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精霊流し  作者: 名夢子
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お見舞い


 原爆病院の焦げ茶色のタイルが、青空に照らされることもなく光を吸い込んで、まるでぽっかりと空いた穴のようだ。二重扉を入ると、真っ暗で目がツンとして、暗さになれるまで、僕は立ち止まった。受付ロビーには、多くの人が順番待ちをしている。昼も近いというのに、朝から待っているのだろうか。彼らはいったい、何を待っているのか。医者の診察という名前ばかりの、無駄な時間や金を支払っているだけではないのか。そんなバカな事を考えていると、頭がくらくらしてきた。

「3階の東よ」

 久保が先生の病室を教えてくれたのだが、ここにきて、急に気が重くなってきた。すると、突然、僕の肩がポンと叩かれた。

「なんばしよっとか、こぎゃんところで。おお、久保も一緒じゃなかか。お見舞い?」

 親友の大塚だ。ギター部で、今のところ次期部長候補と呼ばれている。

「おお、ピアノの先生のお見舞いたい。わいは、じいさんのお見舞い?」

「そうそう、じいさんの顔をみて、小遣いをひねり出させるのが、今日の目的ばい。ははは」

 大塚の祖父は長く原爆病に苦しんでいる。彼の父親も被爆者二世で、郷土史研究家と社会教諭の二足の草鞋を履いて、いつも忙しくしている。

「精一は?」

「しらん、あぎゃんいいかげんな奴は、しらん」

 同じくギター部の次期部長候補の福田精一は、うちの高校で倫理を教える「仏の福ちゃん」と呼ばれる福田先生の長男であり、僕らの遊び仲間だった。彼の祖父もこの原爆病院に入院していた。大塚の苛立った声が収まったと同時に、入り口の自動ドアあたりが騒がしい。黒い人影が二つならんで、こちらに向かってきた。大塚がそれを見て怒るように言う。

「なして、美佳がくっとや。わいは関係なかろうもん。」

 よっ、と精一が僕を見て、隣の久保を見つけるとびっくりした顔をしていた。

「美佳ちゃんは、病院のバス停で会うたとさ。ツカの家に電話したけどおらんかったって言うから、連れてきたとばってんが、悪かったかの」

「福田さんは、悪くないです。私が勝手についてきたので。ごめんなさい。」

 美佳は大塚に謝る。

「もうよか、勝手にせんね」

とふてくされる大塚。久保が、

「どうしたの。大塚君、なんであんなに怒っているの」

と、持ち前の世情の疎さを露呈する。僕は、小さな声で久保に、それぞれの関係を説明した。少々複雑なのだ。


 福田精一には一つ下の妹がいる。玲子だ。僕らの高校にこの春入学してきた。玲子の幼なじみが美佳。田川美佳。精一も幼稚園の頃からずっと美佳を知っていて、まるで妹のように接している。まだ玲子が中学生の頃、精一の家で会ったことがある。大塚と福田は中学から一緒だ。二人とも成績も同じ程度で、高校のクラスも1年、2年と同じだ。だから必然的に美佳は大塚の事を知っていて、一方的に惚れていることも、皆はよくわかっている。大塚の内心はわからないが、慕ってくる美佳のことを、どう処理していいのかわからないらしい。よく「バカ美佳」と罵るのを耳にする。美佳、精一、大塚は皆、山向こうの住宅地に住んでいる。だから、この休みの日に大塚をおいかけて、原爆病院まで来たとは、美佳の女心の一途さゆえだろう。僕が美佳だったら、ぜったいこんなことしない。

「かわいいね、美佳さん。」

 久保は理解したのだろう。そして、大塚がふらりといなくなったかと思ったら、すぐに戻ってきて、僕らにギンギンに冷えた缶コーラをくれた。

「おお、気がきくやっか。ごちそうさま」

というと、大塚の大きな手のひらが、目の前でひらひらしている。

「百円」

払えということらしい。残念、おごりではなかったのか。大塚としては間を開けたかったのだろう。しぶしぶ、財布から金をだした。

 飲んでいる間、待合室の隅で、5人が固まって座って、今日の見舞いの話をした。精一は久保と僕が同じ合唱部というのは知っていたが、なぜこの病院に来たのか不思議だったらしい。

