2 惚れ薬
「記憶をなくす薬?」
突拍子もない質問に面食らったのか、ラウリエ先生が訝しげな顔をする。
「都合の悪い、思い出したくない記憶を全部消してしまう薬とか、どうにもならない恋心をきれいさっぱり忘れてしまえる薬とか。そういう薬があったら、いいのになって」
そうしたら、ハルラス様のこともマリーナ様のことも何もかも忘れて、また心から笑える日がきっと戻ってくるのに。
そんな非現実的な願いに我ながら苦笑すると、ラウリエ先生は不思議そうに首を傾げる。
「こういうときは、惚れ薬がほしいって思うものなんじゃないのか?」
「惚れ薬、ですか?」
「ハルラス殿下に使えば、殿下の気持ちを取り戻すことができるだろ?」
「……でもそれは、ハルラス殿下の本当の気持ちじゃないですよね? 薬の効果で私のことを見てくれるようになったとしても、そんな偽りの気持ちは虚しいだけです」
――――惚れ薬。
飲ませた相手に恋心を抱かせることができると言われる、魔女の秘薬の一種。
この世界には、かつて魔女がいた時代があったとされている。魔女はその類まれなる魔力と知性で、いくつもの秘薬を生み出した。魔女に作れない薬はなかった、とまで言われるほど。
そしてその魔女の末裔が、目の前のくたびれたやさぐれ先生の家門、ラウリエ伯爵家なのだという。
「偽り、ねえ……」
どことなく意地の悪い笑みを浮かべながらも、眼鏡の奥のラベンダー色の瞳は真っすぐに私を捉える。
「今のこの状態が、殿下の一時的な気の迷いということもあり得るんじゃないか? 貴族令嬢らしからぬ珍獣を前にして、物珍しさにちょっと目移りしてるだけという可能性もある」
「そうかもしれません。でも一度でもほかの女性に心を傾けた方と、この先の人生をともに過ごしていける自信がありません。ハルラス様が近い将来立太子すれば、いずれ国王に即位されます。そのとき、ともに国を支えていける気がしません」
マリーナ様を寵愛するハルラス様を見続けて、私の心は疲弊してしまったのだろう。
ハルラス様への想いを、諦めきれない。でもこの先ともに過ごす幸せな未来を、頭の中に描くこともできない。
マリーナ様を見つめる瞳に宿るあの甘い熱を、私は向けられたことがなかったから。
「なるほどな。八方塞がりなこの状況の打開策としては、惚れ薬よりも忘却薬のほうが望ましいというわけか」
無精髭の生えた顎に手をやりながら納得したように頷いて、どこか思わせぶりな顔つきになるラウリエ先生。
「惚れ薬にしても忘却薬にしても、まるっきり非現実的な話ってわけでもない」
そう言って、机の上に乱雑に積み上げられた本の中から『魔法薬学入門』を手に取った。
「一年生が使う、この『魔法薬学入門』の冒頭には魔法薬とはなんなのかという概論的な説明が書いてある。覚えてるよな?」
「はい」
「その中に、惚れ薬や忘却薬みたいな非現実的とされる秘薬も魔女なら調合可能だった、と書かれてただろ?」
「でもそれは、魔女の時代の話ですよね? 魔法薬の起源は魔女の秘薬であり、魔女に作れない薬はなかったと言われている。でも魔女のいない現代でそんな秘薬を作るのは不可能だって、先生が授業の中で話してたじゃないですか」
「お前、ほんとによく覚えてるよな」
感心したように、ラウリエ先生は相好を崩す。
「確かに、魔女の秘薬なんてどこの薬店でも取り扱ってないし、学園の授業で習うこともない。現実には存在し得ないと思われてる薬だが、ほんとは作れないわけじゃない」
「……え?」
「知っての通り、俺は魔女の末裔ラウリエ伯爵家の人間だ。うちには鍵のかかった古い書庫があってな。そこに門外不出の本やらメモやら、ご先祖様たちが考案した魔法薬の秘伝の調合法がごまんと残ってるんだよ。その中に、惚れ薬や忘却薬の生成方法があるかもしれない」
「あるかもしれない……?」
「探したことなんかねえからな」
「え」
茶目っ気たっぷりに笑うラウリエ先生に、なんとなく騙された気分になって胡乱な目つきをしてしまう。
「だいたいな、書庫の鍵は代々家長が受け継ぐものなんだよ。だから誰でも入れる場所じゃないんだ」
