きっかけ
うららかに晴れわたった秋口の日曜、藤崎はのんびりと起き出して昼過ぎに街へ出ると、あたり一帯にぎやかな人出である。
油断して歩めばすぐさま肩がぶつかりそうな喧騒のなかを藤崎はすいすいと避けて歩みながら普段は訪ねない南口をでて、信号をわたり大通り沿いにでると次第に人波も落ち着いてくる。そのままビルの並びを真っすぐ行くうち一軒の喫茶店をみつけて立看板へ寄った。
温かそうな珈琲と美味しそうなケーキに惹かれて取っ手に手をかけドアをひくと共に耳もとでベルが鳴る。
それへ重なるように黄色い声がつづいたのにたちまち気をよくすると、後ろでしまりゆく扉の音とせかせか小股でやって来る女性店員の足音とを重ねながら、その姿を見定めるともなく見つめるうちに彼女が自分のそば近くに立ち止まったときには、高鳴りとも痛みともつかないものが胸に走るのを覚えていた。
「いらっしゃいませ。お一人ですか? こちらへどうぞ」
藤崎は口をほんのりあけて彼女を半ば見下ろしたままぼんやりしていたものの、それとは気づかない若い女はすでに身を翻しながら先に立って案内するのに、すぐと心づいてにわかに耳を赤くしつつ指定された席につくが早いかメニューを拾い上げて選ぶ振りを装ったものの、すっと瞳を上げながら背もたれに身をあずけるとしばし呆然として奥へ退く女を見守った。
自分が愛した女を彷彿とさせたからである。葉月は好みの女であった。均整の取れた顔立ちと細い肢体にしとやかな表情を兼ね備えた女。
つまりたった一人その女以外には存在しないと惑わせる種類の女ではなく、このような姿、佇まい、気質の女が自分の好みであると自覚させる女であった。そういう存在と巡り合うことは無二の女性との出会いに匹敵するほど困難である。
藤崎は折々浸るともなく浸っていた思いに、しかし今回ばかりは生身の女性の姿をとおしていざなわれた。
今回ばかりはというのは葉月が写真映えするほどの女であり、事実一時期芸能事務所に籍を置いていたほどの容姿の持ち主であって、盛んに売り出される前に退所したらしいものの、その似姿は一般人を探索するよりも動画や静止画のうちに見つけだす方が遥かに容易である。
無論のこと批評家めいた厳しい眼差しを容赦なくそそげば現にメディアで活躍する女性たちには負けるだろう。けれども生身で触れ合えた女性としてはかなりの上玉ではあるまいか。べつにそれを誇るわけではないけれども。藤崎はメニューをながめ終えると横目で彼女をとらえながら手を上げて、やって来る足音に聞き耳を立てつつ再びメニューへ俯くうち、
「おきまりですか」
その声に顔をあげて素早く一瞥するとやはり似ている。そう思うと共に、それほどでもないかという思いも流れた。
「珈琲とガトーショコラをください」
「かしこまりました。それではセットですね。以上でよろしいですか」
と葉月の分身が言うのに、静かにうなずく。
「メニューもよろしいですか」
「はい」そう答えると、彼女は可憐で端整な微笑みをのこして立ち去った。
けれどもミクロに分析すれば別々の型にわけるべきだろうが、マクロ的な統括は充分可能だろう。藤崎は再び思考に立ち戻った。葉月とこの女とは一緒の型である。おびただしい数の具体物としての三角形が概念として抽象的に把握できるように、二人の女は抽象的には同類項でくくれる。
葉月と最後に会ったのは三年前で、今年二十九になる藤崎と同年である彼女は二ヵ月誕生日が早かったからすでにその歳を迎えている。無論誕生日を祝うメッセージは送らない。些細なきっかけで連絡が途切れて以降は一切音沙汰がなかった。
それを藤崎は気に入らないとも思っていない。後悔もしていない。こうなることは予想していたように思うし、それ以上にこうなることを期待していたのだ、と今となっては思うことさえある。
彼女はおれに似ていた。自分が女なら葉月のように生まれてきただろう。だからおれが彼女に連絡しない以上、彼女から連絡をくれないのは当然のこと。おれがそうするなら葉月だってそうする。
