馬の練習 2
そういうわけでわたしたちはこの日、予定を変えて乗馬の練習をすることにした。場所はわたしの家の庭。馬はララが用意してくれたけれど、それはララが普段乗っている愛馬ではなかった。
「あの子は人に慣れすぎてるからね。練習にはならないんだ。二人のために知り合いから新しい子を借りてきたから、これに乗ってみるといいよ」
ララが借りてきた馬は黒い毛並みが艶やかで、体もがっしりとした感じ。いまのところは暴れるような兆候もなくて、どことなく賢そうにも見える。
「じゃあ、アリサ、さっそく乗ってみてよ」
「わたしからなの?」
今日の乗馬練習はわたしとプリシラのためのもの。
提案したのはプリシラだったから、てっきりわたしが後に回されると思っていたんだけれど。
「アリサのほうがお姉さんなんだから、まずはお手本を見せないとね」
「振り落とされたりしないよね」
「大丈夫だよ。それなりにしつけはされてるからさ」
「わ、わかった。でも、乗り方なんて全然わからないんだけど」
「そのための練習だよ。じゃあ、まずはこの子の左手側に立ってみて」
わたしは言われた通りに馬の左のほうに移動した。
「次に、左手で手綱とたてがみをつかんでみて」
「え、たてがみも?痛くないの?」
「大丈夫。たてがみの下は脂肪だらけだから、痛みはかんじないんだよ」
ま、まあたしかに、ぶら下がるような手綱だけだと不安定すぎるから、馬の頭に固定されたたてがみを持ったほうが安心は出来るけれども。それにしてもこのたてがみ、ちょうど良いところに生えている。
「次に左足をあぶみにかけて、鞍のところに右手をかけながら、右足で思いっきり地面を蹴る。中途半端はだめだよ。馬に蹴りを入れる形になるから」
もう、走り高跳びのジャンプでもするみたいなものだよね。でも、思いっきり飛んだら、逆側に落ちそうな気もするんだけれど。
「平気だって。たてがみを引っ張れば体勢は立て直せるから」
迷っていても仕方がない。わたしは地面を蹴り上げ、馬に飛び乗った。
乗れた。少しバランスを崩して身体を戻すためにたてがみを強く引っ張ってしまったけれど、馬はなんともなさそうだった。
「それじゃあ、進んでみようか」
「えっと、どうやるの?」
馬を進ませる方法なんて考えたこともなかった。なんとなくムチで軽く叩くというイメージがあるけれど、それらしきものはどこにもない。
「前に進ませるには脚を使うんだよ」
「脚?」
「うん。まずはかかとを内側に食い込ませるようにして、それからふくらはぎ辺りで、馬のお腹を押すようにするんだよ。それを交互にやれば、それで前進するよ」
言われた通りに脚をギュッとしてみると、馬は素直に前進した。
「す、進んだよ」
「姿勢は背筋を伸ばす感じで、バランスを綺麗に保って。あとは動揺しないこと。馬はかなり敏感な生き物だから、人の気持ちはすぐに伝わっちゃうよ」
「これ、暴れたらどうするの?」
この周囲には住宅はないけれど、馬の脚ならすぐに市街地についてしまう。暴走したままだと、誰かを引き殺してしまいそうで怖い。しつけられている言っても、何かをきっかけに暴れることはあるだろうし。
「そのときはプリシラにとめてもらうよ。分厚い結界で庭の周囲を囲ってもらえば逃げることはできない。出来るよね?」
「はい、わかりました」
それなら安心かもしれない。わたしが転がり落ちるならともかく、誰かに危害を加えるのだけは避けたかったから。
「じゃあ、左に回ってみようか」
「手綱を引っ張ればいいんだよね」
「うん。あとは少しだけ体もそっちのほうに向ける感じにするといいよ。乗馬は馬と人が一体化する作業でもあるからね。馬だけを操るという意識はなくしたほうがいいよ。」
