て続けに他界してしまいました。路頭に迷っていたところ、ノルマン男爵が娘として引き取ってやると提案してきたのです」
「なんでそこにノルマン男爵が出てくるの?」
「ノルマン男爵は若い頃、私の母に恋情を抱いて婚約を申し込んだらしいのです。でもその頃には爵位返上の話がほぼ決まっていましたし、母にはすでに父がいたこともあってあっけなく断られたそうです。諦めきれなかったノルマン男爵は、平民になって結婚した母をずっと探し回っていたらしく」
「え」
「やっとの思いで母を見つけ出し、愛人にならないかと何度も口説いていたそうです。そのたびに母は断固断っていたのですが、そのうち両親とも亡くなったことを知ると今度は私を引き取ってやると言い出しました。ただし、条件があると言って」
「条件?」
なんだかとてつもなく、嫌な予感しかしない。
「男爵令嬢として学園に通い、高位貴族の令息に近づいて婚約まで持っていくようにと」
「え、それって……」
「実は、ノルマン男爵家の家計はだいぶ以前から火の車だったのです。高位貴族は資産をお持ちの家が多いので、私が縁付くことでどうにか援助を引き出せないかと」
「うわ、最悪」
「それができなかった場合は、学園を卒業後男爵の愛人になる、というのが条件でした」
「うわ、何それキモい。マジ最低」
侯爵令嬢らしからぬ物言い(多分ディーンの影響)に、マリーナ嬢がふっと表情を緩める。
「じゃあ、そのためにずっと演技を……?」
「はい。学園に編入する前に巷で流行りの恋愛小説を読み漁り、男性が好みそうな令嬢の立ち居振る舞いを研究しました。令息の方々を騙すようなことになるので申し訳ないとは思いましたが、男爵の愛人になるのだけはどうしても嫌だったので背に腹は代えられず……」
「え、ちょっと待って。じゃあ、ハルラス殿下のことはどう思ってたの?」
なんだかとんでもない答えが予測できてしまって、つい胡乱な目つきになってしまう。
責められて当然とでも思っているのか、マリーナ嬢は暗いまなざしで顔を強張らせる。
「ハルラス殿下のことは……。嫌いではなかったです」
「好きでもなかったということ?」
「いえ、好き、だったと思います。でもそういう感情より、とにかく自分の将来のことが優先でした……。ハルラス殿下はルーシェル様との婚約を解消する気はないようでしたし、このままいけば側妃か愛妾としてノルマン男爵から逃れられると身勝手にも思ってしまいました」
「本当に申し訳ございません」と言いながら、マリーナ嬢はまたまた深々と頭を下げる。
あの頃のマリーナ嬢のすべてが演技で、ハルラス殿下のことも本当に好きだったわけではなく、ただただ男爵の魔の手から逃げるためだったと知って、すんなりとは受け入れられない気持ちは確かにある。
マリーナ嬢が現れなかったら。研究し尽くした手練手管を駆使してハルラス殿下に近づかなければ。そうしたら、あの頃私が抱えた痛みも傷つきも知らずに済んだのに。押しつぶされそうな息苦しさに血の涙を流し続けることもなかったのに。
とはいえ。
マリーナ嬢が編入してこなければ、私はあのまま予定通りハルラス殿下と結婚して王子妃になっていたと思う。そのほうがよかったのかと聞かれれば、答えはもちろん否である。
そりゃ、あの頃はハルラス殿下のことが好きだったし、普通に両想いだったわけだし、結婚して幸せになれただろうとは思うのだけど。でもハルラス殿下はきっとどこかのタイミングで浮気して、相手を側妃として迎え入れることになって、私はもう逃げることもできずに心を殺して妃としての務めを果たしていくしかなかったと思うのよね。殿下にも「ルーシェルならわかってくれるだろう?」とか言われて。そんな未来、想像するだけで寒気がする。
そう考えれば、マリーナ嬢がハルラス殿下をうまいこと誘惑してくれたおかげで、私は今の幸せを手に入れることができたとも言える。自分の好きなことを大好きな相手と一緒に楽しめて、しかもその大好きな相手にとことん溺愛されている今のほうが、断然幸せに決まってる。
「マリーナ嬢」
私の声は、氷結石を投じられたように凪いでいた。




