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38 災いを消す薬

 …………え、フィリス殿下がしゃべった!?



 私とディーンは声を出さずに顔を見合わせて、一旦静止する。



 でもこれ、聞き返したり指摘したりしたら、また萎縮して口を閉ざしてしまうんじゃないだろうか。そう思ったら、まごつきながらも何事もなかったかのように会話を続ける私たち。



「そ、そう! 死神だったんですよ!」

「し、死神?」

「王妃は実は死の国から来た死神で、国を滅ぼそうとしていたんです。でも勇者となった王子が仲間と一緒に死神を打ち倒したことで民は救われ、王子はそのまま王になったというお話なんです」

「へえ、面白い話だな」



 ディーンがそう言うと、フィリス殿下はうれしそうに目をきらきらさせている。



 ついでに言うと、コハク様は殿下が声を発したことで感極まっているのか、すでに涙ぐんでいる。



 ちなみにアルフリーダのあの本によれば、この話に出てくる『ラザルの実』がアルフリーダ的注目ポイントらしい。



 『ラザルの実』とは、直径十センチくらいの赤くて丸い果実である。世界の至るところで自生もしくは栽培されているわりとポピュラーな魔法薬素材で、滋養強壮とか体力増強とかの効果があり、身体強化薬の生成によく使われる。



 そしてアルフリーダの本には、『ラザルの実』が出てくるおとぎ話が複数紹介されている。ポピュラーな果実だからか、おとぎ話にもよく登場するのである。『王子と森の魔女』では魔女が旅立つ王子に三つの魔法薬と『ラザルの実』を持たせるし、他国には『ラザルの実』から生まれた男の子が勇者になる話とか、『ラザルの実』を食べて無敵になった獣人の話とかもあるらしい。



 要するに、『ラザルの実』は『元気になって体力もついて強くなる』系の話によく登場する、というのがアルフリーダの説である。もちろん、異論はない。



「殿下」



 唐突に、ディーンがフィリス殿下に話しかける。



 まるで以前から知り合いだったかのような自然な振る舞いに、殿下も怯えることを忘れたのかきょとんとしている。



「今の話の中には実際にはあり得ないような魔法薬が三つ出てくるようですが、一つだけ実在するものがあると言ったら驚きますか?」



 問われた殿下は目を見開く。え、あるの? という声が聞こえてきそうである。



「ありますよ。答えは『災いを消す薬』です」

「…………ほんと?」

「はい。さっきのルーシェルの話だと、『それを使って毒に侵された盗賊を助けた』のでしょう? ということは、『災いを消す薬』とは毒消しの効果を持つ薬、つまり解毒薬だったのですよ」



 ディーンの説明に、殿下はますます目を輝かせる。おとぎ話の中だけの絵空事だと思っていたものが、実際に存在すると言われたんだもの。殿下の興奮が手に取るようにわかってしまう。



 というか、さっき殿下またしゃべったよね?



「この世界には植物の毒や魔物の毒なんかがあって、時々被害に遭う人がいるんです。だからそうした毒を消す魔法薬というのも、いくつかあるんですよ」

「まもの……?」

「ああ、カルドランには魔物がいないから、あまりピンとこないかもしれませんね。カルドランのずっとずっと北のほうには、人間を襲ったり害を及ぼしたりする怖い生き物がいるんです」



 ディーンが優しく答えると、不思議そうな、でも興味津々といった様子で耳を傾けるフィリス殿下。



 なんか、この二人、普通に会話しちゃってない?



 あんなに怖がって警戒し、怯えて隠れていた殿下が、おどおどしながらもディーンの話を聞きたがるなんて。コハク様は、さっきからもう何度も目頭を押さえている。



「本当は、ここに解毒薬があればよかったんですけどね。残念ながら、今回は持ってきてないんです」

「……持ってるの?」

「家に帰ればありますよ。見たいですか?」



 殿下はしっかりとディーンの目を見ながら、こくこくと頷く。



「では、次に来るときに持ってきましょう。私たちはあさって帰国することになっていますが、しばらくしたらまた来ますから」

「……帰るの?」

「ええ、一旦はね。学園の仕事もありますから。でももう少ししたら学園が長いお休みに入るので、そのときにまた来ますよ」

「……明日は?」



 これはもう、間違いなく来てほしいという催促じゃない? 懇願するかのような無垢な瞳に見つめられたら、断れる人なんてきっといない。



「もちろん、明日も来ますよ。明日は何の話をしましょうか?」



 包み込むようなディーンの優しい微笑みに、なんだか私まで泣きたくなった。






◇◆◇◆◇






 翌日。



 私たちは約束通り、また水晶宮を訪れる。



 顔を合わせてすぐは、振り出しに戻ったかのようにコハク様の後ろに隠れていたフィリス殿下。



 でも昨日とは違う本を抱えていて、話を振ったら徐にページを開く。



「……これ」



 指差された箇所を読むと、どうやら魔物が出てくる童話だったらしい。でも昨日ディーンが言っていたように、カルドランに魔物はいない。というか、魔物は大陸北部の山岳地帯にしか生息しないから、殿下にとってはいまいちイメージがわかないらしい。



