20 月光石
その一報をもたらしたのは、トビアスだった。
「僕にはちょっと年の離れた兄がいるんだけど、その兄の奥さん、つまり義姉さんがこの前とあるお茶会に行ったんだよ。そこにたまたまラウリエ伯爵も来ていたらしくて、ラウリエ先生の話になったんだって」
ラウリエ伯爵とラウリエ先生って、仕方がないけど紛らわしいわよね、なんてどうでもいいことをぼんやり考えてしまうくらいには、動揺している。
「先生ももういい年だし、そろそろ婚約とか結婚の話があってもいいのでは? って誰かが言ったらしいんだよね。そしたらラウリエ伯爵が、『弟には心に決めた方がおりますから』『もうじき正式な婚約が決まるかと思いますのでご安心を』って答えたって……」
――――『心に決めた方』。
あの黒髪の女性の笑顔が否が応でも頭に浮かぶ。ああ、やっぱりそうだったんだと、妙に納得している自分がいる。でも震える指先はどんどん冷たくなる。呼吸が次第に浅くなる。乾いた笑いしかできない。
「……ルーシェル、大丈夫?」
「……え?」
「いや、僕の思い違いだったら申し訳ないんだけど、ルーシェルってその、ラウリエ先生のこと……」
おずおずと遠慮がちなトビアスの声に、見抜かれていたことを悟る。
「……気づいてたの?」
「なんとなくね。ルーシェルって、ラウリエ先生の話をするときはいつもすごく楽しそうだったからさ」
「そう……」
「本当は、言おうかどうか迷ったんだ。でも知ってるのに何も言わないなんて、友だちとしてどうなのかなと思って……」
そう言いながらも、トビアスはいまだ苦悶の表情を浮かべている。話すと決めたけれども果たして本当にそれでよかったのか、思い悩む友の顔をしている。
「……大丈夫よ。そんな気はしてたし……」
声まで震えていることに気づいて、我ながら戸惑う。抑えようとするけど、うまくいかない。
「……先生に好きな人がいるのは知ってたから、大丈夫」
「知ってたの?」
「うん、まあ……」
曖昧に答えて、やり過ごす。
こうなることは、わかっていた。あの肖像画を見つけたときから、薄々気づいていたことだ。
だから知りたくなかった。現実から目を背けていたかった。先生を好きな気持ちを自分だけの心に秘めて、幸せな時間を積み重ねていたかった。
もう傷つきたくなかったから。ただ、それだけだったのに。
でも、どうやら時間切れらしい。
「まあ、ね。仕方ないわよね」
すべてを断ち切るように、殊更明るい声を出す。うまく笑えているかはわからない。
「だってほら、年も違いすぎるし。それに先生と生徒なんて、ねえ」
「……ルーシェル……」
「なんていうか、憧れ? みたいな感じだったのかも。なんだかんだ言って先生の魔法薬学の知識とスキルは尊敬に値するものだったし、その道に進みたい私にとっては目指すべき目標というか、あんなふうになりたいっていう願望だったというか」
はは、と笑いながら吐き出す言葉に、自分の心がえぐられていく思いがする。
それでも私は、その痛みに目を背ける。取り繕うように、心にもない言葉を吐き続ける。
「よかったのよ、これで。先生もいい年なんだし、ずっと一人でいるってわけにもいかないし。あ、でも先生の婚約が決まったのなら、私も本格的に卒業後のことを考えなきゃね」
「え、ルーシェルはラウリエ先生の助手として残るつもりじゃなかったの?」
「そういう選択肢もあるかなーって思ってただけよ。でも先生にそうしろって言われていたわけじゃないし、それに私が助手として残っていたら相手の人だってきっと面白くないでしょう?」
……嘘。
ほんとはこのまま、先生の一番近くにいられたらと思っていたくせに。のらりくらりと行き先を決めずにいれば、優しい先生が「仕方ないな」なんて言いながら拾ってくれると期待していたくせに。
溢れそうな涙をこらえて、ぎゅっと手を握りしめる。
「……トビアス、お願いがあるんだけど」
努めて冷静に、本心を見透かされないように、じっとトビアスを見据えた。
「な、何?」
「ウイアル公国に進学するには、どうしたらいいか教えて」
「は?」
途端にトビアスは、とんでもないという風に眉を顰める。
「ちょっと、ルーシェル。そんな、投げやりになっちゃダメだよ」
「なってないわよ」
「いやでも、いきなり進学だなんて……」
「いきなりじゃないわよ。前々から、選択肢の一つとしては考えていたもの」
「でも自分の将来のことなんだよ? そんな衝動的に決めちゃダメだって」
「……衝動的じゃ、ないから」
思ったよりも悲痛な声に、トビアスが息を呑む。
先生のそばにいられないのなら、どこに行ったって同じこと。でも近くにいたら、先生がほかの誰かを愛おしげに眺める姿を目の当たりにしてしまう。
そんなのは耐えられない。
だったら今すぐ、ここから逃げたい。合法的に、逃げ出してしまいたい。
私の本音を知ってか知らずか、眉を顰めたままのトビアスは躊躇いがちに口を開く。
「公国の学園に進学するには、レポートの提出が義務付けられていることは知ってるよね?」
「もちろん」
「今からレポートを書き始めるなんて無謀すぎると思わない? 締め切りまであと二週間もないんだよ?」
「それならこの前の香水に関する論文を書いてる途中だから、大丈夫よ。公国学園の課題に合わせてちょっと手直しすればいいんだし、死ぬ気で書けばなんとか間に合うでしょ」
「それだけじゃないよ。進学には先生の推薦書が要るんだよ?」
「え?」
「魔法薬学の研究科に進むなら、魔法薬学の先生の推薦書が要る。ラウリエ先生にお願いしないといけないんだよ?」
トビアスの強い視線が、試すように「できるの?」と尋ねている。
「だ、大丈夫よ。お願いすればいいだけなんでしょ?」
「そうだけど……」
「大体、進学のことを教えてくれたのは先生なのよ? 早く決めろとか真剣に考えろとかずっと言われてたんだし、やっと決めたのかってすんなり書いてくれるわよ」
引き留める理由もないんだし、と言おうとして、涙が出そうになってやめた。
頑なな私の態度に、トビアスもそれ以上何も言うことはなかった。
それから私は、先生の研究室には行かずに一人で論文を書き進めた。
論文、というか、体裁としては公国学園に進学するためのレポートの形式に手直しする必要がある。たまたまではあるけど、私が書こうとしていた論文と進学の際に提出すべきレポートの課題が似ていたこともあって、修正はそれほど難しいものではなかった。
ひたすらレポートに没頭していると、襲いかかる痛みや苦しみを束の間忘れることができる。でもふとした瞬間、気を緩めた隙に、先生の笑顔が頭をかすめる。
それを振り切るように、私は無心で机に向かった。
ハルラス殿下のときと同じように、好きなことに夢中になっていればきっと忘れられる。きっとこの恋心も、すぐに泡沫となって消えるはず。
それでも苦しさで息ができなくなったときには、あのアルフリーダの本を読んで心を落ち着かせることができた。古今東西のおとぎ話に触れていると、少しだけ痛みが紛れる。中でも月の光を集めたと言われる『月光石』や『人魚の涙』と呼ばれる鉱石系素材にまつわる逸話は失恋話や悲恋ものが多く、なんだかやけに泣けた。涙を流すとちょっとだけ、心が軽くなった。
そうして、一週間ちょっと。
レポートの提出期限はもう間近に迫っていた。
なんとか仕上げられたことに安堵しながら、進学のための推薦書をお願いすべく、私はラウリエ先生の研究室の前に立った。




