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悪魔 5

「……何か聞こえませんか?」


ベアトリスがふいに立ち上がり、耳をぴくぴく動かした。


「ルシアちゃんに何かあったの?」

「いえ、これは外からの物音です」


わたしは耳を澄ませたけれど、何も聞こえなかった。


「歌、でしょうか。かすかに人の歌声が聞こえます」

「歌?」


ベアトリスは耳がいいから、遠くの声も自然と拾ってしまう。誰かが鼻唄でも歌っているのかもしれない。


「いえ、鼻歌のような感じではありません。なんというか、子守唄のような柔らかい感じがします」

「子守唄?」

「はい。かすかではありますが」

「なんにしても、不謹慎だよね。子どもが苦しんでいることくらい知っているだろうに」


ララが呆れたように言ったときだった。

玄関のほうから物音が聞こえてきた。これは歌声ではなく、この家のドアが開く音だった。


「誰かお客さんかな?」

「いえ、廊下の足音も聞こえていましたので、あの子が外に出たのかと思います」

「え?」


あんな状態で?っていうかルシアちゃん、歩くことも難しかったんじゃないの?


「とりあえず、確認してみよう」


わたしたちがリビングから出て玄関に向かうと、そのドアはやはり、開いていた。わたしたちがそこを通って外に出ると、ルシアちゃんがそこにいた。


「ルシアちゃん、どうしたの?」


そう声をかけても、ルシアちゃんは振り返ることもしない。


「ルシア、どこに行くの?」


お母さんの声にも、ルシアちゃん何の反応もしない。どこかへと一心不乱に向かっている。

お母さんが慌てて追いかけてその肩に手をかけても、立ち止まることはない。


「やはり、聞こえます。誰かの歌声が」


ベアトリスが怪訝そうな顔で周囲を見回す。


「それよりベアトリス、ルシアちゃんを止めてよ」


ルシアちゃんに何が起こっているのかわからないけれど、いまはとにかく家に戻さないといけない。お母さんも振りきるほどなので、わたしでもどうにでもならない。


「ルシア!」


ルシアちゃんのお母さんが叫び声を上げた。

そちらに目を戻すと、ルシアちゃんの姿はそこにはなかった。お母さんが上のほうを見ていたので、わたしもその視線を追った。


「……え?」


わたしは一瞬、目を疑った。

ルシアちゃんは空に浮かんでいた。背中から生えた黒い翼で、宙へと羽ばたいていた。


「ど、どうして?」


わたしは混乱した。どうしてルシアちゃんは空を飛んでいるの?背中から生えた翼はなんなの?


「フフフ、どうやら上手く言ったようだね」


物陰からそのような声が聞こえて、続いて姿を現したのが青髪の少年だった。


いや、ひとりではなかった。その傍らには大きな鳥がいた。大人の男性を軽く超えるくらいの大きさで、正確に言えば鳥人間だった。


顔だけが女性の顔をしていて、その下の多くの部分は羽毛で包まれていた。ざっくりと開いたドレスのように胸元までが人の肌になっていて、そこから左右には羽が広がっている。その下には鋭い爪を持った細い足が伸びている。


「あれは、セイレーンです」


プリシラが呟くように言った。


「セイレーン……」


ゲームで見たことがある。たしか歌声で人を惑わすようなモンスターだったと思うけど、わたしの知るそれは人魚の姿をしていた。

いやでも、セイレーンは元々鳥だった、という話もどこかで聞いたことがある。


「プリシラは見たことがあるの?」

「はい。師匠が呼んだことがありますから」


ということは、あの青髪の少年は召喚士ということ?


「気をつけてください。セイレーンはその歌声でさまざまな現象を引き起こします。見えないぶん、対応が難しいです」

「歌声?」


歌声。さっきベアトリスが歌声が聞こえると言っていたけど、あれはこのセイレーンから発せられていたということ?


問題はそれがなんのためか、どういう効果があるのかということ。プリシラがすでに警戒しているように、わたしもこれは良くない展開だと感じている。


それに、ルシアちゃん。このタイミングはきっと、偶然じゃない。この召喚士とセイレーンが関係しているはず。


「ねぇ、プリシラ。セイレーンってどんな力を持っているのか、正確にはわかる?」

「いえ、そこまでは。歌声で何らかの現象を起こすという漠然とした知識しかないです」


なんにしても、歌声ってのはやっかいだよね。どの程度の範囲かはわからないけれど、この結界も通り抜けてくる可能性があるんだから。


「あの人は召喚士みたいだけれど、プリシラの探しているハーミットさんではないんだよね」

「もちろん違います。師匠は完全におじさんですから」

「ハーミット?きみたちはまさか、あの変人と知り合いなのか」


青髪の少年が驚いたように言った。


「あなた、ハーミットさんを知ってるの?」

「これはなんという偶然だろうね。あの男との知り合いにこんな場面で遭遇するとは。ぼくにとっての不幸の始まりでなければよいけど」


どうやら、この青髪の少年はハーミットさんのことを快くは思っていないらしい。


「ルシアちゃんをあんなふうにしたのは、あなたのしわざなの?」

「そうだよ」


青髪の少年はあっさりと認めた。


「まあでも、ここまでうまくいくとはさすがに思わなかったよ。苦労したかいがあったというものだね。これで戦力拡充には、一定の目処がついたということかな」


戦力拡充?ダーナ教団のってこと?