 そんなわけで、私とディーンは身振り手振りで魔物について説明する羽目になった。魔法薬とは全然関係ないじゃない、と思いつつも、殿下が喜んでるからまあいいか、とも思った。多分ディーンも同じことを思っていただろう。



 だって、殿下がニコニコと楽しそうに笑うんだもの。



 あんなに頑なだった表情が和らいで、もっともっとと言わんばかりの目をして、声を出すことはなくてもはしゃいでる様子を目の当たりにしてしまったら、なんでもしてあげたいと思うのが人情というものである。



 結局、私たちはこれまで水晶宮を訪れた誰よりもフィリス殿下の心を掴んだらしい。声を聞いたのも、会話ができたのも、また来てほしいとせがまれたのも、私たち以外には誰もいなかったというから驚きである。



「可愛かったですね、フィリス殿下」



 水晶宮から戻ってきて、夕食後。



 あっという間の五日間を過ごし、帰国の準備もさっさと終えた私はディーンの部屋でお茶を飲みながらくつろいでいた。



 今回のMVPは、なんといってもディーンである。ディーンがいたからこそ殿下とコミュニケーションを取るまでに至ったのだし、ディーンがいなかったら殿下もあそこまで打ち解けてはくれなかっただろう。



 その労をねぎらいたかったのもあるし、今日はカルドラン滞在最終日だし、だから最後の夜くらいはちょっといちゃいちゃできるんじゃないかという邪な思惑もあった。カルドランに来てからの不自然なよそよそしさを、払拭できるんじゃないかという期待も。



「やっぱり、人見知り同士通じ合うものがあったんですかね?」

「なんだそれ」

「だって、まさかフィリス殿下の声が聞けるなんて」

「まあ、普段ヴィーを相手にしてるから、あのくらいの年の子と話すのはちょっと慣れてたってところはあるかもな」

「それにしたってすごいと思いますよ。私なんか、『王子と森の魔女』のあらすじを話しただけだったし」

「お前があの話を知ってたから、うまい具合に進んだんだろ?」

「でもあんなふうに、殿下の警戒心や不安を和らげるだけじゃなくて好奇心を刺激するような話に持っていくなんてなかなかできませんよ。コハク様も感激してずっと泣いてましたし」

「今日はやけに褒めてくれるじゃないか。どうした?」



 ふっと小さく笑うディーンに、心臓がぎゅっと鷲掴みされてしまう。

 


 柔らかい声も、優しい瞳も、こぼれる笑顔も、何もかもがやっぱり好きだなと、素直に思う。



 そうして見返したディーンの目の下に、くっきりと青黒いクマが浮かんでいることに気づく。カルドランに来てから、なんだかやけに顔色が悪いし疲れてるみたいだったなとぼんやり思い出す。



「……疲れてるの?」



 思わず、手を伸ばしていた。



 でもその瞬間、ディーンにバシッと手を払われる。



「え……?」

「あ……」



 行き場を失った右手が、宙に留まる。



 痛みよりも拒絶されたショックで、声が出ない。



 なんで? だって、どうして――――?



「あ、ちが、違うんだルーシェル」



 慌てたように、ディーンが私の右手を掴んで引き寄せる。



「ごめん、ルーシェル、違うから」

「え……?」

「ごめん」



 そのまま、抱きしめられる。



 でも強張った声は、追い詰められた余裕のなさに支配されている。



 いつもより躊躇いがちに抱きしめる腕が少し震えていたから、私は思い切って顔を上げた。



「……どうしたの?」

「え……?」

「カルドランに来てから、ずっと変だよ。何かあったの……?」

「あ……」



 取り乱し、狼狽を漂わせたディーンはしばらく押し黙り、それから大きく息を吐く。



「……ルーシェルに隠し事はできないな」

「やっぱり、何か隠してたんだ?」

「気づいてたのか?」

「気づかないわけないでしょ」



 ディーンは薄く笑って、なぜか泣きそうな顔になる。



「…………ごめん。ずっと、隠してたことがあるんだけど」

「うん」

「今まで、誰にも話したことないんだけど」

「ユリウス様にも?」

「ああ。誰にも言ってない」

「……どんなこと?」

「俺が……。誰とも結婚しないって決めた理由、実はほかにもあるんだ」



 ディーンの瞳から、光が消えた。 



「…………本当は、子どもをつくるとか、そういう行為自体に、嫌悪感がある」






 








 


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