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35 翡翠と琥珀

 結局、私たちは別々の部屋を使うことになった。



 突拍子もない勘違いをしているレクセル侯爵には、すぐさまディーンが「かえって宰相の不興を買ってしまいますので」と苦笑まじりに言い訳をしてくれた。侯爵は、「ほんとにいいの?」と何度も名残惜しそうに念を押して確認していたけど。



 内心どぎまぎしながら事の成り行きを見守り、改めて別の部屋が用意されるとそれはそれでがっかりする気持ちもどこかにあるというか。いきなりすぎて心の準備どころの話じゃなかったけど、今後もこういうことは起こり得るわけだし。だったら『Xデー』が今日になったとしても、それはそれで全然構いません! という覚悟すらしかけたというのに。



 一人取り残された部屋でぐるりと辺りを見回し、ぼんやりとさっきの一部始終を頭の中で再生する。



 思い出せば思い出すほど、ディーンの様子はなんだか妙だった。



 いつもならこんなとき、「お前はどうしたい?」と聞いてくれるはずである。何も言わなくても、「お前はどう思う?」と私の気持ちや意向を確かめることをディーンは厭わない。



 でもさっきは私に見向きもせず、どうしたいかなんて聞きもしなかった。ディーンの中で、私と一緒の部屋を使うという選択肢ははじめからなかったのだ。強張った表情で眉根を寄せながら考え込むその姿が、ひたりひたりと私を侵食していく。捉えどころのない不安が波紋のように広がっていく。



 今更、ディーンの気持ちを疑うつもりはない。ディーンの愛情など、もはや疑う余地もない。



 でも。



 一緒にいたいとか離れたくないとか言うわりに、いざという瞬間さっと距離を置く矛盾。まだ早いとかそういう関係になるつもりはないとか、それならそうと思っていることを話してくれてもいいのに。というか、いつもなら私が勘違いする前に全部話してくれるのに。何も言わない不自然さに、ディーン自身は気づいているのだろうか?



 ディーンの心の内側に、私の知り得ない何かが隠されているような気がしてならない。



 とはいえ、それを指摘する勇気もない。決定的に足下が揺らいでしまいそうで、怖い。





 その日の夜。



 私たちの訪問を歓迎するための、非公式な立食パーティーが開かれることになった。



 顔を合わせたディーンは、当然のように表面上はいつもと変わりがない。



「ルーシェル、あっちのテーブル見たか?」

「……いえ、全然」

「見たことない料理がずらっと並んでたから、見に行こうぜ」



 常に私の隣にいて、楽しそうに微笑むディーンに何も言えない。屈託のない笑顔を見ていると、全部自分の思い違い、まったくの杞憂なんじゃないかと思えてくる。



 でも無意識なのかなんなのか、ディーンはその夜私に触れようとはしなかった。すぐ隣にいるのに、普段と違うぎこちない空気を払拭はできない。時折垣間見えるディーンの憂いを帯びた横顔が、私を現実に突き落とす。



