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13 ホーリーネスタの葉

 それからも、私の図書館通いは続いた。



 トビアスとはしょっちゅう顔を合わせるようになり、時には同じテーブルでそれぞれの作業に没頭することもある。



 魔物系素材に詳しいトビアスから興味深いアドバイスをもらったり、逆に私のほうがトビアスのレポートに関する意見を求められたり、まあまあ充実した時間を過ごせていた。



 でも通称『殿下よけハーブ』の開発は一向に進んでいない。もちろん新しい魔法薬を開発するなんて簡単なことではないし、たかが一介の学生がその無謀な挑戦に臨もうとしているのだからすぐにどうこうできるわけはない。



 ただ、開発が進まないのはほかに理由があった。



 最近、先生の様子がなんとなくおかしいのである。妙に素っ気ないというか、心ここにあらずというか。



 どこか遠くを見つめて悩ましげにため息をついていることもあれば、奥の調合室にこもってまったく出てこない日もある。雑用係を兼ねた助手の仕事は続けているし、研究室にも頻繁に顔を出しているのだけど、なぜか先生との間に微妙な距離を感じるようになってしまった。話をしてくれないわけではないけど、「今日はもう帰るからお前も帰れ」とか「明日は一日いないから掃除はいらない」とか、なんとなく研究室から追いやられている気がしないでもない。



 たまに今までみたいな感じで気安く話してくれたかと思うと、急に我に返ったような真顔になって、



「あ、すまん」



 とか言いながらすっと離れていくときもある。わけもわからずいきなり突き放されると、どうしていいかわからない。



 そんな日が続いて、なんだかやる気の出ない今日この頃。



 ぽっかりと穴が開いたような心境に、自分の中でラウリエ先生という存在が意外なほど大きくなっているのだと気づかされる。



 あと数カ月で先生からも卒業しなければならない現実に、打ちのめされる思いがする。



「あーあ」



 だらしなく目の前のテーブルに突っ伏すと、向かい側に座っていたトビアスが肩をすくめた。



「令嬢らしからぬ風情だね、ルーシェル」

「なんかもう、疲れた」



 特に何もしていないけど、気持ちはとことん後ろ向きである。



「今日はラウリエ先生の研究室に行かないの?」

「うーん、どうしようかな……」



 行っても楽しくないんだもの。協力してくれるって言ったのに、先生は『殿下よけハーブ』のことを完全に忘れてるみたいだし。



 本当はずっと、先生に聞きたいことがあるのに。



 『魔物よけハーブ』の材料の中に、『ホーリーネスタの葉』という素材がある。『ホーリーネスタ』はラントの森に自生する木で、その葉は『回復薬(ポーション)』を作る際の必須アイテムである。一年生の魔法薬学のテストには、必ず『ホーリーネスタの葉』に関する問題が出されるくらい超ド定番な素材。



 怪我や病気の治癒薬とか『ポーション』の生成とかには必ずと言っていいほど使われる『ホーリーネスタの葉』。それがどういうわけか、『魔物よけハーブ』の材料としても使われている。なぜだろう。人体の治癒や回復に関する効果のほかに、何か特別な有効性でもあるのだろうか。



 ウイアル公国に進学する際のレポートの題材として『ホーリーネスタの葉』を選んだ先生なら、きっと詳しいに違いない。だから先生に話を聞いてみたいのに、そんな余裕も暇も与えてはくれない。



 なんなのよ、もう。乗りかかった船だとかなんとか言ってたくせに。なんて、つい頭の中で悪態をついてしまう。



「ラウリエ先生って、なんだかここんとこ元気がない気がするんだけどさ」



 唐突な言葉にがばりと体を起こすと、トビアスは驚いたらしく一瞬のけぞった。



「トビアスもそう思う?」

「ま、まあね。でも気づいてるのは僕だけじゃないと思うよ。もともとあの人、面倒くさがりでやる気なさそうで何考えてるのかよくわかんないとこがあったけど、最近はちょっと人を寄せつけないオーラがあるっていうかさ」

「あー、わかる」

「ルーシェルにもそうなんだ?」

「なんか、悩んでるっぽい」



 口にして初めて、あ、そうか、と腑に落ちた。



 先生は、何かに悩んでいる。何かとても大事な、重大なことに頭を悩ませている。



 どうして気づかなかったんだろう。心ここにあらずでどこかぼんやりと上の空なのは、何かに悩んでるからなのでは?



