17 七色サンゴ②
眠れなかった。
夜の闇に、細い月が淡く光る。
帰ってきてからもずっと、先生のことを考えている。
ダサくて冴えなくておまけに十歳も年上で、客観的に見たら格好いいと思える要素なんて一つもないというのに(先生、ごめん)、今私の脳内で再生されている先生はやばいくらいの補正がかかっている。なんだかとても、キラキラしている。
そしてとても、ドキドキする。想えば想うほど、胸がぎゅっとなる。
授業のときはいい加減で面倒くさがりですべてに投げやりだったけど、本当は面倒見がよくて、温かくて、そして優しい人だった。どんなときも見守ってくれて、軽口を叩きつつも馬鹿にすることはなく、一緒にいるとどこまでも包み込むような安心感で満たされる。
だからこそ、次の瞬間にはあの女性の笑顔が頭に浮かんで深い奈落に突き落とされる。
あの女性が誰なのか、先生にとってどんな存在なのか、わかるわけがない。でも多分、特別な存在なんだと思う。あの肖像画には皺ひとつなく、大切に扱われていたことが嫌でもわかってしまうから。
考えてみれば、学園の教師だということ以外私は先生のことをほとんど知らなかった。魔女の末裔であるラウリエ伯爵家の人間だということは知っていても、それだけだ。これまでどこで、どんなふうに育って、誰と出会い、どんな時間を過ごしてきたのか、知る由もない。
何度寝返りを打っても、先生の優しい笑顔は頭の中から消えてくれなかった。
気づいてしまった恋心は、そう簡単に消せはしない。
でも私は、強くまぶたを閉じてこの想いに蓋をしようとする。目を背けて、必死に嗚咽をこらえている。
だってもう、傷つきたくない。ハルラス殿下のときのような、あんなつらくて苦しい思いはしたくない。先生に好きな人がいて、その人を愛おしげに見つめて微笑む姿なんて黙って見ていられるわけがない。私じゃない別の人と幸せそうに寄り添う姿なんて。
そうなったら今度こそ、私の心は死んでしまう。
致命的で決定的な事実を知るのが怖くて、私はあらゆるものから逃げようとしていた。
◇◆◇◆◇
翌日は、さすがに先生の顔を直視できる気がしなくて研究室には行かなかった。
でも翌々日には残酷にも魔法薬学の授業があって、顔を合わせないわけにはいかなかった。教室に現れた先生はいつも通りの飄々とした態度で、面倒くさそうに授業を進める。
どう見てもヨレヨレのボザボサ、くたびれてやさぐれた先生なのに、ほおっと見惚れている自分に慌ててしまう。それからあの女性の存在を思い出して一気にどん底に落とされ、こんな不毛な想いは沈めてしまおうと決意して、それなのにまた先生に見惚れている。その繰り返し。
なんか、ダメだ。キラキラとドキドキとグサグサとボロボロが一気に押し寄せて処理しきれない。情緒が忙しい。疲れる。
「どうしたの?」
隣の席に座るトビアスが、心配そうに私の顔を覗き込む。
「え? な、何が?」
「なんか、ぼんやりしてるからさ。大丈夫?」
適当に笑って誤魔化すしかない。
魔法薬学は選択科目で、本来クラスの違うトビアスはこの授業のときだけ一緒だったのだと仲良くなってから知った。どうりで、見たことがあるようなないような、中途半端な記憶しかなかったわけだ。
なんとか授業が終わってトビアスと廊下に出ると、聞き慣れた低い声に呼び止められる。
「ルーシェル」
「は、はい!」
わかりやすく上擦った声に、隣にいたトビアスも呼び止めた先生も不思議そうな顔をする。
「お前、あとで研究室に来てくれるか?」
「は、はい」
「大至急まとめなきゃならない論文があってな。ちょっと手伝ってほしいんだ」
トビアスは私が助手兼掃除係として研究室に出入りしてるのを知っているから、訳知り顔で頷いている。でもこの呼び出しは、おととい読んでおけと言われた『七色サンゴ』の参考文献について話をするためだろう。
どうやら今日は逃げ切れないと観念して、薄笑いをしながら「わかりました」と答えたときだった。
「ルーシェル嬢」
今度はまったく別の方向から、このところうまくかわし続けていた高貴な声が耳に届く。
「今授業が終わったのかい?」
「……はい、殿下」
にこやかな笑顔を浮かべて、颯爽と近づいてくるハルラス殿下。