でも、いまはそれよりも気になることがある。


「あなたはルシアちゃんに、いったいなにをしたというの?」

「見ての通りだよ。彼女は悪魔になったんだ」

「悪魔……?いったいどうやって?」

「質問されてばかりなのは不愉快だね。それを聞きたいのなら、まずはきみたちがハーミットという男とどんな関係なのか教えてもらおうか」

「わたしの師匠です」


プリシラがすぐに答える。


「師匠?あの男は懲りもせずにまた弟子をとったと言うのか。やれやれ、呆れるしかないね。プリシラといったか。きみには同じ弟子として同情するよ」

「あなたもハーミットさんの弟子なの?」


だとすると、プリシラがその顔を知っているはずだけれど。


「むかし、あの男に世話になっていたというだけだよ。つい弟子とくちばしってしまったけど、ぼくにそのような認識はないんだ。少なくとも、あの男は尊敬に値するような男ではないからね」


そう言って青髪の少年は空に浮かぶルシアちゃんを見上げた。


「きみたちには恨みはないけれど、あの男の知り合いというのなら、放ってはおけないね。ちょうど良いタイミングだ。悪魔の能力を確かめさせてもらおう」

「……能力?」

「さあ、欲望に抗うことはない。思う存分、攻撃してみるんだ」


その声に応じるような感じで、ルシアちゃんは耳をつんざくような悲鳴を上げた。

そして、風が起きそうなくらいに羽を羽ばたかせると、その口を大きく開けた。


「……あれは」


炎だった。ルシアちゃんの口から炎が飛び出してきて、それがものずごい勢いでこちらへと向かってきた。


「みなさん、わたしのところに集まってください」


ルシアちゃんの炎はしかし、わたしたちを直撃はしなかった。プリシラが展開した結界のバリアによって、弾かれたからだ。


「まだ、きます」


ルシアちゃんは一定の感覚を置きながらも、炎を次々に吐き出した。プリシラの結界によってわたしたちにダメージはなかったけれど、それがいつまで持つのかわたしにはわからなかった。


「だ、大丈夫なの、プリシラ」

「この程度なら問題はありません。そこまで強い威力は感じませんから。でも、我慢比べみたいなものかもしれません。それにあの青髪の召喚士が加勢すると、耐えられないかもしれません」

「召喚士って複数の召喚ってできるものなの?」

「能力によります。師匠は簡単に出来ましたけど」

「プリシラはどう?結界を張りながら、魔法は使えるの?」

「わたしは2つの魔法を同時に展開することが可能です。その場合は一方の力が落ちてしまいますので、今のところは結界に集中して様子見していたほうか良いかもしれません」


どうすればいいの?いまのところ青髪の少年のほうも様子見という感じだけれど、いつ襲ってくるかはわからない。セイレーンの正確な能力だっていまだにわからない。


かといって、ルシアちゃんを攻撃するわけにはいかない。どう考えてもルシアちゃんは被害者。なんとかそのまま確保しないと。


「いつまで耐えられるかな。このままだと共倒れという可能性もありそうだけれど」


プリシラの力にも限界はある。なんとか解決法を見つけないと。


「そうだ、ケルちゃんは呼ぶことはできない?ケルちゃんにあの青髪の少年を追い払ってもらうとか?」

「さっきから頭では呼んでるんですけど、全然反応がなくて」


ケルちゃんはプリシラの危険には反応するはずだけれど。

まさか、いまも寝ているとか、勝手にどこかへ行ったとか?木に繋いだ程度じゃ、逃げ出しても不思議じゃないわけで。


「あの少年が元凶なら、わたしが隙をついて倒してきますが」


ベアトリスが自分の手のひらに拳を打ち付けて言う。

それが一番いいのかもしれない。あの少年が元凶なら、気絶でもさせればルシアちゃんも元通りになるのかもしれない。


「じゃあベアトリス、お願い」

「わかりました」

「おっと、それはやめておいたほうがいいな」

「え、どうして?」

「あそこにはセイレーンがいることを忘れてはいけない。セイレーンの歌声はいくら肉体を鍛えていても防御することはできない。そこにつく前になにかしらの攻撃を受けてしまうだろう」

「耳を塞いでいけば大丈夫なんじゃ」

「いや、セイレーンの本質は振動だ。耳を塞いだとしても、あまり意味はないんだ」

「じゃあ、いったい、どうすれば」

「まずはあの女の子の炎を止めるべきだな。同時に相手をするのは愚策がすぎるというものだ」

「……」


え、待って。

いまわたし、いったい誰と話をしているの?男性の声がしているけれど、このバリアの中には女性しかいないはずだよね。わたし、ララ、ベアトリス、プリシラ、ルシアちゃんのお母さん。

じゃあ、この男性の声は?


そのときプリシラが言った。


「し、師匠!」

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