前編
朝テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが「おはようございます。世界の終わりまであと七日になりました」と言う。
もう何度目か分からないその言葉を聞くなり、僕はテレビを消す。結局全部同じニュースだったな、と思いながら部屋の電気も消した。そのとき、部屋の隅に置いてあるダイビング器材が視界に入った。うっすらと積もっている埃を見て、社会人になってから長らく、海に潜っていないことを思い出した。
棚に向かい、鍵付きの引き出しを開けると所定の位置にある箱を取り出した。蓋を開けると、通帳にカード、紙幣に小銭が入っていることを確認して再び閉め、箱ごとビジネスバッグに突っ込む。
ビジネスバッグのファスナーを閉じると、リクルートスーツを入れたテーラーバッグと一緒に持って、玄関に向かった。
玄関に置いていた、まとめておいたゴミ袋も持つと、外に出た。ゴミ収集車はまだ来ていないようで、他の家のゴミ袋が山になって積まれている。あと七日で世界が終わると言うのに、こういう習慣は維持されるものなんだなと、意外に思う。ゴミ袋の山に、持って来たゴミ袋を積んでみると、やはり明らかに僕が持って来たものが一番パンパンだった。心の中で、ゴミ収集の人に詫びを入れた。
電車に乗った。通勤時間である車内はガラガラで、ちらほら座っている人がいる。その中でもビジネススーツを着ているのは僕だけだった。
車窓に目をやると、晴れ渡った青空に、一筋の光が流れる。
「見て! また流れた!」
無邪気に叫ぶ子供の声が耳に届く。そうね、綺麗ね、と頷く母親の声は、どこか微かに震えていた。
がたんごとんと揺れる電車が、時折不自然に揺れた。「本日も、揺れが多くなりますがご了承くださいますよう……」そんな車内アナウンスをぼんやりと聞いて、律儀に電車を運転しに来ているあんたは偉いよ、と。心の中で、エールを送った。あんたのおかげで、僕はこうして出勤できる。
僕のエールに答えるように、また電車は大きく揺れた。脱線するかもしれないな、と思っていると、「ジェットコースターみたい!」とまた子供がはしゃいだ。
まだジェットコースターで死亡事故があることを知らない子供は、電車が揺れるたびに何度だって喜んだ。
電車を降りて歩く最中、吹いてくる潮風が心地良い。今日も少しだけ、鼻を通して塩の味がした。海に近いここに立ち並ぶオフィスビル。いつもなら出勤するサラリーマンでごった返すが、ここ数週間で人はどんどん減っていき、今日は数えるほどしか歩いていない。明かりさえついていないオフィスビルもあった。しかし、これだけの数は出勤してくるものなんだな、と自分もその内も一人であることを棚に上げて、感心していた。
僕が勤めているビルは明かりがついていた。いつも会釈をすれば返してくれていた女性は、受付に座っていなかった。
オフィスビルの改札口に来て、カードをスキャンさせると、
【もう一度・カードを・かざしてください】
エラーになった。うっかり交通ICカードをかざしていたのだ。ビルの入館ICカードを取り出してかざすと、無事に改札を通ることができた。
このうっかりミスをしたときは、立っている警備員が近づいてきて、「どうされましたか?」と聞かれるはずなのに、聞かれなかったと遅れて気付く。昨日までいた警備員も、今日はもう来ていないんだな、と思った。
エレベーターで上がって十階で降りる。部屋の前まで来て再び入館用のICカードをかざす。ピッと青いランプがつき、音を立ててドアが開いた。
僕は決して出勤が早い方ではないので、入るといつもパソコンのタイピング音が聞こえたり、キャスターを転がして寄せあった椅子に座り世間話に興じている社員が見えたりしていた。でも今日は、デスクに座ってノートパソコンに向き合い、煙草を吹かしている先輩、ただ一人だけの姿があった。