わたしは一方の手綱を軽く引っ張り、同時に身体をわずかに左のほうに傾けた。馬はカーブを曲がるようにそちらへ方向を変え、ゆっくりと歩き続けている。
「な、なんか良い感じになってる?」
「うまい、うまい。その子はある程度訓練された馬ではあるけれど、初心者としては悪くはないよ」
思ったほど、乗馬は難しくはなかった。いつもと違う視界や不安定なお尻が気にはなるけど、恐怖はあまり感じなかった。
「このまま走れたりするかな?」
「いまはやめておいたほうがいいよ。走る練習ならもっと広い土地に移動するべきだから」
「そうだね。じゃあ、次はプリシラの番かな。馬を止めるときはどうすればいいの?」
わたしがそう聞いたとき、馬の様子が明らかにおかしくなった。
それまでの落ち着きが嘘のように突然いななきを上げて、前足を高く上げた。わたしはその変化に対応できず、手綱を離して空中へと放り出された。
幸い、怪我はしなかった。慌てて駆け寄ってきたベアトリスが地面に落下するギリギリのところで抱き止めてくれたからだった。
「大丈夫ですか、アリサ様」
「う、うん、ありがとう。それよりも、馬のほうが」
なにが原因かはわからないけれど、暴れたら大変だなと思ってそちらを見たら、すでにプリシラが結界を張ったあとだった。目にも見えるくらいの四角い箱のなかで、馬は大人しくしている。
「でも突然、どうしたんだろう。さっきまでおとなしかったのに」
「原因はどうやら、あれのようですね」
そう言って、ベアトリスは空のほうを見上げた。
そこには、影があった。青空に浮かぶひとつの黒い点。下降してきているからなのか、その影はどんどん大きくなっていった。
「あ、あれは、グリちゃんです」
プリシラが見上げた状態でそう言った。
「グリちゃん?」
「グリフォンのグリちゃんです。師匠が移動に良く使っていたので、その背中に乗っていると思います」
やがて、その影は地面に降り立った。
それは4本脚の鳥だった。上半身は羽の生えた鳥の姿で、下半身が獣のそれ。グリフォンというのはアニメで見たことがあって、まさにそんな姿だった。
「申し訳ない。驚かせたようだな」
その背中に乗っていたのが、プリシラの予想通りにハーミットさんだった。ハーミットさんは軽やかにグリちゃんから飛び降りた。
「乗馬の練習をしていたようだな。懐かしい。わたしも召喚術を身に付ける前には、よく馬を利用していたものだ」
「師匠、ようやく戻ってきたんですね」
プリシラがとことこと嬉しそうに駆けていく。
「プリシラも馬の練習をしていたのか」
「これからするところでした。でも師匠がまたケルちゃんを出してくれればその必要もないかもしれないです」
「いや、乗馬の練習はしておいたほうが良い。いつまでもわたしがそばにいるとは限らないからな」
「師匠、せっかく会えたのに、まさかまたどこかへ行くつもりですか?」
「プリシラ、すでにおまえは立派に一人立ちをしている。しかもこうして仲間もできて、孤独ですらない。わたしのことはもう忘れるべにときが来たのかもしれないな」
「そんな寂しいことは言わないでください。師匠はいつまでもわたしの師匠です!」
プリシラのその言葉に、ハーミットさんの頬が緩んだように見えた。
「わかった、わかった。わたしもプリシラの父親のような存在だからな、ちゃんと責任は取らないといけないよな」
責任、という言葉がわたしにはどうしてか、重々しく聞こえた。
ハーミットさんはわたしのほうに顔を向けると、
「ところでアリサくん、いまからちょっと話は出来るかな。どうしてもいまのうちに相談しておきたいことがあるんだ」
「わかりました」
ザイードのこととか聞きたいことはこっちにもあったので、わたしたちは乗馬の練習を中断して、家の中に入ることにした。