36 精霊王の湖
「あれは、どういう意図があったんだい?」
水晶宮を出た直後、レクセル侯爵が真っ先に尋ねる。
「なぜフィリス殿下ではなく、乳母のほうに話しかけたのかな?」
「あー、あれは……」
ディーンは少し恥ずかしそうに、軽く笑いながら目を逸らす。
「実は、俺自身も幼い頃は人見知りだったんですよ。知らない人に会うときは、いつも姉の後ろに隠れていまして」
「へえ、君が?」
「はい。緊張と不安で何も言えないのに、話しかけられるとみんなが注目するからますます何も答えられなくて。自分はいないものとして扱われたほうが余程気が楽だったことを不意に思い出したので、乳母に話しかけてみたんです」
「なるほどね」
「それに、魔法薬開発のための情報収集を考えたら、殿下に話を聞くより乳母の話を聞いたほうが早いと思ったんですよ」
ディーンの説明に、レクセル侯爵は感心したのか何度も頷いている。
「私は明日から本格的な外交交渉が始まるから同席はできないが、君たちの健闘を祈っているよ」
「ありがとうございます」
確かに、六歳の子どもにあれこれ聞くより事情を知る乳母に話を聞いたほうが確実である。
というわけで、翌日も私たちは前日と同じ時間に水晶宮を訪れた。
殿下がコハク様にしがみつきながら顔を隠しているのは昨日と同じだったけど、今日はなんとか応接室のソファに座ってくれた。大きな進歩である。
「昨日は満足に自己紹介もできず、失礼いたしました。私は隣国リネイセルから参りましたディーン・ラウリエと申します。こちらは助手のルーシェル・フォルシウス侯爵令嬢です」
さすがに子どもの目の前で、いつものように「愛しい恋人です」なんてことは言わないらしい。ディーンが意外と常識人だったことに内心驚く(「お前は俺のことをなんだと思ってんだ」というディーンの心の声が聞こえた気もする)。
「昨日も少しお話ししましたが、私たちは殿下の人見知りを直すための魔法薬開発をカルドラン王家より依頼されています。なので、少しお話をうかがいたのです」
「はい」
コハク様は神妙な顔つきをして、どんな質問が飛んでくるのかと身構えている。
殿下の耳が、心なしかぴくりと動く。
「ではまず、ヒスイ様やコハク殿の母国シェイロンについて、教えてもらえますか?」
「え? あ、はい」
身構えていたコハク様は、肩透かしを食らったようにちょっと間の抜けた声を出す。またしても、そんなことでいいのですか? という顔をしている。
「シェイロンには、精霊王が浄化したと言われる湖があるのですよね?」
「はい。アイレの湖と呼ばれています。湖のまわりには神秘的な森が広がっていて、風光明媚な観光地としても知られているのですよ」
「シェイロンは精霊とかかわりの深い、自然豊かな美しい国だと聞いています。そうした名所はほかにもあるのですか?」
「そうですね。アイレの湖のほかにも、精霊が住むと言われるリーファの森とか、王宮の庭園の中にも水の精霊が宿るとされる枯れない泉があるんです」
へえ、とつい感嘆の声がこぼれる。
こういう話に節操なく飛びついてしまう私の性分を熟知しているディーンは、可笑しそうに、でも微笑ましそうに目を細める。
「そんなシェイロンとこの国とでは、やはり勝手が違って戸惑いもあったでしょうね」
「この国は一年中温暖な気候で、季節も城から見る風景もまったく変わりませんから最初は驚きました。シェイロンには季節の移ろいがあって、花が咲き乱れる時期もあれば雪の散らつく時節もあるものですから」
「なるほど」
「でも同時に、ヒスイ様はこの国の豊かさや人々の温かさに心を打たれておいででした。カルドラン王の寵愛を一身に受け、それはそれはお幸せそうでした」
懐かしむ声に、ほんの少し切なさが滲む。
お互いに心を許し合えた相手の永遠の不在は、コハク様の笑顔に拭いきれない影を落とす。
「それでは、最後に」
ディーンの言葉で、え、もう最後? と多分ディーン以外の全員が思った。
その証拠に、恐らくびっくりしすぎたフィリス殿下が顔を上げそうになっていたもの。
「フィリス殿下の好きなことや得意なことを教えてもらえますか?」
