19 ディフェンスフレグランス
翌日。
ランチの時間に、昨日調合した香水の瓶を渡される。
「名前なんですけど、『ディフェンスフレグランス』というのはどうでしょう?」
「……防御する香水ってことか?」
「はい。私にはアルフリーダみたいなネーミングセンスがないから、それくらいしか思いつかなくて」
「いや、そもそもアルフリーダにはネーミングセンスがあるって言えんのか?」
先生は怪訝な顔をしていた。
その日の最後の授業である魔法薬学はいつも通りの緩い雰囲気で終わり、教室を出る直前手首の内側に香水を一滴だけたらす。
ティンフラワーの甘い香りがふわっと漂って、トビアスが「あれ、なんかいい匂いがする」とつぶやく。
心の中で「よし!」と気合を入れて、私は廊下に出た。
行き交う生徒たちの波に逆らってその場から動かずにいると、トビアスが「早く行かないとまた殿下に捕まるよ?」と気遣わしげに忠告してくれる。
私はふふん、とほくそ笑んで、そのときを待つ。
そして。
「ルーシェル嬢!」
来た! と思わずガッツポーズをしそうになった次の瞬間だった。
「うわっ! く、くさっ! なんだこの匂いは!?」
私のほうに近づいてこようとしたハルラス殿下は慌てて鼻をつまみ、一歩二歩と後ずさる。
「くさっ! え、なんだこれ!?」
一人だけ臭い臭いと大騒ぎする殿下の謎行動に、みんなが不思議そうな顔をする。「え? 匂い?」「する?」「なんかいい匂いならするけど」とかいう会話も聞こえてくる。
廊下の端に佇む先生は、その様子を見てちょっとニヤニヤしている。と思ったらそのまま柔らかい笑顔を向けられて、途端に頬がぶわっと熱を持ってしまう。
何やら不可解な状況に立ち止まる人たちのざわめきが広がる中、次の被害者が現れる。
「え、何これ!? 超臭いんだけど!」
雑踏に向かって飛び込んでこようとしていたマリーナ様が、ひと際甲高い声を上げる。
でもしかめ面をしながら両手で鼻と口とを覆い、近づこうにも近づけないらしい。まわりにいる生徒たちのきょとんとした顔を見回して、「みんな、臭くないの!?」「なんで!? 私だけ!?」とか叫んでいる。
私に近づきたくてもひどい異臭に阻まれて身動きできないハルラス殿下と、そんな殿下と私の邪魔をしたいのにやっぱり臭さに耐え切れず一歩も進めないマリーナ様。
滑稽なほど狼狽えながらありもしない臭さと格闘する二人を見定めて、私が何かしたのだと気づいた勘のいい人たちもいる。トビアスなどはそのいい例で、
「ルーシェル、何か仕掛けたね?」
とか言いながら、くすくすと笑っている。
幼い頃からの婚約者を蔑ろにして別の令嬢に入れ揚げた挙句、自分勝手な言動を繰り返してきたハルラス殿下は思った以上に学園生たちの人望と信頼を失っていたらしい。あまりの臭さによろめく殿下を、みんな遠巻きに眺めているだけ。
マリーナ様はマリーナ様で、無知を装ったあざとさを武器に分不相応な立場を得ようと殿下を誘惑する姿がみんなの反感を買っていた。殿下との関係が切れたあとも、寵愛を取り戻すために私を貶めようと闘争心をむき出しにする様が非難の的になっていたらしい。
そんなわけで、二人に救いの手を差し伸べる人は誰もいない。
自分が開発した魔法薬の効果に小躍りしたくなるほど大満足していると、
「おいおい。こんなところでたむろってないで、みんな早く帰れよー!」
先生がタイミングよく声を張り上げる。
その声に促されて、生徒たちの波がまたゆるゆると動き始める。
殿下とマリーナ様は何がどうなっているのか理解できず、鼻をつまみながら呆然と立ち尽くしたまま。
そんな二人を置いてけぼりにして、私はそそくさと生徒たちの波に紛れた。
◇◆◇◆◇
その後も何度か殿下とマリーナ様の襲撃を受けたものの、『ディフェンスフレグランス』のおかげで難なく撃退することができた。
なんせあの人たちは、私に近づくことすらできないんだもの。
視界の隅で異臭に悶え苦しむ二人の姿を確認することはたびたびあったけど(それはそれで可笑しかった)、直接的な突撃はなくなったからまあまあ平和である。
とんでもない異臭のせいで私に近づけないハルラス殿下は、その惨状を陛下や宰相であるお父様にも報告したらしい。でも異臭を感じるのはハルラス殿下とマリーナ様だけであり、そのほかの生徒たちには何の害もないのでしばらく様子見でいいのでは? という話になっているんだとか。
大体、鼻が曲がるほどの異臭なら近づかなければいいだけのこと。
私の企みについては、当然家族にきちんと伝えてあった。だからアルヴァーは快く協力してくれたし、お父様も事情を知りつつ「不可解な現象ですね」なんて言いながらハルラス殿下の苦情や鬱憤を軽くかわしているらしい。私には一切近づくなと言われていたのに、どんなに抗議されても無視し続けたのだから自業自得だなんてお父様はせせら笑っている。
「でもこれ、いまいち汎用性がないと言いますか、私以外には需要がないような気がするんですけど」
新薬(『薬』と言えるのかどうかは置いといて)開発に成功した私は、それを論文に書き起こすべくまた先生の研究室に通っている。
「特定の人物に執拗に追いかけられたり突撃されたりすることって、普通はあんまりないじゃないですか」
「まあな」
「それを論文にして発表したとしても、業界的にはどうなんですかね? ウケますかね?」
「そりゃウケるだろうよ。『ディフェンスフレグランス』なんて突拍子もないものを開発したことはもちろん、『七色サンゴ』の効果に関する仮説を打ち出すのは充分意味があると思うぞ。謎の素材の全容解明に大きく貢献するわけだからな」
先生はこの成功を大絶賛してくれて、こっちが気恥ずかしくなるくらいずっと褒められている。
だから論文はちゃんと仕上げようと思っているのだけど、こうやって先生と一緒にいる時間が長くなればなるほど歯止めが効かなくなりそうで、手放しでは喜べない気もしている。
今ならまだ、引き返せる。むしろ、引き返さなきゃいけない。
そう思いながらも先生との時間はやっぱり楽しくて、ずっと先生のそばにいたいと願ってしまう。
そんな葛藤のさなかにいる。
「なんだ? もう帰るのか?」
椅子から立ち上がって荷物をまとめる私に、先生は意外そうな顔つきをする。
「あとは家で書こうかと」
「別にここで書いてもいいんだぞ? 俺もまだいるし」
「大丈夫です。何かあったら、また来ます」
少しずつ距離を置いていかなければと頭ではわかっていても、やっぱり後ろ髪を引かれる思いがする。
卒業まで、残り少ない。
最優先事項だった『ディフェンスフレグランス』の調合が完成した今、私の目の前には先延ばしにしていた問題が山積みだった。自分の進路のことも、先生とのことも、あの女性の存在も、何一つ解決していないしどうしたらいいのかもわからない。
好きだけど、傷つきたくない。傷つくくらいなら、何も知りたくない。先生のそばにいたいけど、現実を突きつけられたくない。
どこかで決着をつけなければならないのにそんな臆病風に吹かれていた私は、ある日突然地獄に突き落とされることになる。
「……ルーシェル、聞いた? ラウリエ先生の婚約が決まったらしいって……」