完全に油断した。こんなところで引き留めてしまったタイミングの悪さに、先生もしまった、という顔をする。
「これからランチの時間だし、どうだい? 久しぶりに一緒に――」
「ハル様!」
そして、お約束通りマリーナ様が突進してくる。ほんと、どこかにセンサーとか探知機とかがあるのだろうか。タイミングが良すぎるんだけれども(いや、悪いのか?)。
「ハル様! こんなところで会えるなんて、奇遇ですね!」
いやいや、絶対狙って来たでしょうよ。と、この場にいる誰もが思ったけど、口にする愚か者はいない。
「せっかくランチの時間ですし、ご一緒にいかがですか?」
「い、いや、僕はルーシェル嬢と一緒に……」
「え?」
ちょっと。私は行くなんてひと言も言ってないんだけど。口を挟むべきかどうか迷った一瞬の隙をついて、マリーナ様は容赦なく言い募る。
「でもルーシェル様は、すでにトビアス様と懇意にされているご様子ですよ? いつも仲睦まじく過ごされていて、ご婚約も間近だと専らの噂ですし」
「は?」
反射的にトビアスと顔を見合わせる。小声で「そうなの?」と聞くと、「なんで僕に聞くんだよ?」と困り顔を見せる。
どこで誰がそんな噂をしてるんだとツッコもうとしたけど、マリーナ様の勢いは止まらない。
「ですからハル様、私がランチのお供をいたします! 前みたいに二人だけで一緒に食べましょう? 裏庭の噴水のところに行きますか? それとも――」
「僕はルーシェル嬢を誘ってるんだ。いい加減、余計な口出しをするのはやめてくれないか?」
「そんな言い方ひどいです! 私はただ、ハル様と一緒にいたくて……」
「でも君との関係は終わったんだよ。そう説明しただろう?」
「そんなのあんまりです! あんなに愛してるって言ってくれたのに! もう放さないよって、ずっと一緒にいようねって言ってくれたのに!」
……私たち、なんでこんな茶番を見せられてるんだろう? 居合わせたまわりのみんな、同じようになんとかスナギツネみたいな目になっている。
それに、私という婚約者がいながらそんなことまで言ってたのね、とますます冷ややかな視線を向けてしまう。どういうつもりだったのか知らないけど、馬鹿にするのも大概にしてほしい。
私はわざとらしく、これ見よがしに、大きなため息をつく。
「殿下」
凍てつくような冷たい声に、殿下の肩がびくっと震える。
「私とトビアス・ブレグダン伯爵令息はラウリエ先生の研究室に呼ばれておりますので、ここで失礼させていただいても?」
王子妃教育で培った鉄壁の愛想笑いで嘘八百を並べると、先生がすかさずフォローを入れてくれる。
「そういうわけなんで、殿下。ここで失礼しますね。二人とも、行くぞ」
軽く一礼してからその場を去る私たちを、すがるような目で見つめるハルラス殿下と忌々しそうな表情で睨みつけるマリーナ様。
なんだかどっと疲れたけど、あれこれ思い悩む前に『殿下よけフレグランス(仮)』だけは早急に完成させなければと心に誓ったのだった。
そんなわけで、放課後は覚悟を決めて先生の研究室に向かう。
待っていた先生を目にして、瞬時に浮足立つ自分の気持ちが落ち着かない。今までどんな顔をして会っていたのか思い出せず、ぎくしゃくとした動きになってしまう。
「おととい渡した文献、読んでみたか?」
もちろん、先生はそんな私に気づくわけもなく至って通常運転である。
「読みました」
「で? 見解は?」
いつもと変わらない冷徹な科学者の姿勢を見せる先生に、私の脳内も自ずとモードが切り替わる。
「やっぱり『七色サンゴ』しかないと思います」
それから私は、昨日の冊子にあったベアトリス考案の認識阻害薬とアルフリーダ考案の『パイバイン薬』について説明し、魔法薬素材としての『七色サンゴ』に期待される効果を力説する。
「……そうか」
腕を組みながら難しい顔で耳を傾けていた先生は、思考を巡らせているのかしばらく押し黙った。
それからゆっくりと、口を開く。
「……『七色サンゴ』はまだまだ未知の素材だ。魔法薬の材料として用いられること自体少ないし、だからこそ文献もそう多くはない。だからお前の話は、あくまでも推測の域を出ない」
「……はい」
「でもそこまで言うなら、ひとまず試してみるか」
先生の意味ありげな微笑みに、やっぱり見惚れてしまっていた。