「おはようございます」
「おはよう。何だ、お前。来たのか」
「はい」
ロッカーから取り出したノートパソコンを持ってくると、いつもは少し香るだけの煙草の匂いがダイレクトに鼻をくすぶった。
臭いな、と思いながらノートパソコンにLANケーブルを繋ぎながら言う。
「禁煙ですよ」
「大目に見ろよ、ここにいるのは、俺とお前だけだぞ」
ふー、と長く吐き出す煙が、空気に溶けていくのを見届ける。「先輩は何されに来たんです?」と聞くと、「先方にメールだけな。昨日、送り損じたから」と返って来る。
「読まれないメールになるかもしれませんよ」
「うるっせえなぁ、気持ちだ。きーもーち。それより、お前は? 何しに来たの?」
「今週分の報告書を書かなきゃと思って。途中まではできてるんです。仕上げて、部長に提出するだけですね」
「はあ」
先輩が部長のデスクに目をやった。
部長の姿はない。
意味あんのか? そう目で問い掛けてきたのが分かったので、少し笑う。
「気持ちですよ。きーもーち」
「うわ、その返しはちょっと腹立つ」
腹立つと言いながら煙草を口から外して、黒くなった歯茎を見せて笑った。
ノートパソコンを立ち上げると、慣れた調子で一週間の報告書の文書ファイルを呼び出す。煙草の香りを嗅ぎながら入力する。そこまでタイピングが早くない僕のタイピング音は、先輩からすると鈍いだろう。
僕が書類を印刷して捺印すると、部長のデスクにそっと置いた。
ノートパソコンを片付けても、先輩はまだ座っていた。片付ける様子もない。
「先輩は今日は定時までいるんですか?」
「そうしようかね。いっそ、次期部長っつって、部長のデスクにある書類、俺が承認印押しちまおうかな」
「怒られるかもしれませんよ」
「そうだな。怒られるかもしれねえ」
先輩のデスクを眺める。いつも、出勤した時点で必ずデスクの端に置かれている愛妻弁当がなかった。
帰りたくないんだな、と思った。妻と娘の話になると驚くほど饒舌になるほど溺愛していた先輩だったけど、それはあくまで昨日までの話だ。
「先輩。煙草、一本頂いてもいいですか?」
僕は煙草を吸ったことがない。健康に悪いし、不良が吸うイメージが昔からあったから印象も悪いし、何より匂いが苦手だった。
この話は、先輩にもしたことがあった。だから先輩が目を丸くして驚くのは当然だ。でも、僕の気紛れだということは察してくれたみたいで、薄く笑ってから煙草の箱を僕の方に向けてくれた。中には一本だけ残っていた。
「吸い切れなさそうで困ってたんだ」
ヘビースモーカーの先輩はそんなことを言いながら、僕に煙草をくれた。
慣れない手つきでライターで火を付けて、目一杯吸った。凄い勢いで噎せることを覚悟していたけれど、そうはならなかった。
何気なく窓に目をやる。全面ガラス張りのそこからは、広い海が見える。その海の上にある青空に、きらりと輝く星が流れていった。
先輩も見ていたみたいで、「何か願い事はしたか」と聞いてきた。
「しばらく残業はしたくないって願いました」
「お前は今月何時間?」
「三十二時間です」
「勝った。四十五時間。その内サービス残業は二十時間」
「その、審査に引っ掛かるからって残業時間をつけない習慣、良くないと思うんですけど」
「審査の方が面倒だろ。仕事量は減らないのに残業はすんなとか、あほか」
「ですね。僕も多分超えそうになったら嘘の報告します」
「お前さ、いらんところまで俺から吸収してねえ? でもまあ、今回は叶うだろ。だって流星群が来るんだ。願い放題だぜ」
そうですね、と相槌を打った。
何の生産性もない会話をだらだら続けて、先輩は帰ろうとはしない。
やっぱり煙草の煙は苦くて、全然美味しくないと思った。