「そうか、ピアノの先生が入院しているとしたら、その間のレッスンは、どうすっとね」

確かにそうだ。ピアノ、誰に習ったらいいのだろう。今頃になって気がついた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 僕はもう一度プレリュードを弾き、先生に数カ所の誤謬を指摘され、対位的に流れる3本の旋律ラインの弾き分ける別の方法を指示された。特に中音域のラインは左手と右手を渡り歩くので、切り替えのときのタッチに乱れが生じやすい。その乱れを引き起こすのが右手と左手を支配するラインの頑固さだ。厳密さを追求すると中位の旋律が破綻し、中位の旋律に気を取られていると全体が瓦解する。僕はレッスンノート、といっても新聞広告の裏紙を束ねただけなのだが、に先生の言葉を書き写した。

 先生のお宅を出ると、すでに夜9時近かった。僕は久保にかける言葉を探していた。久保がいつも僕のピアノの音を聴いていた路角を、二人で折れてバス停へと向かった。すぐに彼女が乗るバスが来る。おやすみ、という声に、おお、としか答えられず、もどかしい気持ちを、動き始めたバスのごおという音が増幅させた。


 翌朝、学校の音楽室に行ってみると、松尾先輩がピアノを磨いていた。

「おはようございます」

「あ、おはよぉ。どう、ぴかぴか?」

「弾いていいですか。」

「え、なして? せっかくぴかぴかにしたのに、汚すなぁ」

 松尾先輩に羽交い締めにされ、彼女の長い腕で首が締め付けられる。なにしろ僕よりも背が高く、たぶん力もある。顔は小さいくせに目や口は大きく、腕、手、すべてのパーツがでかい。結局羽交い締めにされたまま、音楽教員室につれていかれ、

「先生、一匹捕獲しました」

と、顧問の井沼先生の前に突き出された。

「お、ごくろう、ごくろう」

 僕は、カマキリに捕らえられたバッタだ。ひりひりする喉をさすりながら、立ち上がると

「おはようございます、先生。まったく、ひどくなか? 松尾先輩は。」

 振り返るともういない。

「ははは、よかやっか。お前がきたら、こっちにくるように、松尾に言うておったとばい」

「はぁ」

 だったら、素直に顧問室に行けと言えばいいのに、と松尾先輩を呪った。

「あのな、久保が今日は部活を休むって電話のかかってきたと。」

「はぁ」

「なんか、あったとか。」

 先日、次期指揮者と次期伴奏が決まったとはいえ、部活の活動以外の校内では、あまり接触はないのだ。しかし、顧問としては伴奏者が部活を休むというのは、重要な問題なのだろう。僕は昨晩のピアノ教室での出来事を語った。話を聞き終わると井沼先生は、しばらく黙って窓の外を見ていたが、そうか、とぽつりと言うと立ち上がった。井沼先生はオペラにも出演するプロフェッショナルなバリトン歌手でもある。大きな体とふくらんだ胸、ぎょろりとした目でありながらも、端整な顔立ち、仕立ての良いスーツが、教師とは思えない。

「わかった。ありがとな。実は今朝、伴奏の引き継ぎをするはずでな、松尾は久保のことを待っとったとばってん。松尾が心配しとると。久保で大丈夫かって。おいは、もうこの合唱部は女声だけにして、伴奏が吉野、指揮を木田でよかやろと思うとったとばい。女声をサポートするのが男というのも、おもしろかやろ。」

「先生、久保は大丈夫です。いや、大丈夫にしてみせます。そいから、男子も集めます。」

 思わず久保をかばおうと思ったのか、僕は山崎部長の命令も合わせて先生に返事をした。井沼先生のぎょろりとした目が、僕を一瞬睨んだ。一息吐くと、

「そうか。わかった、ようわかった。わいにまかすっけんね。」

「はい」

 僕は、胸を叩いたが、内心は不安で一杯だった。僕が伴奏で、指揮が木田だって? その方がいいじゃないか、と一瞬でも思ってしまったからだ。

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