33 火花鳥の羽
「お時間を取っていただいたお礼に、ぜひランチをご馳走させてくださいませ」
「……は?」
渋面のディーンが思わず立ち止まると、クランツ先生はここぞとばかりにたわわな胸をディーンの左腕に押し当てる。
「ね? いいでしょう?」
……これは、ちょっと。
あなた、一体どこの娼婦なのよ、とツッコミたくなるヤバさである。ここ、学園なんだけど。先生がそれじゃ、ダメでしょうよ?
嫉妬や怒りの感情よりもそんな真っ当な非難のほうが先に頭に浮かんだのは、ディーンの愛情に対する揺らぐことのない信頼感からだと思う。ディーンはいつも、どんなときも、私には優しくて温かくて、そして甘い。すごく甘い。
そのディーンが、私には限りなく甘いディーンが、感情の抜け落ちた顔をしてクランツ先生を見下ろしている。
「……ウザっ」
そしてやっぱり、私以外には本当に容赦がなかった。
「やめてくれません? マジで吐きそうなんで」
「え?」
「わざとらしくくねくねして、やたら密着してきて何なんですか? あ、具合が悪いんですか? だったら保健室に行ったほうがよろしいのでは?」
「いえ、具合は別に……」
「じゃあ何なの? 馴れ馴れしく触んないでもらえます? うわ、キモすぎて鳥肌立ってきた」
「え……」
顔色一つ変えることなく痛烈な発言を繰り出すディーンに、呆然とするクランツ先生。
あの胸に反応しない男なんて、今までいなかったんだろうなあ。私にも見せつけるくらい、絶対的な自信があったんだろうし。
それなのに躊躇なく拒絶され、蒼ざめるクランツ先生に溜飲の下がる思いではある。でもあそこまで突っぱねられると、そこはかとなくかわいそうな気がしないでもない。
「ルーシェル!」
廊下の先に私の姿を見つけ、ディーンが勢いよくくねくね包囲網から抜け出した。そして満面の笑顔で駆け寄ってくる。
「助かったー」
言いながら、迷うことなく私を抱きしめる。
「え、ちょっと、先生! ここ廊下ですから!」
「だって、キモすぎて死にそうだったんだよ」
「は?」
ぎゅうぎゅうと包み込むように私を抱きしめて、安心したように「はー、生き返る……」なんてつぶやくディーン。
そこまでの嫌悪感だったの? と聞き返そうとしたら、バタバタと近づく足音が。
「ラ、ラウリエ先生! こんなところで破廉恥ですわよ!」
なんとも諦めの悪いクランツ先生の指摘に、ディーンは私にだけ聞こえる声で「破廉恥が服着て歩いてるようなやつに言われたくねえよ」と笑う。
「だ、大体、話がまだ途中で――」
「俺のほうには話なんてありませんから。いい加減、もう解放してくれませんかね?」
「え?」
「愛しい恋人との大事な時間を邪魔されたくないんで」
「え? 恋人?」
「あれ、知りませんでした? 助手のルーシェル・フォルシウスは俺の恋人であり、将来を誓い合った人生の伴侶でもあるんですよ」
いけしゃあしゃあと、臆面もなく言ってのけたディーンはそのまま私の左手を取り、リッセの指輪を見せつけながら指先に口づける。
ちなみに、学園生のほとんどは卒業式の日のプロポーズを目撃しているので別段驚く様子もない。ディーンの宣言にヒューヒューと冷やかす声はあっても、全体としての雰囲気はむしろ好意的である。
去年のハルラス殿下たちへの冷たい反応に比べれば、違いは一目瞭然。あの愚か者カップルと同じレベル扱いはされてないとわかって、密かに胸をなでおろす。
「じゃ、そういうわけなんで」
ディーンは私の肩を抱いたまま歩き出そうとして、ふと静止する。
「あ、クランツ先生」
「え? はい……!」
「あなたも教師なら、もう少し公序良俗を考慮して露出を控えた服装をされたほうがいいと思いますよ?」
「え」
「それから、芝居がかった流し目とか悩ましげな仕草とかもやめたほうがいいんじゃないですかね? 品位のない言動は人間性を疑われますよ?」
正論だけど、言い過ぎじゃない……?
