25 宵闇の夢①(ディーンside)
真夜中。
幸せな夢から覚めて、ふと手を伸ばす。
さっきまでこの腕の中にかき抱いていたはずの温もりはそこになく、すべて夢だったのだと気づいて軽く絶望する。
あと何度、こんな痛みをやり過ごせば俺は救われるのだろう。
そう思いながらも、彼女の無邪気な笑顔をまぶたに浮かべるだけで心は満たされてしまう。
我ながらどうしようもないなと自嘲して、もう一度目を閉じた。
◇◆◇◆◇
彼女のことは、学園に入学する前からすでに知っていた。
「ハルラスの婚約が決まったよ」
定例の呼び出しに応じて王城に向かうと、陛下が執務室で安堵したような笑顔を見せる。
「それはおめでとうございます。お相手はどちらのご令嬢ですか?」
「フォルシウス侯爵家の長女、ルーシェル嬢だ」
「……侯爵の? よく了承してくれましたね」
「いや、だいぶ渋っていたよ。でもハルラスのひと目惚れらしくてな。どうしてもと言うから、侯爵も仕方ないと諦めてくれたんだ」
陛下と侯爵のつき合いは長いらしい。俺が生まれた頃には、侯爵はもう陛下(もちろん当時はまだ侯爵でもないし陛下でもないのだが)の側近候補として苦楽をともにしていたという。だから俺の事情も知っていて、陛下同様何かと世話を焼こうとする。
「あの人、娘が産まれた日に嫁に出すのが嫌だって泣いてませんでしたっけ?」
「よく覚えてるな」
「そりゃあね。強面なあの人でも泣くんだ? なんて子ども心に驚いて」
「あいつの子煩悩ぶりは尋常じゃないからな。ハルラスがルーシェル嬢を冷遇することはないだろうが、粗雑に扱うことのないよう留意しないとな」
「ハルラス殿下なら大丈夫じゃないですか? 素直で穏やかないい子ですし」
「そう言ってくれるのはありがたいが、ハルラスの婚約が決まったんだ。お前もそろそろ――」
「もうその話はしない約束ですよ、陛下」
ぴしゃりと言い切ると、目の前の陛下は眉根を寄せる。
「ディーン、お前もようやくウイアル公国から帰国したんだ。いいタイミングだとは思わないか?」
「タイミングも何も、俺はこのまま結婚しないってずっと言ってるでしょう?」
「好きな相手や気に入った令嬢はいないのか?」
「そんな人いませんよ。結婚なんてするつもりもないんだし、愛だの恋だのにうつつを抜かすわけないでしょ」
軽い調子ながらも冷ややかに言い返す。
自分の中に流れる罪深い血の存在を知ってから、俺はこの血を次代に残さないことを至上命題にして生きてきた。
王家の人間ではないのに王族の血が流れているなんて、そんなイレギュラーな存在は許されない。
だから結婚はしないと早々に決めていた。
他人とは一定の距離を保ち、誰に対しても深入りはせず、わざと野暮ったい身なりをしながらいい加減で面倒くさがりな人間を演じていれば、近づいてくる物好きな令嬢などいない。
もちろん、陛下と侯爵には「王族として王家の仲間入りを果たせばすべて解決する」なんて何度も諭されてきた。でも俺は、それを拒んだ。実の母親の尊厳を傷つけ、未来を奪った忌まわしき先王陛下を憎む気持ちは当然ある。その血が流れていることは事実でも、受け入れることは容易ではない。そのうえそれを公にするなんて、耐えられる気がしない。
それに俺は、自分がラウリエ伯爵家の人間だということに誇りを持っていた。ラウリエの家はいつでも俺に温かく、寛容で、どこまでも当たり前に家族として接してくれる。魔法薬学を極めたいと公国学園に進学したのも、自分はラウリエ家の人間だという矜持があったからだ。
公国からの帰国と同時に学園の教師として働くことを決めたあとも、俺は変わらず淡々と生きていた。魔法薬学の研究をしながら生徒たちにもその基礎を教えるというのはなかなかに興味深い仕事だったし、たまに一部の生徒に慕われることもあったりして、それなりにうまくやっていたと思う。
