16 七色サンゴ①
「先生!」
翌日の朝、いつもより早く学園に向かうと勢いよく研究室のドアを開けた。
「うわ、なんだよ。朝っぱらから――」
「『七色サンゴ』はどうですか!?」
「は?」
「だから『七色サンゴ』ですよ!」
「何がだよ」
薄々なんのことだか察しながらも、先生はちゃんと説明しろと目で促す。
「『殿下よけフレグランス(仮)』の最後の素材です。『七色サンゴ』を使ってみたらどうかなって」
「『七色サンゴ』って、『メタモル薬』に使う素材の?」
「そうです」
「根拠は?」
「勘です」
淀みなく答えると、先生がすかさず「おい……!」とツッコむ。
「なんだよ、勘って。もうちょっとマシな答えはないのかよ」
「ないです。でもこれは、確かな勘です。先生、『海の女王エアと不思議な秘宝』の話は知ってますよね?」
「あー、財宝を狙ってやってきた海賊たちを海の女王が追い払う話か?」
「はい。あの話の中で、女王エアは陽の光を浴びて輝く『七色サンゴ』の力を使って海賊たちにサメの幻影を見せました。つまり『七色サンゴ』の秘めたる力とは、ないものをあるように見せる力だと思うんです」
「……ないものをあるように見せる力?」
「『メタモル薬』も、そこにいないはずの人の幻影を見せていると考えれば辻褄が合います。つまり魔法薬素材としての『七色サンゴ』には、ないものをあるように見せる効果がある」
「……ああ、なるほど……」
「だとすれば、です。『殿下よけフレグランス(仮)』に『七色サンゴ』を使えば、殿下とマリーナ様にだけ、ないはずの異臭をあると思わせることができるんじゃないかと」
私の渾身の説明に、先生はぐっと力んだ顔をする。
「まあ、可能性として、なくはないだろうが……」
「ですよね!」
「でもそれだけじゃ、根拠としては弱いな」
「えー」
「考えてもみろ。お前のその仮説は、アルフリーダの本から着想を得たんだろ?」
「そうですよ」
「おとぎ話の中の『七色サンゴ』にはそういう力があるのだとしても、現実に存在する『七色サンゴ』にも同じような効果があるとは言い切れないだろ? 単なるおとぎ話をそのまま信じるのは、科学者としてあるまじき行為だと思わないか?」
あくまでも冷静さを失わない先生の態度に、はっきりとした苛立ちを覚えてしまう。正論過ぎるからこそ、拙い反発心が芽生えてしまう。
「本当の科学者は、どんな可能性も排除しないと思うんですけど」
思わずむすりとして答えると、先生はちょっと目を丸くして、それからふっと表情を緩める。
「わかった、わかった。まったく、ルーシェルには敵わないな」
なぜか妙に上機嫌になって、本棚から幾つかの本やら冊子やらを取り出す先生。
「『七色サンゴ』を材料にした魔法薬ってのは、実はそう多くはない。素材としてどういう効果があるのか、解明されてない部分も多いからな」
「それは、知ってます」
「とりあえず、この本に『七色サンゴ』に関する研究結果が書かれてあるからちょっと読んでみろ。それからこっちの冊子はうちの書庫から持ち出してきた調合法で、『七色サンゴ』を材料にした魔法薬について書かれてあるから調べてみてくれ」
本と冊子を手渡してくれた先生は、部屋の隅にかけてあったヨレヨレのローブを纏いながら付け加える。
「俺は午前の授業が終わったら帰ることになってるから、あとのことは頼むな」
「え、いないんですか?」
「面倒な野暮用なんだよ」
本当に面倒くさそうに顔をしかめる先生を見て、思わず吹き出してしまった。
放課後。
ハルラス殿下たちの目をかいくぐって研究室にたどり着いた私は、朝一番で先生から借りた本と冊子に目を通した。
本のほうは、『七色サンゴ』の生物としての生態や解明されている有効成分、魔法薬素材として予測される効果の内容など調査研究結果が結構詳しく書かれてある。