もちろんその質問は、殿下ではなくコハク様に向けられていた。
コハク様はすぐ隣で耳をそばだてる殿下を眺めて、それからくすりと笑う。
「そうですね。殿下は本を読むのがとてもお好きです。特に冒険譚とか勇者が出てくるお話が大好きで」
「ほう」
「それに記憶力もよくて、一度読んだ物語は全部覚えてらっしゃいます。時々、『あの物語はこんな話だった』と身振り手振りで教えてくれるんです」
それは年相応のとても可愛らしいエピソードで、私もディーンもほっこりしてしまう。
「では、今日はこれにて」
言いながらディーンが立ちあがると、弾かれたように殿下が顔を上げる。そして慌てたように、コハク様が「す、すみません!」とディーンを引き留める。
「何か?」
「あ、あの、実は殿下が、魔法薬について知りたいとおっしゃいまして」
「え?」
うっかり目の前の王子に顔を向けると、フィリス殿下はその気配に怯えるようにまたコハク様にしがみついてささっと顔を隠してしまう。
「この国もシェイロンも、魔法薬というものにあまり馴染みがないのです。殿下の好きな物語の中にも魔法薬が出てくるものがあるのですが、具体的にどんなものなのかよくわからないようでして」
「なるほど」
「できれば詳しく教えていただければと……」
コハク様の言葉に、ディーンと私はつい顔を見合わせる。
教えてほしい、だなんて。まさにうってつけ、願ったり叶ったりじゃないの。
「あのー、実はですね」
ディーンはちょっともったいぶったような口調で、今度はコハク様ではなくはっきりとフィリス殿下のほうに顔を向けた。
「私はリネイセルの学園で、魔法薬学の教師をしているんですよ。ですから魔法薬について教えるのは、やぶさかではありません」
勢いよくパッと顔を上げる、フィリス殿下。予想外にディーンと目が合って、すぐにまた顔を伏せてしまったけど。
「それに、ここにいるルーシェル嬢はつい最近とても面白い魔法薬を開発しましてね。世界的にも非常に高く評価されているのですが、それについては明日またうかがったときにお話しいたしましょう」
ディーンがそう言うと、殿下は少し不満そうな空気を纏う。早く聞きたかったのだろうけど、最終的には小さくこくんと頷いてくれた。
水晶宮から王城に戻ってくると、ディーンは「ちょっといいか?」と言って自分の部屋に私を招き入れた。
「お前、どう思う?」
「うーん、シェイロンの話は興味深かったですけど、殿下がなぜあそこまでひどい人見知りになったのかはよくわからないですね」
「だよな。まあ、シェイロンから来たことも多少は関係してる気はするが」
「それに、ヒスイ様が亡くなられたあとどんな生活をしていたのかなって思うんです。コハク様以外にシェイロン出身と思われる侍女は数人しかいなかったし」
「うんうん」
「でも殿下が魔法薬に興味を示してくれたのは、よかったかなと。コミュニケーションを取るきっかけになるっていうのもありますけど、なんか殿下の反応がいちいち可愛らしくて」
勢いよく顔を上げたり隠したり、思いがけない殿下の動作を思い出して笑みがこぼれる。
「明日は殿下に魔法薬のことを教えてあげるんですか?」
「そうだな。実物を持ってって、見せようかと思ってる」
「実物? 何か持ってきてたんですか?」
私がそう言うと、ディーンは自分の荷物の奥のほうから小さな革袋を取り出した。中から出てきたのは、見覚えのある薄い水色の液体が入った小瓶と透明な液体の入った二本の小瓶。
「え、もしかしてそれ……」
「こっちは言わずとしれた『なんでも美味エッセンス』で、こっちは普通の『回復薬』だよ」
「なんでそんなもの持ってきてるんですか?」
「カルドランの食事が口に合わなかったら困るかなと思ってさ。ポーションはまあ、念のためっていうか、何かあったときのために一応な」
「準備がいいのは尊敬しますけど、『なんでも美味エッセンス』の出番は今のところないですよね? カルドランの料理がうますぎるって毎回騒いでるくせに」
「ほんとな」
けらけらと笑うディーンは、あれから一度も私に触れていない。




