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精霊流し  作者: 名夢子
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10円玉


 大塚の祖父はすでに90歳近くだ。大塚の父親も、大塚自身も遅くに生まれた子で、親戚中で愛されたと言う話を大塚の父親から聞いた。

「じいさん、きたばい。良一ばい。」

 僕は、この大塚の優しい声が好きだ。人が人を思いやるときの声には、独特の響きや色彩がある。胸を締め付けるのだけど決して窮屈ではなく、むしろ体が暖かくなって、呼吸がすごく楽になる、そんな感じだ。僕もできるだけ優しい声で大塚の祖父を呼ぶ。

「じいちゃん、和樹もきたばい。」

 大塚の祖父はぐっすりと眠って、起きようとしない。

「しょうがなか、ちょっとみんな向こうにいっとってくれんね」

 パジャマを脱がせて、体を拭き着替えをさせるというので、美佳は残って大塚と一緒に祖父の介護をした。残りの僕らはカーテンの向こうで行われている、単調な儀式の衣擦れの音を聴きながら、窓から中庭の白く少し汚れて茶色い染みもでてきた聖母マリア像を眺めていた。病院内の涼しく乾いた空気が、僕の体を適度に冷やし、急に眠気が襲ってきた。大塚の祖父以外にもこの病室には7名の患者がいるはずなのに、しかももうすぐ昼食だというのに、無音だ。


 突然、大きなあくびがカーテンの中から聞こえた。大塚の祖父が目覚めたのだ。

「よう寝たばい。あってまぁ、美佳ちゃん来とったとねぇ。相変わらずべっぴんさんや。よかよか。」

 すかさず精一がカーテンを開けて中に入る。

「おじいさん、おいも来とっとですよ。」

「なんか、こん穀潰しが、ここでなんしよっとか。帰れ、顔も見とうなか。」

 精一はへこんだ表情だが、その反面、まったく気にしていない様子だ。

「そぎゃんこと言わんで。少し、ここにおらしてください。」

 実は大塚の祖父は精一のことを、大塚の父親の弟と勘違いしている。造船の道に進み優秀な技術者だったのだがある日、博打で大きな借金をこさえて、夜逃げをしてしまったのだ。大塚の祖父と父親は、その借金を帳消しにするために相当苦労したらしい。それ以来その弟とは、会ったことはないと、大塚の父親は言う。だけど精一は、大塚の祖父が一番会いたいのはその大塚の叔父だろうと、以前言っていた。彼がなぜそこまで思いを入れるのかは、僕にはわからないが、大塚は、そのあたりの事情を飲み込んでいる。もちろん美佳もだ。

「おお、和樹じゃなかね。よう来たね。元気やったかね。和樹が来たとやったら、こづかいばやらんといかんね」

「じいちゃん、よかばい、こづかいはいらんとよ」

 大塚が微笑んでこっちをみる。何時ものやりとりなのだ。大塚の祖父が渡してくれた10円玉は、病室を出ると僕は大塚に返し、大塚は、「じいさん、こづかいばやるよ」と祖父の財布に戻す。祖父は「いつも、ありがとさんね」とにこやかに礼を言う。この10円玉が結ぶ芝居は、いったいいつまで続くのだろう。永遠に続いてほしいと、僕も、もちろん大塚も願っている。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 何かが落ち着かなかった。後ろの席の岡が、その余分に長い足で、僕の椅子を蹴ってくる。うるさいと思いながらも、数式と格闘しなければならない。あまりにもうるさかったのか、岡の隣に座っている剣道部の米田が、切れた。がらっと自分の椅子を蹴って立ち上がると、岡の胸ぐらをつかみ、

「うるさかっちゅゆーとっとぞ。きこえとっとか。このぼけがっ。」

「なんか、わいには関係なかろうもん」

 岡は、米田の剣幕に押されまいと平静を装ってはいるが、顔が白い。

「なんかぁ、わいたちゃ。授業ば妨害すっとか」

と的外れの叱り方は、相変わらずだよ、金村数学教諭。その言葉が米田に火をつけた。岡が座っている椅子は床に接する部分が後ろの部分だけで立っている、いわゆるシーソー状態だったから、そこを足払いされてはたまらない。長い手足も不幸をよび、自分の机もろとも、体を床にぶちまけてしまった。

「なんか、ごらぁ」

 立ち上がる岡の形相も完全に戦闘モードだ。ああ、煩わしい。

「け、けんかは、外でやれ、外で。」

 完全にけんかを止める意志をなくした金村教諭は、腰が退けている。それはわかる。2m近い大男の岡と、丸坊主の筋肉隆々のこちらも187cmの剣士のけんかである。闘犬のごとく、二人は周りの連中を威嚇して、動けるスペースを確保している。僕はというと米田側だ。だいたい、このけんかの発端は岡が僕の椅子を蹴っていたからだ。すると、G組の異変に気がついたのか、F組の連中がのぞきにやってきた。がらがらと廊下と教室を隔てていたガラス戸が外されていく。ガラスを割ってけがをしないためだ。

「原因は?」

 聞いてきたのは管弦楽部の西だ。冷静沈着、文系の知恵袋と呼ばれている。あれ、おまえD組、ああ、トイレの帰りね。岡の言動と米田の怒りを簡単にかいつまんでいる最中に、廊下の遠くから雄叫びが聞こえてきた。

「どこやー、けんかは、どこやー」

 これじゃ、全校にけんかしていますよと言っているに等しい。生活指導部の藤原先生だ。日本史教諭で、剣道部の顧問でもある。その声を聴いたとたんに、岡も、米田も教室から飛び出した。そう、藤原先生から逃げるためだ。ひどい体罰があるわけでもなく、説教がつらいわけでもない。逃げないと逆にしかられるのだ。

「こりゃ、またんかー、米田ー、もう一人はだれや、」

「バスケ部の岡です」

 誰かが言うと、「おかーっ」うちの高校恒例の鬼ごっこが始まった。すると、窓ガラスはもとにもどされ、みな期待はずれだったな、といった顔をして戻っていった。僕は、岡と米田の机を片付け、整列させた。クラスが静まりかえると、金村先生が、

「けんかの原因はなんね」

 それは本人に聴くことだろうと、憤慨していると、

「先生、黒板の第二式、左辺のyのべき数が違っています。べき乗計算なので、足し合わせるべきところを乗算するなんて、数学者として最低ですね。」

「いや、これは、いろいろ、さわがしくてつい。」

「その部分は、けんかが始まる前に、既に先生が書かれていました。」

 やった、金村撃沈。冷静沈着な攻撃を繰り出す、この英雄は我が学年の最高峰、峰秀一という秀才だ。山崎先輩が打ち立てた記録をことごとく破っていて、東大合格も間違いないと評判も高い。

「その後の計算も、僕がみんなに説明しますから、金村さんはそちらで、休んでいてください。」

 皆が、おお、とどよめく。峰秀一の最終宣告だ。昨年、これを言われた別の数学教諭は、赴任一年目にもかかわらず、諸島の高校に転任していった。恐るべし峰秀一。実は僕と彼は幼なじみで、小学校の頃から一緒だ。彼には両親が無く、孤児院から学校に通ってきていた。小学校の頃から算数や理科の成績は抜群で、彼の存在のおかげで、僕も理数系を目指すようになったのだ。

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