プレリュード
二
「こぎゃん暑かとやったら、バスにのればよかった」
「男のくせに泣き言うのね」
久保にこうやって叱られるのは、気持ちがいい。
「わいが、歩くっていうから、つきおうたとに、その言い方はなんや」
と言ってるのはまったく無視され、
「果物屋さん、発見。寄ろう、寄ろう」
と彼女はさっさと入っていく。僕はなんだか、肘鉄を食らわされた感じで、薄暗い果物屋に入っていった。奥まった場所には、いかにもお見舞い用の籠に入った果物が飾ってある。どれも高級そうだ。長崎の夏は暑い。気温だけでなくねっとりとした湿気が体にまといつく。そんなことはお構いなしに、飾られた果物達は涼しげで、それでいて行き場のない不安そうな顔をしていた。この果物達はちゃんと食べられてもらえるのだろうか。長崎では新盆、その年に亡くなった人を精霊として船に乗せて極楽浄土や天国へ送り出すという習わしがある。そこには真新しい果物達が備えられ、食べられることもなく、捨てられていくのだ。
気がつくと、久保が大きな籠を手に持っていた。僕はあわてて財布から千円札を出すと彼女に握らせ、籠を受け取った。
「ありがとね。おいが持つけん」
「ありがと」
果物屋の暗がりから出ようとすると、彼女が、
「果物屋のおじさんに、もらったよ」
と、小さなヤクルトを僕の手の甲に押しつけてくる。思ったよりも冷たくて、そして痛かった。暑くてたまらないのに、冷たいものが欲しくて欲しくてたまらないのに、押しつけられると痛い。なんだか、持っている果物籠が急に重くなった気がした。僕は、何も言わず、ずんずん歩き出した。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
バッハのプレリュードは数分もかからない曲だ。しかし時計が秒針を刻むように正確に、音を紡ぎ出していかなければならない。連なる音と音、同時に響く音、それら一つ一つが全体の音楽の一部として働くように、刻みつけていく。強弱の抑揚は極力抑えながら、タッチと響きで色を加えていく、その淡々とした作業は内省的だが、聴くものにとっては危ない綱渡りのように感じられるのだろう。ピアノ部屋の隣で横たわっている篠沢先生の不規則な呼吸が、僕の心臓をつかんで離さない。今までは先生と僕だけの空間だったものに、久保という存在があるせいかもしれない。微妙な綱渡りがとうとう最後のカデンツでアルペジオがばらけてしまった。
「ちっ」
と舌を鳴らした僕に、
「はしたないことしないの。前半の乱れが修正できなかったわね。」
叱る先生の声が、弱々しいのがつらい。
「はい、すみません」
僕はうなだれ、捨て鉢になって、
「今日は、やめます。」
と言って立ち上がり、先生のいるソファに近づいていった。
「あなた、これくらいのことで動揺してどうなるの。あなたのピアノはその程度なのかしら。あなたが作り出す音楽は、もっともっと揺るがない大きなものじゃなかったの。私がおかしくなったからという言い訳は、絶対許さないから。いいわね。」
先生の怒りは僕に向けられたものではなく、先生自身に向けられたものだ。だから、余計に僕はどうしていいのか分からない。すると久保が突然に小さく泣き出した。先生の背中をさすっていた右手が先生の腕にしがみついている。
「どうしたの、久保さん」
先生のお母様が、驚いて久保を抱きしめる。
「ごめんね、久保さん。私が急に怒ったから。」
と僕を睨む。しかし、その目はもう怒りではない。先生も戸惑っている。
「ちがうんです。ごめんなさい。だって、わたし、」
しゃくり上げながら久保が語り出したのは、僕の単細胞脳が考えていたものよりも複雑な事情だった。