藤崎は学生のころ原宿から表参道を歩いていると度々スカウトに声をかけられたし、サロンモデルとして月刊誌に載ったのが三四回。彼女も一時広告に載っていた。二人共普段は控えめでありながら、ときに風変わりな発言をする。突飛な行動をとる。
葉月のその心のうちが仕草や表情からありありと分かったというより、自分をみているようで羞恥や苛立ちを覚えたあげく、暗に冷たくしてしまうこともあった。
その頃の二人は時折食事をしたりお酒を飲んだりしていたものの、付き合っていたわけではない。藤崎には別に相手がいた。
しかしその子が一年の予定でヨーロッパへ留学すると共に同じアルバイト先の葉月への想念と情念が抑え難くなったあげく、ある日のバイト上がりに飲みに誘い快諾を得ると、湧き起こる解放感と心地よさに陶然として杯が進むがままいつしか顔を火照らせながら目の前の愛すべき存在から離れ難くなってゆく。
「急に道端でね、大学の後輩に告白されたの。好きですって。わたし、無理だよって」
と葉月が紅潮しながら真面目な顔で言うのに、藤崎はそれじゃあおれは平気だという謎かなと思いつつ、無論それはおくびにも出さずに微笑みながら彼女に同調してあげた。
「お待たせしました。珈琲とガトーショコラのセットです」
静かに置かれた珈琲を一口味わい、黒い生地に白い粉のふりかかった三角形のケーキの先端を三叉のフォークで切り取り、そっと口に運んだ途端、生地はやわらかにとけて濃厚な甘みが一杯にひろがった。
「もうちょっと飲もうよ」
そう言って本当なら北口と南口でわかれるはずが、藤崎は電車をおりると共に北口のコンビニへ彼女を誘い酒とつまみを仕入れたのち、無論のこと連れて来たことのない葉月を当然のように自分の部屋へと案内して靴をぬがせるうちにはすでに酔いも醒めだしていたものの、ソファへ座らせると共に目にみえてそわそわしだした葉月の隣に腰をかけてもう冷ややかに冴え返った頭の働きにまかせるがまましかし優しく着実に行きついたのは生あたたかく湿った中指と、それへそっとまつわりつくしっとりとやわらかで健気なちから。
「彼女とわかれたんだね」
耳元でささやかれた甘く切ない言葉。藤崎はふっと息を吐きながら珈琲を飲み、先端のかけた三角形からもう一切れ口へはこんだ。そっと首をふる。嘘はつけなかった。次に指先へまつわりついたのは三年後のこと。
それは地方へ転勤する一週間前、恋人と別れたことだけを告げて、転勤のことは知らせずに会ったのだけれど、葉月の喜びようといったらなかった。無邪気な笑み。ちょうど社会人の彼氏とわかれたばかりで、その別れ話の際に彼女の見せたらしい奇矯な振る舞いは思わず叱り飛ばしたくなるほどだったけれども。
二年後、藤崎は都内へもどる前に葉月に連絡をいれた。
──嬉しい、と返信が来て、ひさしぶりに会うと、
「あなたのことは信頼してる、知り合ってから長いし」と言った。
それから二人が恋人として過ごしたのは三ヵ月ほどだったものの、しかし不思議と藤崎は二十歳頃のように恋焦がれることも少なかったのは、それまでに充分彼女の像を頭のなかに蓄えてあったからかもしれない。
記憶としてよみがえる映像は歳を重ねてもそれほど変わらない。変わるのは受け取るがわの心持ちばかり。藤崎は今ではよりしんみりした親しみを抱く一方で、よりくっきりした像を結ぶことができた。
しかし思えばいつも決まってきっかけがあったのだ。留学という、転勤という、帰京というきっかけが。だいぶ事情がちがうけれども、今日だってそうではなかろうか。そしていつだってそれを行使してきたのはおれなのだ。
頬杖をついて離れたところにいる店員へ目をやると、斜めをむくその顔が映ったものの、少し目のわるい藤崎には彼女の表情ははっきりとは読みとれない。
仕方なく視線をさげると、黒い生地に白い粉のふりかかったやわらかくしっとりとしたものが途端に口を潤わせた。
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