 言葉にできない不安だけが、私の心を重く沈めていく。






◇◆◇◆◇






 翌日。



 まあまあ威圧感のあるカルドラン王との謁見が無事に終わると、今度はそのままフィリス殿下のいる水晶宮へ向かうことになった。



「できるだけ少人数のほうがいいと思ってね、私と君たちの三人だけにしてもらったんだけどね」



 レクセル侯爵の表情は、陽が翳るようにみるみる明るさを失っていく。



「でもなあ。やっぱり気が進まないよなあ」



 その顔は、辣腕と名高い外交のトップというよりは明らかに幼な子を気遣う父親のそれだった。



「侯爵にも、ご子息がいらっしゃったと記憶しておりますが」

「よくご存じですね。先日八歳になったばかりのやんちゃ盛りですよ」

「では、うちのヴィオラと同い年ですね」

「ラウリエ伯爵家のご息女ですね。次期当主と目されるだけあって、幼いながらに聡明で利発なご令嬢だとうかがっておりますよ」



 なんて談笑しているうちに、あっという間に水晶宮に到着してしまう。



 そうして、応接室に通された私たちの前に現れたのは。



 全体的に薄い色素のせいで儚げな印象なのに警戒心の澱むエメラルドグリーンの瞳をしたフィリス殿下と、乳母と思われる小柄な女性だった。



 引きずられるようにして部屋に入ってきたフィリス殿下は乳母の腰の辺りにしがみつき、離れようとはしない。



「す、すみません! 殿下! ほら、ご挨拶を」



 乳母の女性がいくら殿下を引き剥がそうとしても、殿下は無言のまま顔を隠して激しく抵抗する。



「殿下!」



 何をどうやっても頑として動かないフィリス殿下と、困り果てた表情でため息をつく乳母。



 誰と面会してもこんな調子だったのだろうということは、容易に想像ができてしまう。



 二人から目が離せず、どうにも身の置き場がない雰囲気に怯んでいると隣に座っていたディーンが突然すっと立ち上がった。



 そして殿下にしがみつかれたままの乳母に近づいたかと思うと、ひと際優しい声で尋ねる。



「失礼ですが、あなたのお名前は?」

「私、ですか? 私はフィリス殿下の乳母で、コハクと申します」

「コハク殿。殿下はいつも、要人との面会時にはこのような感じですか?」

「は、はい。殿下の人見知りを直そうと、毎日いろんな人が入れ代わり立ち代わりこの水晶宮を訪れるようにはなりましたが……。殿下の人見知りはよくなるどころかひどくなる一方で……」



 ますます困り果てた顔をする乳母・コハク様の言葉に、私はレクセル侯爵の懸念を思い出す。



 まさしく、『人見知り』が『人嫌い』になりかけているのだろう。これは思ったよりも、深刻な状況らしい。



「では、コハク殿」



 ディーンは乳母から離れないフィリス殿下を気にすることなく、コハク様のほうに話しかける。



「あなたのことについて、少しお話を聞かせてもらえませんか?」

「え?」



 まったくの想定外だったのか、コハク様は素っ頓狂な声を上げる。



「わ、私のことですか?」

「はい。あなたはヒスイ様の母国、シェイロンからいらした方とお見受けしますが」

「そ、そうです。私はヒスイ様がお輿入れされる際、専属の侍女として一緒に参りました。私の母がヒスイ様の乳母だったこともあって、幼い頃から近しくさせていただいて」

「そうでしたか。ではヒスイ様にとって、コハク殿はとても信頼の置ける相手だったのでしょうね」

「ヒスイ様も、今のフィリス殿下に似ていらして少し人見知りなところがあったのです。私のほうが一つ年上なのですが、幼い頃からそばにいた私を姉のように慕ってくれました。輿入れの際には、『絶対に一緒に来て』と繰り返し言われたものです」



 当時を懐かしむように、ふふ、とコハク様が笑みを浮かべる。



 その笑みにつられるように、応接室の空気もふっと和む。



 その隙にコハク様の後ろに隠れたままのフィリス殿下を盗み見ると、しがみついて力んでいたはずの腕の力が抜け、聞き耳を立てている気配がする。



 その様子をちらりと目にしたであろうディーンは、それでもフィリス殿下に話しかけることはなかった。



「私とこちらの女性は、明日も参りますがよろしいですか?」

「え? ええ」

「そんなにお時間は取らせません。コハク殿やヒスイ様のこと、そして神秘の国と言われるシェイロンについて少しお話を聞かせていただければ」

「い、いいのですか? それで……」



 コハク様は、いまだ自分の後ろにひっついたままのフィリス殿下のほうに顔を向ける。



 殿下の人見知りをなんとかしたいカルドラン王家の要請を受けているはずなのに、当の本人と話さなくていいのですかと言いたいのだろう。



 ディーンはにこやかに微笑んで、わざとフィリス殿下にも聞かせるようにゆっくりと答える。



「私たちは、殿下を害したり脅かしたりするつもりはありません。ただ魔法薬の開発を依頼されている以上、お話だけはうかがいたいので」



 ぴくり、と殿下の頭が動いたように見えたのは、気のせいだったのだろうか。

 














 

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