「家長、というと、ラウリエ伯爵ということですか?」
「ああ。つい最近代替わりしたから、現ラウリエ伯爵は俺の姉だけどな」
ラウリエ伯爵家は魔女の末裔だからなのか、女児の生まれる比率が圧倒的に多いらしい。現状、ラウリエの血を継ぐ者で男性なのは、ラウリエ先生と先生の従兄弟でバーリエル侯爵家の長男であるユリウス様しかいないと聞いたことがある。
「まあ、だからさ、何が言いたいかというと」
どこか試すような、それでいて探るような目をしながら、ラウリエ先生がちょっと前のめりになる。
「惚れ薬も忘却薬も、作れないわけじゃない。だからほんとにどうにもならないと思ったらそれに頼ることにして、今はもう少し現実的な解決方法を考えてみたらどうかってことだ」
「現実的な解決方法、ですか……?」
それが思いつかないから、夢みたいな薬がほしいなんて願いが頭をかすめたのに。
少しの苛立ちを抑えながら視線を逸らすと、ラウリエ先生が気遣わしげに尋ねる。
「例えばさ、フォルシウス侯爵には相談したのか?」
「父にですか?」
「ああ。侯爵とか夫人とかにさ」
「両親には、特に話してません。父は宰相なので、学園での様子はある程度耳に入ってると思いますが……。でも家でこのことを聞かれたことはありません」
「ないのか?」
「はい。二つ年下の弟もいますから、学園でのことは私が話さなくても弟が報告してると思いますけど」
「でも直接話し合ったことはないんだな?」
「ない、ですね……」
宰相としてこの国の安寧と発展を考えれば、お父様が私とハルラス様との婚約をどうこうしようだなんて思わないことは目に見えている。
この婚約には、政略的な意味もある。それはこのフォルシウス侯爵家から、王妃を誕生させるという野望も含まれるということ。
今更私の葛藤や苦痛を話したところで、事態が動くとは思えない。
「わかった。じゃあ、こうしよう」
ラウリエ先生はなぜか楽しげな雰囲気さえ醸し出して、ニヤリと笑った。
「俺は姉上に頼んで、うちの書庫から忘却薬の生成方法を探してくる。それを見ながら、お前が自分で調合してみるってのはどうだ?」
「……え?」
見たこともないほど、悪戯っぽい目を輝かせる先生に狼狽える。
「ほしいんだろ? なら自分で作ってみればいい」
「いや、でも……」
「なんだ? いらないのか?」
「だって、どうしてそこまでしてくれるんですか? だいたい、ラウリエ伯爵家の書庫や秘伝の調合法のことだって門外不出の極秘情報なんですよね?」
「まあな。でもお前なら、我が家のトップシークレットを他人にペラペラ話したりしないだろ?」
「それは、まあ、はい」
「お前が信用に値する人間だってのは、長年学園で接してきてわかってるつもりだ。まあ、乗りかかった船だし、このまま見てるだけってのも気が引けるし、がんばる生徒を応援したくなるのは教師として当たり前のことだしな」
「先生……」
「それに、お前ってなんでもそつなくこなすけどさ、魔法薬学のセンスに関してはずば抜けてるんだよ」
「え?」
魔法薬学のセンスがずば抜けてる?
そんなこと、思ったこともなかった。確かに好きな教科だし、先生の授業は面白いし、魔法薬学に関しては何を学んでも楽しくて、苦にはならないけど。
「去年の学年末にお前が提出した『完全万能薬の可能性』ってレポート、あれはなかなか興味深かったよ。身体的な治療回復薬と精神的な癒しや回復を促す薬、両方の効果を持つ完全万能薬の生成は可能かどうかって考察もさることながら、作るとしたらどんなものが材料になり得るかってところまで独自に分析してただろ? もう少し緻密な検討と解析を加えれば、正式な論文として学会に発表できるくらいのレベルだったよ」
「ほ、ほんとですか?」
「ああ。その年であんなレポートを書けるなんて、正直お前の才能に嫉妬したくらいだ」
「嫉妬した」なんて言いながら、先生の表情はどこまでも柔らかく温かい。
「だからさ。教師としては、その才能を埋もれさせたくないんだよ」
包み込むような低い声に、ひと筋の光が見える。
自分の中の好奇心の塊が騒ぎ出すのを、止めることはできなかった。