24 リッセの指輪
翌日。
「先生!」
またしてもいつもより早く登校し、真っ先に先生の研究室へと駆け込んだ。
「……ルーシェル……」
「決めました!」
「……は? 何を」
「私、ずっと先生のそばにいます!」
これ以上ないほどの悲壮感が漂う先生とは対照的に、突き抜けるほどの声を張り上げる。
「婚約も結婚もしなくて構いません。情が冷めたら捨ててもらって結構ですから、先生のそばにいさせてください」
「お前、何言って――」
「お父様の許可もちゃんと取りましたので」
「は?」
呆気に取られて固まる先生に近づき、満面の笑みを見せる。
「お父様も、好きにしていいと言ってくれたので」
「お前、侯爵に話したのか?」
「もちろんですよ。先生だって、ちゃんと話したほうがいいっていつも言うじゃないですか」
「それはそうだけどさ。でもほんとに侯爵は認めたのか? 一生にかかわる大事なことなんだぞ?」
「そうですね、ちょっと面倒くさいことは言ってましたけど。でもまあ、大丈夫でした」
ふふふ、と訳ありげに笑うと、先生は戸惑いぎみに顔を強張らせる。
それから、「え、てことは……」とか「マジか」とか「あー……」とかなんとかつぶやいて、一人で考え込んでいる。まさかの展開だったらしい。
そして徐に椅子から立ち上がったかと思うと、私の真正面で呼吸を整えた。
「じゃあ、いいんだな?」
「え? 何がですか?」
「お前がいいって言うなら、俺はもうお前を放さないから」
「え? あ、はい……」
「あと言っとくけどな。俺がお前に捨てられる可能性はあるとしても、俺の気持ちが冷めるってことはないからな」
「なんでそう言い切れるんですか?」
「考えてもみろ。俺は今まで誰とも深くかかわらず、誰のことも好きにならずにずっと生きてきたんだ。でもお前にだけはそうできなかった。俺にとってお前は初恋で、愛おしい唯一無二の存在で、手を伸ばすのを諦めてたのに今こうして目の前で笑ってくれてるんだから、冷めるわけないだろ?」
うっとりととろけるような目で私を見下ろす先生の言葉が、甘すぎる。
このまま抱きしめられちゃったりするんだろうかとちょっとドキドキしながら身構えていたら、
「ただしだ」
現実は甘くなかった。
「お前の卒業まであと一か月弱、俺は学園の教師としてお前とは節度ある距離を保ちつつ、接することにする」
「……は?」
「さすがに、ちょっとな。俺の良心というか、倫理観がいろいろ邪魔するんだよ」
目を逸らしながら、決まり悪そうにポッと顔を赤らめる先生。
「なんですか、それ。どういう意味ですか?」
「……あと一か月は手を出さないって意味だ」
「え」
「その代わり、卒業したら嫌というほど甘やかすからな。覚悟しとけよ」
その言葉通り、卒業までの残りの時間は至って平穏に過ぎていった。
もちろん先生の研究室に行って、掃除をしたり助手の真似事みたいなことをしたり、論文を仕上げたりということはあったけど、期待したような甘い雰囲気になることはなく。
隙を突いてちょっとでも近づこうものなら、
「ルーシェル、距離を保て」
なんて真顔で言われるし。
薄っすらとした(欲求)不満を募らせながらも日々は順調に過ぎていき、そしてとうとう卒業の日を迎えた。
「ルーシェル!」
卒業証書を携えたトビアスが、屈託のない笑顔で駆け寄ってくる。
「卒業おめでとう!」
「トビアスもね。それと、公国学園の進学も無事に決まったんでしょう? おめでとう」
「君のおかげだよ。ルーシェルも、結局先生の研究室に残れることになってよかったね」
茶目っ気たっぷりにウインクするトビアスに、中途半端な薄笑いをしてしまう。
あのときいろいろと心配をかけたトビアスには、一応、簡単な結果報告だけはしてあった。先生の秘密についてはもちろん私たちの関係のこともはっきり伝えてはないけど、察しのいいトビアスのことだからもう気づいているはずである。
「向こうに着いたら手紙を書くよ。またいろいろ相談に乗ってくれる?」
「もちろん。私も楽しみにしてる」
「――――おい」
急に腰の辺りを引き寄せられ、驚いて顔を上げると先生の顔がすぐ目の前に迫っている。
しかも今日は卒業式ということもあって、いつものヨレヨレダサダサな格好ではない。髪はきちんと整えられ、無精髭もなく、ビシッと決まった正装はなんだかやけに見目麗しい。
「え? 先生?」
「あんまり仲良くすんなよ。嫉妬するだろ」
「は?」
「お前はもう俺のものなんだから、俺のことだけ見てればいいんだよ」
「は?」
な、何? 何が起こってる?
