1 忘却薬
――――見てはいけないものを、見てしまった。
ふらふらと一、二歩後ずさり、踵を返した私はそのまま無我夢中で走り出す。
とにかく早く、ここから逃げ出したい。離れたい。遠ざかりたい。
その一心で廊下を駆け抜け、角を曲がろうとしたそのときだった。
「わっ……!」
「おっと」
出会い頭に誰かと激突しそうになって、そのままバランスを崩して倒れ込む。
「大丈夫か?」
「す、すみません……!」
聞き覚えのある低い声が、私の顔を覗き込んだ。
「どうした? ルーシェル・フォルシウス嬢」
「え?」
「泣いてるじゃないか」
「あ……」
知らぬ間に溢れていた涙を指摘され、乱暴にまぶたを拭って立ち上がろうとした私に声の主はなおも続ける。
「……お前、ちょっとついて来い」
「え? なんでですか……?」
「そんな顔でうろうろしてたら、さすがにまずいだろ」
いつもは何をするにも面倒くさそうな素っ気ない瞳が、メタルフレームの眼鏡の奥で心配そうに揺れている。
確かに、そうだ。
泣き顔をさらしたままでは、あとで誰に何を言われるかわからない。
「……わかりました」
頷く私にちょっとだけ安堵したのか、ヨレヨレのローブがついて来いとばかりに背中を向ける。
そうして私が、もっさりボサボサの冴えない非モテ先生に連れて行かれたのは。
彼の主な生息地、魔法薬学の研究室だった。
◇◆◇◆◇
「とりあえず、これでも飲め」
テーブルの上に置かれたティーカップからは、温かな湯気な立ち上る。
私は無言で手を伸ばし、先生に言われるまま紅茶をひと口だけ飲んだ。
「うまいだろ?」
先生は自慢げに尋ねたけど、正直言って、お世辞にもおいしいとは言えなかった。
というか、微妙に独特な味。要するに、まずい。とても。
でもそんなことはおくびにも出さず、「はい、おいしいです」と答えると先生は満足そうに頷く。
「そうだろ? 俺が一からブレンドしたんだ」
「え」
「誰に出してもまずいって言われるから、俺の味覚がおかしいのかと思ってたんだけどな。やっぱそうでもないよな?」
いや、ほんとは、とてもまずい。
でも恐ろしいほどの期待を宿す目を前に、縦にも横にも首を振ることができず曖昧に笑ってみる。
いくらまずいとはいえ、人の善意を無下にすることなんかできないし。
「お前、それ飲んだら帰っていいからな」
「え?」
「飲み終わる頃には、気分も落ち着くだろ」
物の溢れた雑然とした部屋の中、散乱した書類を適当に片づけながら魔法薬学教師ディーン・ラウリエ先生はさらりと言った。
「……何があったか、聞かないんですか?」
「話したいのか?」
「え……?」
問われて、ふと黙り込む。
話したいのだろうか? 私は。
何を? さっきのこと? それとも、これまでのことすべて?
しばらく無言で逡巡する私を気にする風でもなく、ラウリエ先生は大小さまざまな本がびっしり詰まった本棚と対峙し始めた。時折ぶつくさつぶやいてるところを見ると、何やら本を探しているらしい。
「……さっき、裏庭の噴水のところで、ハルラス殿下とマリーナ様がキスをしていまして」
「………………は!?」
「それも、結構濃厚な」
「は?」
「いわゆるディープなやつだったんです」
できるだけ平静を装い、淡々と説明するとラウリエ先生は眉をしかめながらも困惑した表情を見せる。
「お前、もうちょっとこう、オブラートに包んだ言い方できなかったか?」
「すみません。そういう心の余裕、今はないです」
「まあ、だよな。そうだよな、うん。なんかすまん」
なぜか決まり悪げに謝りながら、向かい側のソファにどかりと座るラウリエ先生。
「とんでもないもの見ちまったな」
「……はい」
先生の低い声が、唐突に私の心のひび割れた部分を優しくなでる。
と同時にまたぶわりと涙が溢れそうになって、慌ててこらえる。
「しかしあいつらもほんとに困ったもんだよな」
「『あいつら』って、一応王族ですよ?」
「王族だからこそだよ。お互いに切磋琢磨し合ってきた長年の婚約者を蔑ろにして、ぽっと出のちんちくりんにうつつを抜かすなんてあってはならないことだろ?」
「……でもハルラス様は、本当に心からマリーナ様を愛してらっしゃると思うのです」
