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39 本当の闇

「え……」



 それは、つまり。



「……性的な接触全般に対して、嫌悪感があるということでしょうか?」

「……意外に冷静だな、お前」



 重大な秘密を暴露したというのに、予想外な反応をされて気勢が削がれたらしい。ディーンがちょっと気の抜けたような声を出す。



「何を言われても、ちゃんと受け止めようと思っていたので。それに、カルドランに来た初日から全然触れないし妙によそよそしくなったから、おかしいなとは思ってて……」

「……そうか」

「それって、もしかしてあれですか? 先王陛下のことと関係が……?」

「ああ」



 ディーンは静かに頷いて、苦しげに眉根を寄せる。



「物心がついて、成長して、母親と先王陛下との間に何が起こったのか正確に理解できるようになった頃からかな。ほら、思春期ってさ、男はみんなそういうことに異常に興味を持ち始める時期だろ?」

「あー、はい。でも多分、そういうことに対する興味は女子だって引けを取らないと思いますよ?」

「そうか。みんなそんなもんか」

「はい」

「でも俺は、まわりがそういう話で盛り上がってても仲間に入る気になれなかったんだ。ただひたすら気持ち悪くて、なんなら吐きそうだった」



 そう言って、ディーンは自嘲ぎみに笑う。



「だってさ、先王陛下が己の暴力的な衝動をぶつけたせいで母親は犠牲になって、その結果俺が生まれたんだからさ。どんだけ罪深い存在なんだって思ったし、そうなったらもうそういう行為自体が浅ましくて汚らわしいものに思えてきて……。だからそういうことは極力考えないようにしてきたし、そこから逃げたくて結婚しないって言い出した面もある。もちろん、この血を残したくないってのも正直な気持ちではあるんだが」



 いつもより低く沈んだ声が、心なしか震えている。



「それでいいと、ずっと思ってきたんだ。色恋も、情も欲も、衝動すら自分には無縁のことだと思ってきたのに、お前を好きになるなんて想定外だった。しかもどうせ届くことなどないとどこかで高を括ってたくせに、気持ちが通じた途端もう手放せなくなって、それどころか連れ去って、閉じ込めて、俺だけのものにしたいと思うようになって、自分の薄汚い独占欲を罪悪感で押し込めながらもお前に触れたいと思う気持ちを止められなくて、そんなときだったんだ。カルドランに来た初日に、一緒の部屋だって言われて……」

「あ……」

「あのとき、お前とそうなることを想像してしまった。簡単に想像できたんだ。あんなに嫌悪して遠ざけてきたことだったのに、お前を組み敷く自分を当然のように想像できた。しかも、暴力的にだ。一方的に、自分の欲も衝動も全部むき出しにしてお前を乱暴に抱く自分を想像してしまって」



 見つめるディーンの瞳に、怯えのような色が走る。



「怖くなったんだ」



 底知れぬ恐怖と哀しみに縁取られたディーンの顔が、切なく歪む。



 息苦しいほどの沈黙が、降り積もる。



 声が、出ない。



「……俺は先王陛下(あいつ)とは違う、あいつみたいには絶対ならないとずっと言い聞かせてきたのに、間違いなく自分の中にはあいつの血が流れてるんだと痛感したよ。無能で怠慢な甲斐性なしのくせに、色事にだけは奔放で貪欲だったあいつの血が……」

「そんなこと……」

「あの日から、毎晩夢に見るんだ。お前を乱暴に抱いて、さんざん泣かせて、傷つける夢を……」

「……え?」

「そんなこと絶対にしたくないのに、身勝手に欲を吐き出して果てる夢を毎晩見る。それで飛び起きて、絶望する。その繰り返しだった」



 ゆっくりと伸びてきた手が、遠慮がちに私の髪をなでる。「ごめんな」とつぶやいて、ディーンは弱々しく目を伏せる。



 私も手を伸ばして、その冷たい頬に触れた。



 ディーンはびくり、と肩を震わせたけど、今度は私の手を払わなかった。


 

