28 ディフェンスフレグランス再び
「ルー姉様!」
振り返ると、小さな友だちが無邪気な笑顔で駆け寄ってくる。
「ヴィオラ様!」
「お会いしたかったです、ルー姉様!」
「私もです! お元気でしたか?」
「もちろん!」
うれしさのあまりぴょんぴょん飛び跳ねるヴィオラ様が可愛らしくて、ついつい頬が緩んでしまう。
「ルー姉様。もう親戚になるのですから、私のことはぜひとも『ヴィー』と呼んでくださいな」
わずか八歳だというのに、すでに次期当主としての貫禄を見せつけて微笑むヴィオラ様。
ひしひしと感じる圧に、思わず「あ、すみません、つい……」なんて答えると。
「ルーシェルは、俺のこともなかなか『ディーン』って呼んでくれないもんな」
『先生』こと、ディーン・ラウリエその人がちょっと不満そうに口を尖らせる。
「だ、だって、まだ慣れなくて……」
「ふーん。じゃあ、一体いつになったら慣れてくれるんだよ?」
「え」
「今度『先生』って呼んだら、その口を塞ぐぞ」
蠱惑的な目をしながらそう言って、私の唇を優しく弾く。
その言葉も仕草も、この上なく甘い脅しだと気づいて私の顔はまた火を噴いてしまう。
ほんと、マジで、どうしてこうなった?
元々優しかった先生だけど、卒業式が終わった瞬間から始まったトップスピードの溺愛には正直面食らっている。
お互いの気持ちを知って、ともに生きていくことを誓って、それでも私が学園生でいる間は「一切手を出さない」と言い切って私との適切な距離を保ち続けた先生だったのに。
卒業式が終わってハルラス殿下からの(久々の)突撃を退けたと思ったら、突然みんなのいる前で公開プロポーズするんだもの(そりゃ、ちょっとうれしかったけど)。
それからは、当然のようにこれまでとは比べ物にならないくらいの甘々攻撃にさらされている。
先生曰く、卒業式後の公開プロポーズには「婚約しない代わりに、俺たちの関係を知らしめようと思ったんだよ」なんていう意図があったらしい。
婚約が結ばれれば、正式な形でその関係性が公表されることになる。でも婚約も結婚もしないと決めている私たちは、別の形でこの関係を認知してもらうしかない。
そんなわけで、先生、もといディーン(……やっぱり慣れない)はこれ見よがしに私を甘やかし、「俺の愛しい恋人」なんて甘々な言葉をこれでもかというほど吐きまくっているのである。
「……あの、せめてディーン先生、じゃダメですか?」
「もうお前の先生じゃないのに?」
「だって、これからも学園の研究室では先生の助手としてお手伝いするんですよ? 学園で先生と呼ぶのは、むしろ自然なことだと思うんです」
「じゃあ学園以外では『先生』って呼ぶなよ?」
「あ」
「早速いちゃいちゃしちゃってんなー」
冷やかすような楽しげな声に顔を上げると、ユリウス様とその奥様と思われる女性が一緒に近づいてくる。
「ルーシェル嬢、卒業おめでとう」
「ありがとうございます、ユリウス様」
あのラウリエ家の伝統行事、『朝摘みの憂い草』採取のときとは一転、にこやかな笑みを浮かべるユリウス様。
あまりの毒気のなさにちょっと戸惑っていると、ユリウス様が気まずそうにポリポリと鼻の頭を掻く。
「あのときはほんと悪かったよ。ずいぶん辛辣な物言いをしてしまって」
「あ、いえ……」
「本当に、あのときのユリウスお兄様はひどかったと思うわ」
ヴィオラ様があの日と同じように腰に手を当てぷりぷりと小鼻を膨らませると、ユリウス様の隣に立つ女性がくすくすと可笑しそうに笑う。
「あ、彼女は俺の妻のブレンダだ」
「ルーシェル様、はじめまして。ブレンダ・バーリエルと申します」
紹介されたブレンダ様は、柔らかなバニラ色の髪に透き通るアクアマリンの目をした儚げな印象の女性だった。
でも先生、じゃなくてディーンが言うには、この見た目に反してズバズバとものを言うだいぶしっかりしたお姉さん気質の方らしい。ディーンやユリウス様より三歳年下だというのに、二人ともブレンダ様にはまったく頭が上がらないんだとか。