「卒業式が終わったんだから、もうお前はこの学園の生徒じゃないだろ? ってことは俺たちの関係も生徒と先生じゃなくなって、卒業生のルーシェル・フォルシウスと学園教師のディーン・ラウリエになったってわけだ」
「は、はい」
「もう生徒じゃないんだから、お前が俺の愛する恋人だって宣言してもいいよな?」
……は?
驚きすぎて二の句が継げない私を尻目に、先生はうれしさを隠し切れない表情で私の手を取り、指先にちゅ、と口づける。
ちょっと待って。な、なんなの、この変わりようは……!
「そういうことだから、トビアス。あんまり邪魔すんなよ」
「……え、先生って、意外に独占欲強めの人なの?」
「そうかもな」
そこはかとなく呆れ顔のトビアスと、なぜかドヤ顔を決める先生。
こんな突然のシフトチェンジに、ついていけるわけがない。
「……ちょっと先生、いきなりやめてよ……」
「もう卒業したんだから、お前こそ『先生』って呼ぶのやめろよ」
「あ」
「ディーン、って呼べよ。ルーシェル」
……甘い! 甘すぎる!
糖分過剰摂取で死にそう。
なんてあたふたしていたら。
「ルーシェル嬢!」
なんだかすごく久しぶりな感のある、高貴なお声が飛んできた。
そういえば今日は朝からバタバタしていて、うっかり『ディフェンスフレグランス』を使っていなかったことに気づく。
「やっぱり君を諦めきれないんだ! もう一度僕にチャンスをくれないか?」
いろいろと切羽詰まり過ぎているのか、眉目秀麗と称えられた風貌もなんとなく貧相に見えるハルラス殿下。
あのあとも殿下はずっと私との接触の機会を窺っていたようだけど、『ディフェンスフレグランス』のおかげでことごとく失敗していたらしい(直接突撃されていないから、よくはわからない)。
おまけに、陛下からも宰相(つまりお父様)からもいい加減新たな婚約者を決めるよう催促されていて、でも正妃に迎えられるような高位貴族の令嬢はすでに婚約者が決まっている人がほとんどだからなかなか相手が見つからないらしい。
それでなくてもあれだけマリーナ様との醜態をさらし続け、そうかと思えばいまだに「僕にはルーシェルしかいないんです!」なんて主張しているものだから、まともな令嬢たちから大ひんしゅくを買うのも当たり前である。
「ルーシェル嬢、頼む。一度話を――」
「殿下」
私が声を発するより早く、先生が私の腰をさらにぎゅっと引き寄せる。
「残念ながら、ルーシェルはすでに私の愛しい恋人なんです。いい加減諦めてもらえませんかね?」
「は? な、何を言ってるんだ、ラウリエ先生……」
先生の言葉はもちろん、私たちが醸し出す甘々な雰囲気に気づいてハルラス殿下は次第に色を失っていく。
「見ておわかりでしょう? 私たちは心から愛し合ってるんですよ」
なんて言いながら、先生はこれ見よがしに私のこめかみにキスをする。
心の中では「きゃーー!」と叫んでこれ以上ないほど慌てふためいてるけど、殿下やみんなの手前、平静を装うしかない。
「き、君たちの婚約が決まったなんて話は一切聞いていないのだが……!」
「今のところはね。でもいくらハルラス殿下に頼まれたって、ルーシェルを渡す気はありませんよ」
そう言って、先生は突然私の真向いに移動したかと思うと片膝をついて跪いた。
「ルーシェル。俺のすべてを君に捧げると誓うよ」
先生がポケットから取り出した小さな箱をそっと開けると、そこには愛と魔力の象徴でもあるラベンダー色のリッセの石をあしらった指輪が優しく光っている。
「先生、これって……」
「受け取ってほしい」
先生って、こんな気障なことやる人だったの!?
と思いつつも、予想外の盛大なプロポーズにぽーっとなってしまう。
「そ、そんな! ルーシェル嬢! 君は僕のことを愛していただろう?」
それなのに焦燥感の滲む場違いな声に邪魔されて、一生に一度の感動的場面も見事に台無しである。
さすがの私もブチっと切れた。
「殿下」
絶対零度の声が、ハルラス殿下を一刀両断する。
「一体いつの時代の話をしているのですか? あなたが私を裏切って放置し続けたおかげで、殿下への恋心はきれいさっぱり粉砕しましたのよ?」
「ふ、粉砕?」
それからふふ、と微笑んで先生に視線を戻すと、先生も甘やかに微笑んでつつ、と指輪をはめてくれる。
「先生がこんな気取ったことをするなんて、思ってなかったですけど」
「俺も誰かを好きになったことがないから知らなかったけど、結構愛が重いのかも」
「……え」
思わず先生の顔を見上げると、悪戯っぽい声が「やっと心置きなくいちゃいちゃできるな」と耳元でささやいた。
次回からはしばらくディーン目線のお話になります!




