リディアの過去 4
ーーわたしには一人息子がいたの。
どこか遠くを見ながら、ミランダさんは言った。
ミランダさんはかつて結婚していた。パーティーを組んでいた冒険者の男性と結ばれ、やがて身籠ることとなった。
それをきっかけにミランダさんは冒険者を止めて、一人の母親として生きることを選択した。
結婚生活で一番の不安はやはり、夫の安全だった。冒険者として前線で活躍する夫は、いつ命を落としても不思議ではない。
夫が留守にしている間、ミランダさんはお腹にいる我が子に語りかけた。お父さんが無事に帰ってきますようにと。
そうして子供が生まれたとき、ミランダさんは喜びに包まれたけれど、息子さんが成長するにつれて違和感を感じるようになった。息子さんはそれなりの年齢になってもうまく歩くことができなかったのだ。
やがて、息子さんは歩行が難しくなり、ベッドに寝たきりになった。呼吸をするのも苦しそうで、いつ死んでもおかしくはないような状態になった。
「周囲からは誰かに呪われたのではないか、もしくは悪霊が取りついているからではと言われたそうです。ミランダはまさか、そんなはずないと思いつつも、エクソシストを呼び、徐霊をお願いしたといいます」
しかし、効果はなかったという。息子さんは相変わらず寝たきりの状態が続いていた。
もしかするとそれは、筋ジストロフィーという病気かもしれない、とわたしは思った。テレビのドキュメンタリーで見たことがある。
筋肉がどんどんなくなっていく病気で、たしか遺伝子に異常があると発生するはずだ。さまざまな合併症も誘発するらしく、若くして亡くなる人がほとんどのはずだった。わたしのいた現代でも根本的な治療は見つかっていないはず。
悲嘆にくれるミランダさんのもとに、ある日、医者を名乗る男性が現れた。自分なら治療法がわかるかもしれない、とその男性は言った。
ミランダさんはすでに多くの医者に診てもらっていたので、いまさらそんな人物を頼る気にはならなかった。
それでもその医者はお金を取るわけではないと言い、ミランダさんの息子さんを強引に診察した。
ーー奥さん、この子の命は長くはありません。もって一年が限界でしょう。どんな高い薬を飲んでも、腕の良いヒーラーに頼んでも効果はありません。
ーーそうですか。
予想通りの答えだったので、ミランダさんはとくに落胆はしなかったのだけれど、その医者を名乗る人物の話はそれで終わりではなかった。
しかし、とその人物は続けた。
ーーこの子を救う方法がないわけではありませんよ。
ーーえ?
ーー医者に頼らない治療法というものがあります。それを試してみたらどうでしょうか。
ーーそれは、どういうことですか?
ーー奥さん、あなたは召喚士でしたね。
ーーはい。でも、どうしてそれを。
ーー近所の人に聞いたのです。では、召喚治療というものを聞いたことはありますか。
ーー召喚治療?
ーー知りませんか。それも仕方ありません。一般的に普及しているものではありませんからね。
ーー具体的にどんなことをするのですか?
ーー召喚治療というものは、人の体そのものに精霊や悪魔を降ろすことで、その人を内部から活性化させる治療法を言います。これを行えば、医者やヒーラーが諦めた患者でも救える可能性があるのです。
ーーじゃあ、この子も?
ーー確実ではないが、他には方法もないでしょう。
ミランダさんは悩んだ。召喚士として活躍してきたとはいえ、人の体に直接降ろしたことなど一度もなかったから。
そんなことが本当に出来るのだろうか、という不安もあった。召喚治療など一度も聞いたことがなく、その効果を信頼することはできなかった。一歩間違えれば息子は死ぬ。初対面の人物の言葉を真に受けることそのものも危険だった。
ーーわたしはアドバイスをしにきただけです。あとはあなたの判断に任せます。ただ、召喚治療を行う場合は悪魔を選ぶことをおすすめします。
ーー悪魔?どうしてですか?