「今日はルー姉様の卒業のお祝いも兼ねた歓迎パーティーなんですからね? ようやくこのラウリエ伯爵家の一員として、ルー姉様をお迎えできるんですもの。この前のユリウスお兄様みたいな態度は断固許しませんからね」
強い口調ながらも笑顔を抑えきれないといった様子のヴィオラ様に、みんなの雰囲気も一気に歓迎ムードになる。
学園の卒業から一週間たって、私は今日、このラウリエ伯爵家でのパーティーに招待されていた。
まあ一般的な感覚で言えば、これは婚約が決まった際に開かれる内輪だけのお祝いパーティー的な意味合いがある。もちろん、ディーンの「結婚はしない」という選択はヴィオラ様以外の全員が知っていて、その孤独な決意にはみんながみんな密かに心を痛めていた。だからこそ、そんなディーンと一生をともにしたいと言い出す人間が現れて、ラウリエ伯爵家はもう上を下への大騒ぎになったそうである。
ロヴィーサ様なんて、私とお父様に会うためにわざわざフォルシウス侯爵邸を訪ねていらしたんだもの。
『ルーシェル嬢、それに侯爵も、本当にいいのですか?』
信じられないほど硬い表情をしながら、ロヴィーサ様のラベンダー色の瞳は俄かに震えていた。
『ディーンと生涯をともにするということがどういうことなのか、本当におわかりですか? ルーシェル嬢は普通の令嬢としての幸せを諦めざるを得ないどころか、悪意ある噂にさらされ誹謗中傷の的にもなりかねないのですよ?』
挑みかからんばかりのまなざしで見据えるロヴィーサ様を、私とお父様はやや気圧されながらも穏やかに受け止める。
『それでもいいと、この頑固者の娘が言い張るのです。あとは当人たちに任せるよりほかないでしょう?』
『グスタフ……!』
『どんな形であれ、私自身が先生のそばにいたいのです。ロヴィーサ様、どうかお許しいただけませんか?』
『ゆ、許すも何も……! これほどの僥倖があって、いいのでしょうか……!』
ロヴィーサ様は感激のあまりその場で泣き崩れてしまい、私もお父様も慌てて宥めたり慰めたりしたのは記憶に新しい。
そんなことがあって、ラウリエの家門のみなさまは私のことをディーンの孤独を癒す救世主とばかりに畏れ敬う勢いなのである。
開かれたパーティーでは集まった誰もが和やかな笑顔を見せ、終始賑やかな笑い声に包まれた。
ディーンの幼い頃の話とか、ラウリエ家の歴史とか、ユリウス様の結婚式の失敗談とか、聞いているだけで楽しいし、この家の一員になれたことをしみじみと実感できる。
「しかし驚いたのは、先日ルーシェル嬢がディーンと共著で発表した論文だよ。『特定の人物を物理的に遠ざけるディフェンスフレグランスの生成と七色サンゴの有効性に関する研究』だったかな?」
初めてお会いしたロヴィーサ様の旦那様でヴィオラ様のお父様であるシモン様が、上機嫌でワイングラスを傾ける。
「業界ではすでに大きな話題を呼んでるんだよ。魔法薬学会も相当高く評価しているんだろう?」
「そうね。おかげで『七色サンゴ』の研究がブームになっているらしいわよ」
「論文にディーン・ラウリエの名前が共著で載っているせいか、研究所のほうにも問い合わせが殺到していてね」
ロヴィーサ様はラウリエ魔法薬開発研究所(通称ラウリエ研究所)の所長を務めながら、その研究部門を統括しているという。一方のシモン様は流通・販売部門を一手に引き受けていて、お二人は文字通り二人三脚で事業に当たるおしどり夫婦なのである。
「問い合わせって、ディフェンスフレグランスを手に入れたいとか販売してほしいとかそういうことか?」
「そうだよ。販売開始はいつですか? なんて問い合わせもあったくらいだよ」
「あれって、そんなに需要があったのか?」
まったくもって同感である。
私以外にあんなものがほしいと思う人なんていないと思ってたんだけど。
「鬱陶しい相手につきまとわれて困っている人は、案外多いのかもね」
ふふ、と笑みをこぼすブレンダ様を見ながら、そうなの? なんて悠長なことを考えていたのだけれど。
このディフェンスフレグランスのおかげで私たちが新たな騒動に巻き込まれていくことを、このときはまだ誰も知らない。