 そうとわかったらこうしちゃいられない。



 私はトビアスへの言い訳もそこそこに、先生の研究室へと向かっていた。



 ノックをしても返事はない。いつものようにドアを開けると、中はがらんとしている。



 授業なのか会議なのか、それとも別の用事なのか。先生はいない。奥の調合室にいる気配もない。



 なんだか肩透かしを食らった気分で、ソファにどさりと腰を下ろす。



 ぐるりと部屋を見回して大きく深呼吸をすると、いつのまにか肌に馴染んだ魔法薬独特の匂いに安堵感すら覚える。



 先生のいない研究室で、ふと先生を想った。



 あの日から、いつも私に手を貸してくれた先生。迷ったり悩んだりする私を励まして、背中を押してくれて、そうして私は呼吸が楽になった。知らなかった世界を知って、自分を苦しめる要らないものを手放すことができた。



 先生が今何かに悩んでいるのなら、今度は私が先生の役に立ちたいと思う。恩返しがしたいと思う。先生の抱える憂いを直接払うことはできなくても、きっと何か、できることがあるはず。



 何ができるだろうと考えて、これまでここで過ごしてきたたくさんの時間を思い返しているうちに――――



 私はどうやら、眠ってしまったらしい。






◇◆◇◆◇

  

 




 目が覚めたら、体の上に温かな感触があった。



 ふわりとした毛布に包まれながら、ソファの上で眠りこけていたことに気づく。むくりと体を起こし、ごしごしと目をこする。



「起きたのか?」



 低い、声がした。



 この部屋の主は、とっくに帰っていたらしい。



 少し離れた位置から届いたその声は、あの冷たいよそよそしさを纏ってはいなかった。代わりに、いつも通りの柔らかい色。



「先生……」



 寝ぼけた頭はぼんやりとくらくらする。だからだろうか。つい油断して、本音が漏れてしまう。



「なんか、悩んでる?」



 あまり考えることなく、言葉を紡いでいた。いつもより、だいぶ子どもじみた口調で。



「悩んでるなら、私が話聞くよ……?」

「は? なんだそれ」

「だって先生、話してみなきゃわからないって、よく言うでしょ」

「……ああ、まあ……」

「私も、先生の役に、立ちたいし……」



 なぜか小さなため息が聞こえた。



 呆れられたのだろうかと不安になって顔を上げると、窓際に立っていた先生が近づいてくる。



 そして、私の隣に座った。先生が隣に座るのは、初めてのような気がする。



「ルーシェル」



 その声に、これまでとは違う温度を感じてしまう。でも寝起きの頭では、それがなんなのかわからない。



「心配してくれてたのか?」

「……心配もあるけど、何か、したくて。いつも、してもらってばかりだから……」

「そうか。でも、大丈夫だ。もう悩んでないから」

「……悩んでないの? ていうか、やっぱり何か悩んでたの?」

「もういいんだ。気を遣わせて、悪かったな」



 そう言って、先生は静かに立ち上がる。



 なんだか急に心許なくなって、先生の背中を視線だけで追いかける。



 先生はやっぱり何か悩んでいたらしい。でも何に悩んでいたのかは、さっぱりわからない。どうやってその問題を解決したのかも、皆目見当がつかない。



 わかるのは、私自身がなんの役にも立てなかったということだけ。近くにいたのに、何もできなかったということだけ。



 その事実が無数の見えない棘になって、どうしてだか、私の心臓に突き刺さって抜けない。















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