故郷
ノールクリシアはとてもきれいな街だった。海に面した街で、内陸から訪れたわたしの体を清々しい風が包み込んだ。
元々丘だったところに作られた街らしく、海を見下ろすようにして家々が並んでいる。海辺から内陸に向けて緩やかな斜面が続いていて、その対面にある港湾には小型の船がいくつか浮かんでいた。
「ここがベアトリスの地元なんだよね」
「はい、そうです」
わたしはベアトリスとともに、ノールクリシアを訪れていた。ノールクリシアは大陸の東端に位置する街で、漁業や製塩が盛んなところ。この世界では魔法でものを凍らせることができるので、ここでとれたものが、そのままの姿で王都まで運ばれることもあるらしい。
「海の匂いって良いよね。開放的な気持ちになるし、辛いことも一瞬忘れられるような気もする」
わたしたちは海岸沿いに立ち、海の方を眺めていた。すでに宿屋は取った後で、歩いて港までやってきていた。
「水もきれいだね。これなら泳いでも平気そう」
わたしはしゃがみこんで、海の水を掬い上げるようにした。こっちには最先端の工場みたいなものがないから、排水で海が汚れることもないのかもしれない。
こちらにも四季はあるらしく、最近はどんどん気温が高くなっていた。いまは泳いでいる人はいないけれど、後もう少ししたら海水浴を楽しむ人も見かけることがあるのかもしれない。
「泳ぐのはあまりおすすめしませんが……アリサ様は泳ぎが得意なのですか?」
「うん。他の運動はダメだけれど、不思議と水泳は得意だったんだよね」
「……」
ベアトリスは黙ったまま、こちらを見つめている。
「ん?どうかした?」
「もしかしてアリサ様、記憶が戻っているのではありませんか?」
「え?」
「いまの発言は、そのように感じられたのですが」
いまの発言。不思議と水泳は得意だった……たしかにこれって、過去の記憶を前提としている。
ど、どうしよう。異世界から来たって伝えたほうが良いのかな。
でも、こちらではフィオナは天界からやって来たと信じてる人が多いんだよね。そんななか、日本や地球についての説明で納得するかな?
「申し訳ございません。アリサ様を動揺させたようですね。仮にそうであったとしても、無理に話す必要はありません。アリサ様にも事情があるのでしょう。わたしはアリサ様の護衛、過去がどのようなものであったとしてもその役割には変更はありませんので」
「ベアトリス」
感謝の言葉を伝えようとしてベアトリスの方を見たら、少し離れた場所にベアトリスは立っている。せいぜい2メートルくらいではあるけれど、いつも近くにいるから余計に気になってしまう。
「もしかしてベアトリスは海が苦手なの?溺れた経験があるとか?」
「いえ、海に入ったことはおそらくないので、それはないかと思われます。ただなんとなく、海には近寄りがたいというか」
海が怖いという気持ちはわたしも理解できる。こっちにはきっと海にもモンスターみたいなものがいるだろうし、どこまでも広くて深い海は、本能的に恐怖の対象にもなるから。
「じゃあ、あそこにも行ったことはない?」
わたしが指差したのは、海の向こうに浮かぶ島。この港から海を挟んだ東の方にそれはある。
それなりに距離があるので全体像は把握できないのだけれど、人が住めるような大きさはあるみたいだった。
「ありません。あれは無人島ですから、わざわざ訪れる必要もありませんし」
「無人島なんだ。誰も住もうとしたことはないの?」
「以前、地下都市を建設する計画はあったと聞いています」
「地下都市?」
「大戦が起きたときのことのようですが」
悪魔の攻勢に押され、人類はどんどん大陸の東側へと追い詰められていた。
このままだと人類は絶滅してしまうという危機感から、ひとまずあの無人島に地下都市を作り、そこで避難生活を送ることが真剣に検討されていたそうだ。
「悪魔は基本的に体が大きく、飛行能力のないものも多かったので、入り口を狭くした無人島の地下なら、襲撃を免れるという判断があったようです」
「実際に作られたの?」
「途中まで、だと聞いています。穴を掘っている間にフィオナが降臨し、そこから反撃が開始されたので結果的には利用されなかったようです」
わたしがフィオナの記憶で見たように、現在のエルトリアが最終防衛戦みたいなものだったんだよね。あの時点ではきっと、無人島は開発されている最中だったわけで。
「他の大陸に住む人が勝手に住んでるってことはないかな?」
「他の大陸、ですか。この大陸の周囲には島はいくつもあるようですが、国と言えるほどの巨大なものは聞いたことがありません」
「そうなんだ」
改めて港を見てみると、確かに貿易をするような大型の船はない。
まだ見つかっていないだけなのかもしれないけれど、この世界にはそもそもひとつの大陸しかない可能性もある。地球も元々は、大きな大陸だったかもしれないと言われているし。
「では、そろそろ行きましょうか」
「あ、うん」
わたしたちがこのノールクリシアを訪れた目的は、ベアトリスのお墓参りのためだった。ベアトリスに両親はいない。すでに亡くなっているから。
かつてこの街で暮らしていたとき、ベアトリスはお父さんとの二人暮らしだった。お母さんとの記憶はベアトリスにはなくて、聞いた話によると幼い頃に離婚したという。
そのお父さんも亡くなり、ベアトリスは一人になった。そこでちょうどノールクリシアを訪れていたエリオットさんが、メイドとして迎えてくれたという。
それがベアトリスの過去だった。
「それで、ベアトリスのお父さんのお墓はどこにあるの?」
わたしが立ち上がってそう聞いたときだった。
こちらに向かって一人の女性が近寄ってきた。
「あなた、もしかしてベアトリスじゃない?」