21 人魚の涙
「なんだか久しぶりだな?」
ヨレヨレのローブにもっさりボサボサの頭、そのうえダサくて冴えないと評判のラウリエ先生はいつも通りの様子で本棚の前に立っていた。
「ずっと一人でがんばってたのか?」
私が学会提出用の論文を書いていたと思い込んでいる先生は、ねぎらうような優しい笑顔を浮かべている。途端にぎゅーっと心臓が鷲掴みにされて、無性に泣きたくなる。
「はい。がんばりました」
でも今まで通りを装って、私も笑顔を返す。
泣いてはいけない。怪しまれてもいけない。何も知らないふりをして平然とした顔で、これまで通りの自分を演じる。
「じゃあ、ちょっと見せてみろ」
先生に促されて、持ってきたレポートをすんなり差し出した。
表紙を開いてすぐに、先生は訝しげな顔をする。
「なんだ、これ……? レポート……?」
「はい。ウイアル公国に進学しようと思って」
「は?」
「論文じゃなくて、ずっとレポートを書いてたんです。公国に進学するためには必要だから」
「は? 何言って――」
先生はレポートと私の顔とを交互に見比べて、明らかに混乱している。
「先生も早く決めろって言ってたじゃないですか? 提出期限が迫っているから、急いで仕上げたんですけど」
「ちょっと待て」
「それと、進学するには先生の推薦書が必要だと聞きました。お願いできますか?」
「いや、だからさ」
「申し訳ないんですけど期限が迫ってるんで、できれば早めに――」
「ルーシェル!」
珍しく声を荒げる先生に、思わず口をつぐむ。
「どういうことか説明しろ」
「え、だから、公国に進学を……」
「ついこの間までそんなことひと言も言ってなかっただろ? どういう心境の変化だよ?」
「そ、それは……」
先生の射るような視線から目を背けつつ、私はなんとか用意してきた言い訳を並べる。
「ろ、論文を書いていたら、やっぱりもっと専門的な知識とか経験とかが必要だなと思うようになったんです……。それなら公国に進学して、ちゃんと専門的な勉強をしたほうがいいんじゃないかって……」
「だったらすぐ相談に来ればいいだろ? なんで来なかったんだよ?」
「それは……」
言えない。先生と顔を合わせたくなかったなんて、言えない。
かと言って、先生を納得させられるような理由もぱっとは浮かばない。なんだかじわじわと追い込まれている。
何も言えずに黙り込む私を一瞥して、先生が冷たく言い放つ。
「……トビアスか?」
「は?」
「トビアスと一緒に進学したくなったんだろ」
「は?」
なんで急にトビアスの名前が? と思うのに、先生の張り詰めたような、不貞腐れたような、ただならぬ顔つきに目が離せない。
「お前がトビアスと仲がいいのは知ってるし、あいつが進学するから自分も一緒に行きたいと――」
「違います違います。トビアスはあんまり関係ないです」
「は? 正直に言えよ」
「正直に言ってます」
「じゃあ、なんなんだよ」
一瞬、これは嘘でもトビアスを理由にしておけばよかったのではと思った。ただ、時すでに遅しではある。
「お前、ここに残るつもりじゃなかったのかよ?」
「え……?」
少し責めるような口調で言ってから、先生は気まずそうに目を逸らす。
「俺はてっきり、そのつもりで……」
「え?」
「お前が助手としてここに残りたいって言うから、俺はそのつもりで学園長に掛け合って、陛下や宰相にも説明して特例として認めてもらうために走り回ってたってのに」
「え?」
そうなの?
そこまでしてくれてたの?