諫めるような上目遣いでディーンを見上げたら、案の定得意げな顔をしている。完全なる確信犯である。
「これでもう、追いかけてこないだろ」
してやったりという表情をするディーンの向こうに、なぜか放心状態のマリーナ・ノルマンがいたような気がした。
◇◆◇◆◇
研究室に戻って来るや否や、ディーンは有無を言わさず私を抱き寄せる。
「え、な、なに」
「……ルーシェルが来てくれて、ほんとによかった……」
「そこまで……?」
「だってあいつ、俺の授業が終わるのを教室の前でずっと待っててさ」
「いよいよ奇襲攻撃に打って出たんですね」
「逃げるように廊下に出たのに追いかけてきて、ずっと早口で話しかけてきて、ろくに返事もしてないのに『時間を取っていただいたお礼に』って、もうほんと意味わからん」
「クランツ先生も必死だったんでしょうねえ」
「ルーシェル」
安堵したような、それでいてどこか切羽詰まったような、低い声が名前を呼ぶ。
「お前だけだよ」
「な、何がですか?」
「俺が触れたいと思うのも、触れると安心できて、赦されたような気分になって、そんでもっともっとって欲張りになるのも、全部お前だけ」
そう言って、ディーンは私の額にゆっくりとキスを落とす。
「……顔、真っ赤だな」
「……そういうのはいちいち言わなくていいんです」
「可愛い、ルーシェル」
甘やかな熱を孕んだ目で見つめながら、今度はこめかみにキスをする。おかげで頬の赤みが全然引かない。
「可愛い」
「もう、何回言うんですか……?」
「何回でも」
次は頬にキスをして、また「可愛い」と微笑んで反対側の頬にキスをする。そんなディーンにされるがままになっている私の顔は、きっと火花鳥の羽のように火を噴いているに違いない。
そうして愛される喜びに浸る私には、ディーンの抱える闇の深さなど知る由もなかった。
◇◆◇◆◇
それから数日後。
帰宅したお父様に突然呼び出され、執務室へと向かう。
「カルドランからの依頼に関しては、進展がないようだな」
ロヴィーサ様からも話は聞いているのだろう。責めるような口調ではないけど、一段と渋い顔をしている。
「そうですね。現状、引き受けるかどうかもはっきりとは決まっていません」
「難航しているのか?」
「順調とは言えませんね。人見知りを直す魔法薬なんて聞いたこともありませんし、前例がないものを一から開発するのは簡単なことではありませんから」
「そうだな……」
ロヴィーサ様やシモン様は研究所の仕事もあるし、ディーンだって学園教師という本業がある。みんなカルドランの依頼だけに没頭するわけにはいかないから、なおさら事が進まない。
結局、一番暇な私があれこれ調べたり頭をひねったりしてはいるのだけど、限界がある。言うまでもなく、魔法薬開発という点ではまだまだ圧倒的に未熟者なんだもの。
「実は、カルドランからある提案があってな」
淡々とした物言いながらも、お父様は意味ありげな表情をする。
「近々、外務担当のレクセル侯爵がカルドランを訪問することになっている。訪問自体は以前から決まっていたことだが、その際に一度フィリス殿下と直接会ってみてほしいという提案があった」
「え、レクセル侯爵がフィリス殿下に会うんですか? 大丈夫なんですか?」
「一向に様子の変わらないフィリス殿下を見かねて、カルドランの上層部は荒療治に踏み切ることにしたらしい。王宮の隅で大人しく過ごさせていたのがよくなかったのだ、これからはどんどん人に慣れさせていくべきだ、という判断でな」
「ちょっと乱暴じゃないですか?」
「レクセル侯爵も気が進まないと言っていたよ」
レクセル侯爵はいつもニコニコと笑みを絶やさない、見るからに温厚そうな御仁である。でもなあ。人見知りの殿下は、きっと怖がって固まっちゃうだろうなあ。
ディーンは、人見知りの根底にあるものを「不安」だと言っていた。だとしたら、殿下を不安にさせることは更なる状態悪化を招いてしまうのでは……?
「そこでだ。お前、レクセル侯爵のカルドラン訪問に同行してみないか?」