そうこうしているうちに、ルーシェルとハルラス殿下が学園に入学してくる。
ルーシェルは赤みの強いバーガンディ色の髪に宵闇よりも深い藍色の瞳をした、容姿端麗な令嬢だった。髪や瞳の色がはっきりしている分、だいぶ大人びた印象である。でも人目を引く凛とした美しさに、ハルラス殿下がひと目惚れしたというのも頷けた。
二人は学園でも仲睦まじい様子で、深い信頼の下に互いの愛情を育んでいるように見えた。未来の王と王妃として切磋琢磨し合うその姿は羨ましくも微笑ましく、誰もが二人の治世の安寧と繁栄を信じて疑わなかった。
ところが、である。
彼らが最終学年になったとき、ある男爵令嬢が編入してくる。
もともとは男爵の庶子だったらしいその令嬢は、平民に近い生活をしてきたせいか貴族社会に相応しいマナーや教養といったものをまったく持ち合わせておらず、図々しくも殿下との距離を巧みに詰め始めた。天真爛漫を装ったあざとさに殿下はころっと騙されて心酔し、あろうことかルーシェルを完全に放置し始める。
さすがに、不憫だった。
孤独に耐える姿は痛々しく、哀れだった。
そんなときだったのだ。あの廊下の角でぶつかったのは。
運命だったのではと、今では思う。
もともとルーシェルは魔法薬学の才能に秀でており、その成績は群を抜いていた。いつぞやのレポートは『完全万能薬』をテーマにしていて正直驚いたが、公国学園の専攻科で学んできた俺でさえ舌を巻く内容だったのだ。
だから、教師として手を差し伸べてしまった。
最初はただ、それだけだった。
それが変わったのは、いつだったのだろう。
『憂い草の朝露』採取に連れて行く前日、何やら騒いでいるヴィーとユリウスの後ろから顔を覗かせたルーシェルに、
「先生、おかえりなさい」
と言われた俺はなぜだかひどく動揺した。
あの無防備な笑顔で「おかえりなさい」なんて言われて、不覚にもそんな毎日を想像してしまって、あのときにはもう、俺は確実にルーシェルに惹かれていたのだと思う。
研究室の掃除や片づけを任せたことで部屋に入り浸るようになったルーシェルは、どんどん魔法薬に夢中になっていった。と同時にハルラス殿下への想いを清算し、すっぱりと婚約を解消することになる。父親である侯爵との関係も修復し、その後も半ば当然のように研究室に顔を出し続けるルーシェル。
やる事なす事全部が可愛く思えて、ルーシェルが来るのを心待ちにしている自分に薄々気づき始めた頃。
魔物について調べていたらトビアス・ブレグダンと友達になったと報告されて、俺は自分の中で加速度的に広がるどす黒い独占欲の存在に打ちのめされてしまう。
――――それは、己の恋心を自覚した瞬間だった。
まさか、という思いとやっぱりな、という思いとが交錯し、入り乱れる。
あれほど注意深く、周到に避けてきた事態にとうとう足を踏み入れてしまうとは。
俺はずっと一人で生きていくつもりでいたし、誰かを好きになるつもりもなかった。たとえ好きになっても結ばれない、手を伸ばすことすらできないのだから、そんな感情は必要ないと排除してきたはずだった。
それなのに今、目の前のルーシェルに恋焦がれている。
ただ、だからといって自分の信念を曲げる気には到底ならない。でもそうなると、ルーシェルが可愛くて愛しくて仕方がないのにこれからどう接していいかわからない。恋心を打ち消すために距離を置こうとして失敗し、多少邪険に扱うとルーシェルが悲しそうに俯くからやっぱり放っとけない。
このままではダメだと悟った俺が、意を決して向かったのは――――。