ーー精霊や天使のほうが良いと考えがちですが、逆の場合もあります。最後まで追い詰められた肉体には、精霊や天使では効果がないというべきかもしれません。
召喚治療は対象者の状態によって、召喚するものが変わる。軽度のものなら精霊や天使で十分に効果があるけれど、すでに手遅れの状態では意味はない。
精霊や天使は人に害をなすような存在ではない。だからこそ、その人の限界を見極め、無理をさせるようなことはしない。寿命を無理矢理伸ばすことは、神の意思に反する行為でもある。
一方、悪魔は違う。自分の欲望を優先させる。対象者が苦しもうと、お構い無し。その体を自分のものにしてしまおうとする。
「つまり、悪魔は人に取りつきやすい、ということですか?」
「ええ。誰もが見放した絶望的な患者を救うには、その体を悪魔に譲る必要があるのです」
ーー息子さんを救うには、それしかありませんよ。あとは、あなたの判断次第です。
その人物はそれだけを言い残して、立ち去った。
「それにしても、その人はどうしてそんなことを、わざわざミランダさんに伝えに来たんでしょうか?」
「おそらくですが、その医者を名乗る人物は、ダーナ教団の関係者ではなかったかと思います」
「ダーナ教団の?」
「ダーナ教団は自分たちの勢力を拡大するため、魔族を作り出そうとしている話があるのです」
「魔族というのは、悪魔のことですか?」
「いまではそのように認識をされていることも多いですが、実際には違います。悪魔はあくまでも召喚されたものですが、魔族はこの大陸に元々住んでいた種族とされています」
「えっと、魔族というのは普通の人間とはどう違うんですか?」
「そこは正直なところわかりません。ただ、普通の人間とは違う、特殊な力を持っていたとされています。強力な悪魔を召喚した種族とも言われていて、我々人間と敵対していたとされています。ダーナ教団はその再現を狙っているのだとされています」
「どうやって魔族を作るんですか?」
「悪魔を人の体に降ろすことで人魔一体化する、これがダーナ教団の計画でははないかと思います」
「人魔一体化……」
「もちろん、それで魔族が生まれる保証はありませんが、ダーナ教団はこの計画を長く続けているとされています。何かしらの成果があったからなのかもしれません。この事実はわたくしたちも最近把握したことなので、当時のミランダは聞いたこともなかったとは思いますが」
ダーナ教団にも召喚士は存在している。
でも、数は多くはない。
なにより、召喚生物というのは一時的なもので、ダーナ教団としてはその力を永続的に使える方法はないかと考えていたのではないかということだった。
「魔族って……じゃあ、召喚治療というのは嘘で、その人はミランダさんの子供に悪魔を植え付けるのが目的だったということですか?」
「召喚治療自体は存在しています。しかし、それはあくまでも裏の社会での話です。召喚治療はあまりにも体に対する負担が大きく、熟練の召喚士でも上手くいくとは限らない。もちろん、悪魔召喚などはもっての他。それによって魔族を作り出すことなど許されることではありません」
だからこそ、ダーナ教団はいろいろと実験を繰り返していた。前例が少ないので、ミランダ家の事情を知った何者かがこれは利用できるのではと考えたのではないか、というのがリディアさんの見立てだった。
「ミランダもその夫も優秀な冒険者でした。だからこそ、その子供なら悪魔召喚にも耐えられるのではないかと、向こうは考えたのかもしれません」
「でも、悪魔ですよね。普通の親なら受け入れないんじゃないですか?仮に成功したとしても、それはもう別人になってしまうはずです」
「それでも、生きていてほしいと願う人はいます。生きてさえいれば、どんな姿でも構わない。親ならなおさらそのように思うでしょう」
息子さんがもう長くないことは、ミランダさんにもわかっていた。息子さんは自分では食事を取れないほどにすでに衰弱していた。
もうまもなく、息子は死んでしまう。愛する息子と二度と会えなくなってしまう。その焦りがミランダさんを突き動かした。
ミランダさんは実行した。召喚治療を。そして。