30 パイバイン薬
翌日から、ディーンの助手としての生活が本格的に始まった。
と言っても、やること自体は在学中と大して変わらない。部屋を片づけ、掃除をし、書類や手紙を仕分け、授業の準備を手伝い、空いた時間は本を読んだり簡単な調合をしてみたり、たまにほかの研究室の手伝いに行くこともある。
以前と違うことと言えば、あのマリーナ・ノルマン男爵令嬢がハルラス殿下以外の令息たちを追いかけ回していることだろうか。
ハルラス殿下は卒業してしまったので、当たり前だけどもう追いかけ回すことはできない。最初はあわよくばとハルラス殿下の側妃あたりを狙っていたんだろうけど、その野望が潰えた今、自分の将来のためには別の相手を見つけなければならない。
というわけで、切羽詰まったマリーナ・ノルマン男爵令嬢は手当たり次第に複数の高位貴族の令息たちと交流を深めようとしているのである。高位貴族狙いってとこが、なんというかまあ、ブレなさすぎていっそ清々しいとすら思ってしまうけれども。
でも高位貴族の令息たちというのは、得てして真っ当である。去年のマリーナ嬢を見ているから、なおさら冷静である。そうなるとマリーナ嬢のアプローチは常に空振り、惨敗続きである。ちょっとかわいそう。
ちなみに、ハルラス殿下がいないのでマリーナ嬢が私に突進してくることはない。突進してきても、意味ないし。ただ、廊下ですれ違うときなんか、なんとも言えない複雑な表情で通り過ぎるからちょっと気にはなっている。
それからもう一つ、以前と違うことがある。
「あら? ラウリエ先生はいらっしゃらないの?」
やけに胸元を強調するデザインの服がお好きなお色気爆弾こと、ヘレナ・クランツ先生である。
「ラウリエ先生は、二年生の授業に行ってます」
「そうなのね? 授業のことで、ちょっと打合せがしたかったのだけど……」
「戻ってきたら、伝えておきますが」
「そう? じゃあ、あとで私の研究室に来てくださいと伝えてくださる?」
ずいぶんと官能的な身のこなしをされるけど、私に見せられてもなあ、と思う。たわわなことを自慢したいのだろうか。
クランツ先生は今年から学園の教師として採用された先生で、教科は魔法学。新学期初日、ディーンにやたらと秋波を送っていた人である。
イメチェンしたディーンがどストライクな好みのタイプだったようで、あれから何度となく研究室にやってきてはディーンに擦り寄ろうとしている。私のことは、単なる助手だと認知しているらしい。
「またクランツ先生が来てましたよ」
授業から戻ってきたディーンに伝えると、「また?」と面倒くさそうな声を上げる。
「なんなんだ、あの人」
「授業のことで打合せしたいから、あとで研究室に来てください、だそうです」
「は? なんで? めんどくさ」
「昨日も来てましたし、一度顔を出してみたほうが――」
「必要ない。前任のアムレアン先生だって、『魔法学と魔法薬学は近接した学術分野とされてはおるが、完全に独立した学問でもある。お互い好きなようにやりましょうぞ。ふぉっふぉっふぉっ』って言ってたし」
「気のいいおじいちゃん先生でしたよね」
「アムレアン先生のほうがよかったよー。帰ってきてくれー」
「定年退職なんですから無理ですよ」
机の上に散らばる授業の資料を整理しながら答えると、ディーンがいきなり目の前に立つ。
「で? 俺の可愛いルーシェルはなんでご機嫌斜めなの?」
「は?」
顔を上げると、ディーンが少し屈んだ姿勢をして、下から私の瞳を覗き込んでいる。
「べ、別にご機嫌斜めでは――」
「じゃあ、なんで目を合わせてくんないの?」
言われて、つい顔を伏せてしまう。でも両手で頬を包まれ優しく上を向かされて、途端に視線は逃げ場を失う。
「怒ってるルーシェルも可愛くて仕方ないんだけど、なんで怒ってるかだけでも教えてくんない?」
「お、怒ってるわけじゃないです。ただ……」
「ただ?」
「ちょっと面白くないだけです」
「何が?」
「だって、ディーンが急にちゃんとするから、ほんとは格好いいのがみんなにバレちゃったじゃない……」
