おこりんぼと泣き虫
六
あの日、篠沢先生の具合が悪くなって、久保の気持ちを知った日、あの日の翌日、先生はこの原爆病院に入院し、そのことを先生のお母様から連絡を受けて知った。それで、しばらくレッスンをお休みするという。だから、すぐにでも先生は良くなってレッスンは再開される、そう僕は信じていた。いや、今でもそう信じている。だから精一に言われるまで、日頃の練習を先生に見てもらえないという現実に、撲は深い穴の縁に立っているような気持ちになった。先生の家でピアノを弾く時間は、僕にとってはピアノや精神の矯正時間でもあり、至福の時でもあった。先生のレッスン室に据えられた2台のグランドピアノは、いつも最適な状態で調律され、安定してそこに存在した。双子のようなピアノだが、弾いてみるとそれぞれに個性がある。先生は右と左のピアノとしか呼んではいなかったが、ぼくは、おこりんぼと泣き虫と、密かに呼んでいた。おこりんぼの方で弾くと先生が必ず、荒々しいわね、という。泣き虫で弾くと、繊細すぎるわね、と軽蔑する。ピアノの個性が僕に乗り移っているかのような楽しみは、あのレッスン室でなければ味わえないのだ。そう思うと、おこりんぼと泣き虫は、主が不在で、さぞや寂しがっているだろうと、可哀相になった。
その気持ちが伝搬したのか、久保が僕の開襟シャツの袖口を引っ張り、
「私のレッスンは、吉野君にみてもらえって、先生がおっしゃっていたって」
「えっ、」
なぜ僕が久保のピアノを診なければならないのだ。考えてみると、あの日、久保の気持ちが、そう、久保自身の問題であるはずの心の欠陥を埋めるのは僕の音楽だという、僕が久保を導けという先生の言葉を思い出した。
「おいが久保のピアノを診るのはいいとしても、おいのレッスンは...」
と言い出して、僕は先生に月謝というものを一銭も払っていないことに気がついた。だから、レッスンしてくれとは大きな声では言えない。しかも、お願いすることがあるから月謝はいらないのだ、とも言われていた。それも思い出した。お願いとは、このことだったのだろうか。
「ま、それも先生に会ってから、よくきいてみよか。」
「うん、そうだね」
精一は僕たちの顔をみて、にんまりと笑っている。
「なんか、よか雰囲気じゃなかか。お前たちは、」
「そげんとじゃなか。同じ先生についとるけん、兄妹と一緒じゃち」
「ほう、それは、それで、よかこつたい」
精一のからかう視線を逃れるように、大塚の方を見ると、美佳が楽しそうに大塚に話をしている。大塚もまんざらではなさそうだ。
「ツカ。じいさんとこにいこか。」
「おお、そうやった。急がんと昼の給食になるばい。」
「おいたちも、いっしょに、よかね」
僕は久保も一緒に連れて行くことにした。せっかく集まった仲間だ。親友の祖父を皆で慰めてやりたい。
「ああ、ありがとね。じいさんも喜ぶ。わいのことば好いちょるもんね。孫のおいよりもばい。ははは」
と大塚は美佳に話す。
「そいで、おいがとは、またきたかー、このぼっけもんがー、って叱らるっとさ。なんで、おいだけやろか。」
と精一はおどけてみせる。
「じいさんは原爆の生き死にから蘇ったとばい。じゃけんが人間は一目見て善か人間か、悪か人間か見分けらるっと。」
「福田君は、悪か人間ね。よく覚えておかなきゃ」
久保が大塚の言葉に素早く反応する。僕らは笑いながら、大塚の祖父がいる大部屋の病室へと入っていった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
久保が部活を休むということと、学校を休むということが僕の頭の中では一つになっていなかった。音楽室を後にして、久保のクラス2年C組へと向かった。僕らの学校では2年生から理系コースと文系コースに分かれる。AからDまでが文系、EからGまでが理系である。そして、1年生の成績順番で文系の場合はD組から、理系の場合はG組から逆順に、クラスが埋められていく。しかもクラスの席はその時々の成績順で座席位置が決められているので、座る場所で、成績がだいたいわかるのだ。しかもこれが県内の成績ランクとある程度紐づけられていて、トップクラスになると全国模試の結果までもが反映される。僕は幸いにもG組にいた。しかしこの成績順という仕組みには、抜け穴があって、理系教科の数学、理科、英語だけを見ると僕はG組にいるほどの成績はない。だが、社会と国語の成績が、抜群に良く常に全国模試でも20位以内にいるため、平均の成績をぐぐぐっと上げてくれるのだ。こんな僕は、理系の他の連中からはバカにされている。
「なして吉野がこのクラスにおっとや」
とでかい声でがなり立てるバスケット部の岡だ。僕の後ろの席だ。
僕はC組の戸口の柱に手をかけて、久保の姿を探した。同じクラスで次期アルトリーダーの松尾加代が、僕をみつけて戸口まできた。
「あら、ここは男子禁制ですわよ」
確かに、C組は全員女子だ。今年の文系女子はできがいいらしい。
「いや、久保が部活休むらしくて」
少し、驚いたが、加代は回りに気付かれないように、
「うん、聞いたよ。学校も休みって、今朝、私の家に電話くれたから。」
「あ、そうか、ならよか」
と自分のクラスに戻ろうとすると、
「そんなに、心配?」
加代が廊下まで来て、そっと言う。
「お前が考えとるような事とは違うと」
「ふうん」
あっというまにふくれっ面になった加代は教室の暗がりに隠れてしまった。「あんばかちんが」と悪態をついて僕は自分のクラス、そう、岡の前の席に、戻った。