ヤクルト
四
ハウスで数曲、僕と久保で交代で弾き、歌いながら楽しい思いをしたのだが、結果的に子どもの狙いが僕が抱えもっていた果物にあり、その熱い視線をかわすことができずに、修道女に渡してしまったのは大失態だった。孤児院を出ると、
「ごめんな、お見舞いの果物さらわれたばい」
と素直に謝った。すると、突然小川縁の柵にしゃがみ込むと、震えだした。また泣くのか、と緊張したが、久保は大声で笑い出したのだ。
「おかしいよ、おかしい。だって、吉野君、必死に、籠かかえて、逃げ回って、ああ、おかしい」
僕らはもう一度先の果物屋に行き、果物籠を買い求めた。怪訝そうな店主に、またヤクルトをもらい、今度はその場で二人で飲んだ。まだ久保は笑い顔だ。
「だめ、こっちみないで。吹いちゃう。」
といいながら、久保は、せっかく飲んだヤクルトを果物屋の床にぶちまけた。
「けけ」
と笑ったら、少し飲み残しが入ったヤクルトを投げつけられてしまった。しばらくこのヤクルトの臭いが制服にしみついていたので、同級生からは、
「なしてヤクルトの臭いのすっとや?」
としきりに聴かれ、何も答えないと、しばらくの間、僕のあだ名がヤクルトになった。
「先の果物籠よりも、軽かばってん。果物がへっとらんやろか」
「大丈夫だよ。値段は同じだし。」
「今度はおいが全額払うよ」
「いいよ、大丈夫だって。楽しかったし。」
先のハウスの前に来ると、静まりかえっていた。今頃、子どもは果物と無言で格闘しているのだろう。
「いいところだね。長崎。」
いいところだと感じる自分がいることに、感謝しよう。僕はそう言いたかった。
「そげんね」
その先の角を曲がると、原爆病院は目と鼻の先だ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「悔しさはね。自分が生きているという証明よ。」
篠沢先生は急に蘇ったような、張りのある声でそう言い切った。
「吉野君の祐宗先生に嫉妬したから、今の私があるの。だから彼女には感謝しているし、吉野君を見るたびに、その嫉妬心を思い出しているわけ。だから吉野君は一日の締めくくり。」
初めて篠沢先生のお宅に来て、祐宗先生からの紹介状を渡し、それを読み終わった先生が一言、
「火曜日と金曜日の最後でお願いね。こちらからお願いしたのだから月謝はいらないわ。その代わり、いろいろとお願いすることがあるから、それを手伝ってちょうだい。それでいいかしら。」
貧乏な僕にとって破格の条件でレッスンを受けてくださるとは、一概には信用できなかったが、おもわずお願いしますと頭を垂れてしまった。先生宅を後にすると、月謝が無料だったこと、なかなか美人の先生であることを、東京の両親に公衆電話から連絡した。母は、あらまぁどうしましょ、と僕と同様驚いていたが、お礼を送ってはどうかという父の声で、ひとまず安堵していた。その後、祐宗先生に電話を入れたがあいにくレッスン中だったので、先生のご主人にお礼を述べた。よかったね、と言うご主人のふくよかな顔を思い出した。
「おいが久保に悔しか思いばさせたとやろか」
正直言って、久保の悔しさも、先生の祐宗先生に対する嫉妬心というやつも、僕にはわからなかった。
「そうじゃないわよね、久保さん」
「はい、」
先生は僕が弾く音楽に久保が悔しい思いをしていると言う。ますますわけがわからなくなってきた。
「わたしには、吉野君みたいに、弾けないの。篠沢先生のレッスンを受け始めてから、気持ちを表現しなければ、と焦れば焦るほど、表現する気持ちが空っぽだってことに少しずつ気がついてきたの。あなたのピアノをここで聴いて、」
久保は唾をごくりと飲み込んだ。そしてゆっくりと、
「満たされるような気持ちになったの。あのとき、道角で聞こえてきた音が、やっぱりこれだったって、この音だったって、私の隙間を埋める音楽がここにあるって、そう思ったの。私が勝手にそう感じて、自分に足りないものがわかって悔しいって思っているだけだから、吉野君のせいじゃないわ。ごめんね。」
座ったまま静かに頭を下げる久保。
先生が、横たわっていた体をゆっくりと起し、ソファに背中を押しつけるように座り直した。
「もう、よかと?」
お母様が、心配そうに先生の顔をのぞき込む。手のひらを先生の首筋にそっと当てた。
「ええ、だいぶよくなった。みなさんご心配おかけしました。楽になってきたわ。久保さん、はっきりいうとね、その思いに気がつくのが、少し遅かったわ。だから、これからのレッスンは、辛いものになると覚悟しておいてね。正直言って、あなたの成長はこれで終わりかなって思っていたの。ある程度ピアノが弾けて、音大受験に間に合う程度かなって。あなたのその思いが、今まで以上の成長をもたらすはずよ。よかったわね吉野君。」
なぜ、僕によかったね、というのだろう?
「おいが久保のレッスンを助けるってこと?」
「そうそう、さすが勘が良いわ。あなたが手伝うの。あなたの音楽が久保さんの音楽を導くのよ。」
わけがわからくなってきたが、思い当たることもある。
「この間、次の合唱部の指揮をおいがして、久保がピアノ伴奏をすることに決まったとです。それは、おいが久保の音楽を助けることになるとやろか?」
「わぁ、それはすごい。なる、なる、なるとよ、ははは」
先生が笑った、その笑い声はもう弱々しくはなく、しっかりとしていた。僕も、お母様も、そして久保もほっとした。
「頼んだわよ、久保さんのこと。吉野君。」
「はいっ。」
僕は勢い込んで返事をしたが、先生の言葉はこの言葉以上に、重い現実をはらんでいることに、まだ気がついていなかった。