「は?」
「私だけが知ってたのに……!」
思わずちょっと睨みつけたら、ディーンは困ったように表情を崩す。
「ルーシェル、可愛すぎんのやめて? いろいろ我慢できなくなるから」
「は? 何言って……」
「抱きしめたくなるだろ?」
言い終わるや否や、ディーンはやすやすと私を腕の中に閉じ込める。そのまま頭の天辺に何度もキスしたり頬をすりすりしたりするから、身動きができない。
「可愛いなあ、ルーシェル」
「やめてください」
「でも嫌な思いさせてごめんな?」
「別に、それは私の心が狭いだけというか、勝手にモヤってるだけですから」
「わかるよ。俺もお前がトビアスと仲良くしてるの見るだけでモヤってた」
「え?」
驚いてぱっとディーンの顔を見上げると、バツが悪そうに苦笑する。
「クランツ先生のことも関係あんのか?」
「うーん、まあ……」
ないとは言えない。現に、あの人がディーンのまわりをうろついて、媚びるように体をくねらせるのが気に入らない。しかも、たわわだし。たわわ。
その昔、アルフリーダに『パイバイン薬』を依頼した令嬢の気持ちが唐突にわかってしまった。
「ルーシェル」
ひと際柔らかく甘い声が、耳元をくすぐる。
「俺がお前以外に心を奪われると思うか?」
「それは……」
「こんなに可愛い恋人が目の前にいるのに、よそ見なんかするわけないだろ?」
私を見下ろすラベンダー色の瞳がほのかな熱を孕んで、目が離せない。
「でもクランツ先生のことは、きっちりケリをつけないとな」
「……研究室に行くんですか?」
「行かねえよ。そんな時間あったら、ルーシェルといちゃいちゃしてたいし」
「何それ」
「なあ、キスしていい?」
え、と声を出す前に、私の唇はディーンに塞がれていた。
◇◆◇◆◇
それから数日後。
新学期が始まってすぐだというのに、私とディーンはなぜか王城に呼び出されていた。
それも王城の、宰相の執務室。要するに、お父様の部屋である。
宰相付きの事務官に案内されたその部屋で待っていたのは、なんとも意外な人物だった。
「え? 姉上? なんで?」
「知らないわよ。私も宰相に呼び出されたんだもの」
「この人」呼ばわりされた宰相ことお父様は、私たちを見てなぜか中途半端な仏頂面になる。
「……お前たちが仲睦まじげなのは非常に喜ばしいのだが」
「は?」
「少々距離が近すぎやしないか? もう少し離れたらどうだ?」
「いきなり何言ってんだよ」
「この前ディーンが侯爵邸に挨拶に来たときにも思っていたのだ。言うタイミングを逃してしまったが」
「なんだそれ」
「兄代わりのグスタフとしてはディーンにお相手が見つかってうれしいけれど、父親としてはやっぱり複雑な気持ちなのよね?」
ふふ、と可笑しそうに笑うロヴィーサ様に痛いところを突かれ、ますます難しい顔になるお父様。
ディーンとお父様は、私が思っていた以上に気安い仲だった。陛下から秘密を聞かされたお父様は一応王族であるディーンに敬意を払いつつ、いろいろ拗らせてだいぶ小生意気だったディーンを弟のように可愛がっていたらしい。
さらに言えば、魔女の末裔とされる名門伯爵家の次期当主と目されていたロヴィーサ様も、ディーンを介して陛下やお父様と接する機会が多かったんだとか。そんなわけでこの人たち、お互いに憎まれ口を叩き合うくらいには気心の知れた間柄なのである。
「早速だが、実は君たちに折り入って頼みたいことがあってね」
全員がソファに座ったのを確認すると、お父様は待ち構えたように前傾姿勢になる。
「隣国カルドランの王家から、直々にある依頼があったんだよ」
「依頼? 我が国の王家にですか?」
唐突に名前の挙がった隣国カルドランとは、我が国の南側に隣接する友好国である。
カルドランの国土は海に面しているため交易が盛んで、温暖な気候の影響もあってかその国民性は自由でおおらか、すこぶる社交的だと聞いているのだけど。
「いや、依頼先は王家というよりラウリエ研究所なんだ。というか、正確にはルーシェルとディーンなのだが」