「大丈夫ですよ」

「……何が?」

「だって先王陛下とエディット様との間にはなかったものが、私たちにはあるじゃないですか」

「ルーシェル……」

「それって、決定的な違いだと思いませんか?」



 彼らが決して、持ち得なかったもの。そして私たちの間には、確かに存在するもの。



 それが何なのかなんて、言うまでもない。



「だから私、ディーンにだったら、傷つけられても大丈夫です」

「え……?」

「もしもこの先、そういうことをするってなったとき、ディーンになら傷つけられてもいいです」

「……俺はお前を、傷つけたくないんだよ」

「そんなの、私だって同じです。ディーンが私を傷つけたくないって思いながら一人で苦しんでるのを見るのは、つらいし苦しい。私だって、あなたに傷ついてほしくない」

「そんなの……」

「私のことを好きだと思ってくれるのなら、あなたの背負うものを半分背負わせて」



 その瞬間、強く抱きすくめられる。



 押し殺した声が、何度も私の名前をつぶやく。苦しげに、愛おしげに、何度も、何度も。



「……お前のこと、好きでいていいのか……?」

「むしろ好きでいてくれないと困ります」

「ルーシェル……! ルー……!」



 ディーンは、泣いていたのかもしれない。私はその背中に手を回して、まるで子どもをあやすように優しくなで続ける。



 これまで、一体どれほどの苦しみの中で足掻き続けてきたのだろう。どれほどの痛みと傷つきを抱えながら、たった一人でもがいてきたのだろう。



 先王陛下の凶行をどれだけ憎悪していても、それがなければ自分は存在することもなく、そして生まれ落ちたがために母の命を奪ってしまったこともまた厳然たる事実。その耐え難い事実に、すべてを遠ざけ生涯の孤独を贖罪にするしかなかったディーン。



 生まれながらに背負った『罪』は、この人のものではないというのに。



 ディーンは何も、悪くないのに。






 どのくらい、そうしていたのだろう。



「ルーシェル」



 顔を上げたディーンは、決まり悪げに苦笑した。



「いろいろごめんな。不安にさせたよな?」



 そう言って、また私の髪を愛おしそうにゆっくりとなでる。



「フィリス殿下の話を聞いてから、なんだか昔の自分をいろいろ思い出してさ」

「あ……」



 そういえば、そうだ。



 フィリス殿下の境遇は、ディーンの生い立ちを彷彿とさせるものだった。細かい状況はだいぶ違ったけど、年若い側妃から生まれた人見知りの王子に幼い頃の自分を重ね合わせていたのだろうか。



「……つらかったですか?」

「……いや」



 私の髪をなでる手が止まり、ディーンの瞳に甘い熱が宿る。



「最初はさ、この依頼に関してはあまり乗り気になれなかったし、いろいろ思い出して気が滅入ることはあったんだけど」

「はい」

「振り返ってみれば、つらいことばかりじゃなかったなと思ってさ。むしろ、俺はラウリエの家にずっと守られてきたんだなと思えた。それに……」

「それに?」

「お前がそばにいると思ったら、全部乗り越えられる気がしたんだ」



 髪をなでていた手が、今度はするりと頬をなでる。



 焦がれるような視線に、囚われてしまう。



「ルー」

「は、はい?」

「俺はまだ、自分で自分が信用できない。自分の欲や衝動をちゃんと制御できる自信がない。でもいつか、もう大丈夫だと思えるときが来たら、お前を抱きたい。いいか?」

「え? は、はい……」



 いきなりの愛称呼びだけでも面食らうのに、そこまでストレートな愛の告白をされたらどう答えていいかわからない。



 一途に求めてくれるディーンの想いはうれしいけど恥ずかしい。目を泳がせながら俯く私を見て、ディーンが小さく笑う。



「ほんとに可愛いな、ルー」

「は?」

「可愛いすぎる。なんかもう、離れ難い」

「は?」

「お前さ、今夜はここに泊まっていけよ」

「い、いきなり何言ってるんですか? さっきはまだそういうことしないとかなんとか言ってたくせに」

「うん。今日は何もしない。何もしないから、帰るなよ」

「え」



 ゆるりと抱きしめられて、「離れたくないんだよ」なんてささやかれたら抗えるわけがない。



 結局、なんだかんだと言い含められて、私はカルドラン最後の夜をディーンの部屋で過ごすことになった。



 おずおずとベッドに横たわると、近づいてきたディーンの腕の中にすっぽりと収まってしまう。



「暖かいな、ルー」



 しみじみとつぶやく声に、心臓が早鐘を打つ。



 何もしないと言われてはいても、こんな状況で抱きしめられたらどうしたってどぎまぎしてしまう。



 身動ぎもできず、体を硬直させたまま数分が経過したところで、唐突に頭上から聞こえてくるすうすうという穏やかな寝息。



「……え?」



 見上げるまでもなく、ディーンはすでに眠りに落ちていた。余程寝不足だったのだろう。あのクマだもの。無理もない。



 でも、その幸せそうな満ち足りた寝顔にどうしてだか胸が締めつけられる。



「……私がずっと、そばにいるから」



 密やかな告白は宵闇に溶け、そうして私も目を閉じた。

 



 












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