ついうれしくて、にやけてしまう。
……ダメなのに。
「だって先生、そんなことひと言も……」
「どうなるのかはっきりわからなかったからな。ぬか喜びさせても悪いし、ちゃんと決まってからのほうがいいかと思ったんだよ」
「……ちゃんと決まったんですか?」
「まあ、ほぼ? 大体? 九割以上?」
そう言って、どこか自慢げな顔をする先生。
何もなかったら、多分私も大喜びしていただろう。
先生の婚約の話を知らなかったら。喜んで、舞い上がって、調子に乗って先生に抱きついていたかも。
そんな哀れな想像をして、自嘲ぎみに笑った私を先生は見逃さなかった。
「……なんだよ? うれしくないのか?」
「いえ、うれしいです。そこまでしていただいて、ありがたいと思ってます」
「だったら――」
「でも、辞退します」
「は?」
「先生の助手としてここに残るのは辞退します。公国に行きたいので」
平坦な声で、澄ました顔で、できるだけ感情を抑えて、私は答える。
「は? だからなんで……!」
今にも噛みつきそうな鋭い声なのに、先生の表情はなぜか蒼ざめている。あの柔らかいラベンダー色の瞳に、切なげな影がよぎる。
「なんでだよ? そこまでして公国に行きたい理由はなんだ?」
「え……」
「ちゃんと説明しろよ」
「いえ、それは……」
「説明しないなら認めない。推薦書も書かない」
「そんな……!」
「言ってみろよ。何かあったんだろ?」
包み込むような、優しい声色。
こらえきれなくなって、とうとう涙腺が決壊してしまう。
「先生、優しくしないで……」
一度溢れ出てしまった想いは、あとからあとからこぼれ落ちて止まらない。
「お、おい、ルーシェル」
「ずるいよ、先生。私のことなんか、放っておいてよ……」
「なに言ってんだよ? そんなことできるわけないだろ?」
「どうして……? 婚約、するのに……」
「は? 婚約? お前がか?」
「……私じゃなくて、先生が……」
「俺が? なんだそれ? 誰がそんなこと――?」
「先生の婚約が、もうすぐ決まるって、先生には心に決めた人がいるって、お茶会で、ロヴィーサ様が……」
「……あー……」
しゃくり上げながら問われるままに答えると、思い当たることがあったのだろう。先生が大きなため息をつく。
「ルーシェル」
呼ばれて、顔を上げる。
その声に、これまで決して露わになることのなかった熱が宿る。
「泣くなよ」
不意に先生の手が頬に触れて、涙に濡れたまぶたを親指でそっとなぞる。
「ごめんな」
「……え?」
「……手を伸ばすつもりは、なかったんだが」
「え?」
「でもお前が泣いてるのを見たら、もう無理だとわかったよ」
「無理……? 何が……?」
言われた言葉の意味がわからなくて、ただ先生の顔を見上げることしかできない。
でもどうしてだか、先生も泣きそうな顔をしている。
「お前を泣かせたくないんだ。でも泣いてるのは、俺のせいだよな? 俺が婚約する話を聞いてショックを受けて、それで公国に行こうとでも思ったのか?」
「ちが……」
「違うのか?」
私を覗き込む先生の瞳が寄る辺なく揺れているから、つい「違わない、です……」と俯いてしまう。
先生が、ふっと小さく笑う。
「俺もお前と同じだよ。お前が俺から離れてどこか遠くへ行くとか、俺じゃない誰かと幸せになるとか、想像しただけで頭がおかしくなりそうだ。それに目の前でお前が泣いてるのを見たら、手を伸ばして抱きしめずにはいられない」
「え……?」
そのままふわりと抱きしめられる。
躊躇いがちに、控えめに、それでも絶対に放すまいとする力強さにくらくらする。
「こんなおじさんでごめんな。でももう、お前を手放すなんてできない」
「え、それって……」
「好きだよ、ルーシェル」
「え……」
「俺が心に決めた人は、お前だよ。ルーシェル」
そんな甘い言葉が頭上から降ってきて、驚かないわけがない。
「え? は? なんで……?」
「なんでだろうな? でも気づいたら、もう目が離せなくなってた。可愛くて、誰にも渡したくなくて、このまま連れ去ってしまいたいと思うくらいには」
「えー……?」
「本当は、言うつもりなんてなかったんだけどな」
少し体を離した先生は、愛おしくて仕方がないとでもいうように私の顔を見つめている。
「好きだけど、この気持ちを伝える気はなかった。ルーシェルの幸せを、ずっと見守っていこうと思ってたんだ。お前が誰かを好きになって、婚約して結婚して、幸せになっていくのを一番近くで見守っていくつもりだった。俺はお前を幸せにできないから」
「それは、どういう……?」
「俺はお前と、婚約も結婚もできない」




