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精霊流し  作者: 名夢子
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孤児院


 小川縁の道を上っていく途中で、オルガンの音にあわせて子どものつたない声の賛美歌が聞こえてきた。むっとする熱気の中で、爽やかな涼風を浴びたようだ。賛美歌は薄汚れた孤児院ことハウスから聞こえてくる。

「きれいな曲だよね、賛美歌って。誰が歌っても、賛美歌になるように作られてる。」

 追いついた久保が、ヤクルトを付きだして笑った。

「ああ、でも歌っている本人には神様は見えんとさ」

 憎まれ口をついたついでに、ふたの赤い銀紙をはがしたヤクルトを一気に喉に流し込んだ。べっとりと喉に貼り付くが、体の熱気が徐々に吸い取られていくのが分かる。

「寄って行ってみるか」

 僕は、その孤児院の裏口を開け、中に入っていった。

「大丈夫なの、いきなり入っても」

「よかよか、一緒に入ろう」

 後ろの方から、久保は不安がっているが、かまわない。いつも来ているところだ。遊戯室に入って行くと、顔見知りの修道女がオルガンを弾いている顔をあげて、こちらを見て微笑んでくれた。僕は、皆が歌っている賛美歌に入り込んで歌い、そして遊戯室の壁にあるイエス・キリストの木像に会釈しながら片手で十字を切った。歌が終わったところで、久保を修道女に紹介し、子ども達の輪の中に入っていった。久保が側に寄ってきた。

「いいの。本当に。」

「ああ、修道女さんも知っとるし、ときどき来てるんだ。ここ。」

「え、なんで」

「まぁ、ボランティアのようなもん。おいがときどき教会でオルガン弾いてるのは知っとうやろ。」

「噂には、きいてるけど。」

「その延長線。」

「吉野君、お願い。」

 修道女が手招きしているので、彼女に変わり僕がオルガンの前に座る。すると子ども達から声が上がる。

「あれ弾いて、ライダー弾いて、ライダー」

 テレビドラマのヒーローの曲だ。修道女はこれこれ、とたしなめるのだけど、構わず弾くと子ども達は声が張り裂けんばかりに歌う。汗だくになって歌っている。僕はそんな子ども達がとても愛おしい。修道女もいつのまにか手拍子をしている。久保も同じだ。彼女のこんなににこやかな表情を見たことがあっただろうか。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 篠沢先生の家で、泣きじゃくった後に話し始めた久保の話には、正直言って驚いた。彼女の父親は大きな漁業会社の重役で、東京生まれの彼女が中学3年の時に父親の転記に伴って長崎に転校してきた。だから、何不自由の無い生活を送る優雅なお嬢様、という印象だったからだ。

「吉野君のピアノを聴いていたら。体が震えてどうしようもなかったんです。ご心配かけてごめんなさい。先生や吉野君のせいじゃないんです。ほんと、ごめんなさい。」

 泣いた後のしゃっくりが、言葉が口から出ようとするのを拒んでいるようだ。

「大丈夫よ。何があったの、話して聴かせて。わたしでよかったら。」

 先生は自分の体調が悪いのを押し殺して、久保を落ち着かせようとしている。沈黙が重苦しい。僕は静かにピアノの側に戻り椅子に座った。楽譜は膝の上に置いたままで。

「何から、話していいのかわからないけれど。」

 僕の場所から久保は見えないけど、ひきつる語尾が、彼女の苦しみの大きさを伝えてくる。

「私、これまで、ずっと友達がいなくて。いろいろと相談できることもなくて。家に帰っても誰もいなくて。いつも、いつもひとりぼっちだったんです。東京でもピアノを弾いているときと、レッスンに通うときだけが、楽しくって。こっちに来てからも前の横井先生、そして篠沢先生のところにレッスンにくるのがとても楽しみ、というか生きている時間なんです。」

 一息ついたところで、先生のお母様が水を僕に渡してくれた。おそらく久保にも渡したのだろう。一息で飲み干してしまうと、大きな胸のつかえまでもが流れていった。

「いつも先生のレッスンが終わった後、お宅を出て、少し行ったところの曲がり角で聞こえてくるピアノの音が、すごく気になっていたんです。楽しかったり、悲しかったり、そう、怒っていたり。いったい誰が弾いているんだろうって、いつも、いつも気になっていたんです。正直、私の周りはいつも寂しい気分ばかり。でも、あのピアノを弾く人の周りにはいろんな気持ちがあるんだろうな、それに接しているんだろうな、って思うと、」

 久保はそこで言葉を切った。

「悔しいんでしょ」

 先生がぽつりと言う。

「私も、そうだったわよ。自分が一番上手だって思っていたけれど、頭ではわかってたのよ、私より上手な人はいるだろうなってね。そして、確かに私より上手な人はたくさんいたの。でも、ある時、ピアノの技量じゃなくって、聴く人の心に伝える、伝わるもの、そのものが大切なのだろうと思うようになったの。ある友人のピアノは聴いていると、ぼろぼろ涙がでてくるの。その理由はわからない。でも最後に残るのが嫉妬。なぜ私には、こうやって泣いてくれる人がいないんだろうって。それなりに弾けば母も父も、それこそ先生も褒めてくれる。それで満足だった。でもあの、嫉妬する心を覚えたときから満足することができなくなった。なにもかも嫌になったわ。だから再出発、パリの音楽大学へ行ったの。」

「はい、悔しいんです。」

 しばらく沈黙していた久保が発した言葉は、もう泣き声ではなかった。

「吉野君、こっちにきて。その友人がね、あなたが中学校時代習っていた祐宗先生よ。彼女のピアノはテクニックを越えているのよ。今の私には、演奏家より教育者を目指しているから、よくわかるわ。」

 そういえば、母から手渡してもらった紹介状を思い出していた。あの手紙に書かれた住所を手がかりに、今いる篠沢先生のこの古びた木造の家を探したのだった。

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