最近は、学園で見かけることがあっても目を合わせてはくれない。
ハルラス様のペリドットの瞳は、いつもマリーナ様を愛おしげに見つめているから。
あの瞳が私を映さなくなって、もうずいぶんたつ。
「だからって、許されることじゃないだろ」
どこか刺々しい声があまりにも意外過ぎて、私はつい先生の顔を見返した。
「先生でも、怒ったりするんですね?」
「は? なんだそれ」
「だって先生って、いつも気だるそうっていうか面倒くさそうっていうか、あらゆることがどうでもよさそうっていうか」
「……否定はしないが、それでも最近のハルラス殿下の言動は目に余るぞ」
「そう、なんでしょうか?」
「殿下が何を考えてるのか知らんが、大事な婚約者を泣かせるのはどうかと思う」
その言葉にどう返していいかわからず、私は静かに目を伏せる。
この国の第一王子、ハルラス・リネイセル殿下と私の婚約が決まったのは、お互いが十一歳のときだった。
ハルラス様にとって、現宰相フォルシウス侯爵の娘である私との婚約は確かに政略的な意味合いもあっただろう。
でも初めての顔合わせのとき、
「こんなにきれいな子と婚約できるなんて、僕は幸運だな」
ハルラス様がそう言ってはにかむから、その笑顔に私は心を奪われてしまったのだ。
まばゆい金髪にマスカットのような瑞々しい薄緑色の瞳をした見目麗しい第一王子は聡明で思慮深く、穏やかな人柄もあって周囲から将来を期待されていた。六歳下に弟殿下もいらっしゃるけど、学園の卒業とともに立太子されるだろうと目されている。
そんなハルラス様とともにこれまで多くの時間を過ごし、王子教育や王子妃教育が始まるとその厳しさに挫けそうになりながらもお互いを励まし合ってきた。いつもにこやかで理知的なハルラス様の横に並び立つ日を夢見ながら、私は努力を重ねてきたつもりだったし良好な関係を築けているとも思っていた。
でも学園の最終学年になった今年、ある令嬢が編入してくる。
マリーナ・ノルマン男爵令嬢は、ノルマン男爵と平民の愛人との間に生まれた庶子だと聞いている。愛人であった母親が急死したことで急遽男爵家に引き取られることになり、否応なしに男爵令嬢として生きていくことになったのだ。
マリーナ様は、私たちの二つ年下の可愛らしい令嬢だった。明るいピンクブロンドの髪にアンバーの瞳、小柄でおどおどした様子は小動物を思わせる。
突然貴族社会の一員になり、学園に放り込まれたマリーナ様は右も左もわからず途方に暮れていた。もともとは平民同然の暮らしをしていたらしく、貴族令嬢に相応しいマナーや教養といったものに触れる機会は少なかったのだから仕方がない。
その窮状に手を差し伸べたのが、ハルラス様だった。
学園の先輩として、また王族として、それは完全なる善意とボランティア精神からだった。はじめのうちは。
でも二人の距離が縮まっていくのに、そう時間はかからなかった。いやむしろ、あっという間だったと言っていい。
私と一緒にいても無意識にマリーナ様を探すようになり、マリーナ様が現れると彼女を優先するようになり、私の存在などとうに忘れたかのように振る舞うようになったハルラス様。いつしかその隣は、マリーナ様が独占するようになっていた。
もちろん私だって、黙って見ていたわけではない。それとなく、やんわりと、ハルラス様に苦言を呈したこともある。でもハルラス様は「僕は困っているマリーナを放っておけないだけだよ」とまったく取り合ってくれず、それどころか人目も憚らずマリーナ様と仲睦まじくふざけ合う醜態をさらすようになる。
バレてしまったのなら、隠す必要もないだろうと言わんばかりに。
そんな光景を目にするたび、胸をえぐられるような痛みを必死に隠して人工的な笑みを貼りつける毎日だった。
これまで積み重ねてきた二人の時間や優しかったハルラス様を思うと、この恋心を簡単には手放すことができない。でも心の中はぐちゃぐちゃで、常に気を張っていないと自分自身を保てない。
そうしてとうとう、決定的で致命的な場面を目撃してしまうとは。
手にしたティーカップをぼんやりと見つめながら、私はできるだけ感情を押し殺した声で尋ねる。
「……先生、記憶をなくす薬を作れませんか?」