冊子のほうは二冊あって、一つは『七色サンゴ』を用いた『認識阻害薬』の調合法が記されてあった。発案者はベアトリス・ラウリエ。あとで聞いたら、アルフリーダの孫にあたる人らしい。
認識阻害薬とは、人間が特定の対象を識別できない状態にする魔法薬である。現在のところ数種類が考案されているけど、ベアトリスが開発した認識阻害薬の調合法を読む限り、『老若男女変身薬』のメカニズムを応用したものと考えられた。
もう一方の冊子に書かれていたのは、またしてもアルフリーダ考案『パイバイン薬』なる魔法薬の調合法である。
『パイバイン薬』とは何か。
なんと、女性の胸の大きさを一時的にたわわな状態にする薬らしい。アルフリーダってば、さすがにいろいろぶっ飛んでる。なんでまたこんな魔法薬を開発しようとしたのだろうと思ったけど、胸の大きさはすべての女性にとって永遠の、そして切実なる悩みだわねと思い直した。気持ちはわかる。うん。
そしてこの『パイバイン薬』も『老若男女変身薬』のアイディアを応用し、一部発展させた魔法薬のようだった。まあ、『老若男女変身薬』を考案したのはアルフリーダなのだからさもありなん、ではあるんだけど。
ベアトリスの認識阻害薬も『パイバイン薬』も、結局は見た目を誤魔化す、見た目を変えるという共通点がある。どちらもないものをあるように見せるという点で、効果の方向性は一致している。
やっぱりこれ、『七色サンゴ』で行けるんじゃないの……?
浮き立つ心を抑えて本棚の前に立った私は、ほかにも『七色サンゴ』に関する文献がないか探し始めた。これまでずっと掃除や片づけをしてきたから、どこにどんな本が並んでいるかは一目瞭然である。
そこでふと、あまり見覚えのない背表紙に気づく。
場違いなほど美しい色彩の装丁に、こんな本あったっけ? と思いながら手に取って開く。その拍子に、何かがひらりと落ちた。
かがんで拾い上げ、なんの気なしに裏返す。
――――それは、たおやかに微笑む長い黒髪の女性の肖像画だった。
その瞬間、どくん、と心臓が嫌な音を立てる。
…………これは、何? この人は誰? これは、この人は……?
もしかして。
先生にとって特別な人? 先生の、好きな人……?
そこまで考えた途端、急に心臓がばくばくと走り出す。頭が真っ白になり、呼吸もままならなくなって、まるで奈落の底にでも落ちていくような感覚に陥りながら、そうしてようやく、私は気づいてしまった。
自分がもうどうしようもなく、ラウリエ先生に惹かれているということに。
いつからかはわからない。でもいつのまにか、先生と過ごすありふれた日常がもう手放せないくらい大事なものになっていた。研究室で先生と一緒に過ごす時間が、私にとってはかけがえのないものになっていたのだ。
先生が、私にとってかけがえのない人になっていた。
名前で呼ばれるたびにドキッとするのも、先生のことをもっと知りたいと思ったのも、悩んでる先生の役に立てなくて落ち込んだのも、先生との時間がずっと続けばいいと思ったのも、考えてみれば先生を好きになり始めていたからじゃない。
今の今までまったく気づかなかったなんて。
「……馬鹿だわ」
掠れた声が、床に落ちる。
いろいろと衝撃が大きすぎて、ふらふらと後ずさりしながらソファに座り込む。はあ、と大きく息を吐く。こうなってみて初めて自覚するなんて。情けないというか不甲斐ないというか。
それからもう一度、手にしていた肖像画の女性を眺めてみる。儚げで、透き通るようにきれいで、ホッとするような温かさに溢れた笑顔は、とても優しい。
もしかして、この前先生の様子がおかしかったのは、この人とのことで……?
そう思い至って、愕然とした。先生も悩んでいたことは認めてたもの。きっとこの人と、何かあったに違いない。心を失くすほど思い悩んで、それでもどうにかして解決して、私が入り込む余地なんて最初からなかった。
知らず知らずのうちに、涙が頬をつたう。
恋心は自覚した瞬間に、大きくひび割れてしまった。




