表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

親子鑑定

作者: 青井青

 充実した仕事、美しい妻、かわいい娘……絵に描いたような幸せな家族があるとすれば自分たち家族だった。その日までは――


「あんたとあゆみって似てないわね」


 母がぽつりとつぶやき、永瀬克己はいぶかしむような目を向けた。


「何を言ってるんだよ、母さん」


 その日、母の六十四歳の誕生日を祝うため、克己は妻と娘を連れて実家を訪れていた。妹家族も加わり、久々に親戚同士が一堂に会していた。


 午後の陽光が降りそそぐ芝生の庭では、妻の弓絵と五歳になる娘のあゆみが、子供用のラケットでバドミントンをしていた。


「あゆみは俺に似てるよ。弓絵に言わせれば、くしゃみの仕方がそっくりなんだってさ」


「そりゃ子供は親の真似をしたがるからね。いっしょに住んでれば〝しぐさ〟は似てくるさ」


 庭ではあゆみがラケットでシャトルを打ち返している。たしかに顔は似ていない。それは昔から感じていた。


「俺だってオヤジには似てないよ。母親似なだけさ。母さん、そんなこと、弓絵やあゆみの前では絶対に言わないでくれよ」


 疲れたように続けた。


「母さんは弓絵が嫌いなんだろ?」


「好き嫌いの話をしてるんじゃないよ」


「最初に弓絵を連れてきたときから、イイ顔をしなかったじゃないか」


 理由は自分たちがいわゆる〝デキちゃった婚〟だったからだ。上品に言えば〝授かり婚〟だろうか。妊娠がわかってから婚約をし、親にも報告に行った。


「この家も含め、ウチの土地も財産もあんたと妹の瑞穂が継ぐんだ。いずれは孫がね。しっかりしてほしいんだよ」


 父方の祖父母はこの一帯の地主で、両親は資産管理会社を作り、アパートや駐車場を経営してきた。


「しっかりって……どうすればいいんだよ」


 母親がソファテーブルの引き出しを開け、A4サイズの紙を差し出した。DNAで親子鑑定をする会社のホームページを印字したもののようだ。


「お金は私が出してあげるから」


「勘弁してくれよ」


 克己はため息をつき、渡された紙をテーブルに裏返しに置いた。


「母さん、父さんが倒れてからおかしいよ」


 昨年、七十歳を迎えた後、父は脳梗塞で倒れた。今も意識は戻らず、ずっと入院をしている。医者からは予後は厳しいと言われていた。


「父さんが倒れたからこそよ。すっきりした気持ちで遺言状を作らせてほしいんだよ」


 遺言の話を持ち出されると、むげに母を撥ねつけにくい。妹の瑞穂は母親に似てしっかり者だ。兄妹仲が悪いわけではないが、隙を見せれば財産を持っていかれない。


「はっきりさせてくれれば、二度とこの話はしないよ」


 克己は窓越しに庭を見た。あゆみがシャトルを空振りし、妻の弓絵が笑いながら娘に何か言っている。


(馬鹿な。弓絵に限ってそんなことがあるわけがない……)


 克己は胸の中のモヤモヤした感情を追い払った。


 ◇


 夜、克己は書斎の机でノートパソコンに向かっていた。机の端には母親から渡された例の紙が置かれていた。


 検索エンジンに社名を打ち込み、リンクをクリックすると『DNA鑑定ラボ』のHPが表示された。精液、口腔の粘膜、唾液などから親子鑑定を行ない、鑑定結果は裁判の証拠資料にも使われているらしい。


《托卵女子をご存じですか?》


 えらく刺激的なワードが飛び込み、リンク先の記事を読んでみる。


 托卵女子とは、別の男性の子を妊娠・出産し、それを隠して夫に育てさせる女性のことで、カッコウやホトトギスに見られる「托卵」の習性になぞらえて「托卵女子」と呼ぶらしい。


(他の男の精子で妊娠が判明した後、手近で夫候補となる男性を見つくろい、性交渉をしてアリバイを作ります……)


 文字を追う克己の表情が険しくなる。


(相手の男はATM夫とか、キリスト教の聖人になぞらえてヨセフ夫などと呼ばれています……)


 苦々しい顔で別の記事をクリックした。


《受精日から266日後が出産予定日となります。ただし、算出された出産予定日は3日程度の誤差が生じる可能性があります》


 克己は机の隅にあった卓上カレンダーに手を伸ばした。


(ええと、あゆみの誕生日は7月10日だから、その266日前は……)


 カレンダーをパラパラめくって日付をさかのぼっていく。五年前のカレンダーではないから細かな曜日は違うが、この際だいたいでいい。


 カレンダーの「10月17日」という日付をじっと見つめる。


 その頃、自分は弓絵と性交渉を持っただろうか? 五年前なので記憶はほとんど残っていない。


(日記でもつけていればな……)


 弓絵は会社の同僚だった。以前から美人だな、と思っていた。一度デートに誘ったが断られたので脈はないとあきらめていた。


 ある日、弓絵から急に「食事に行きませんか」と誘われ、付き合いが始まった。お互い三十歳を越えていて、早く身を固めたい気持ちもあり、あとはトントン拍子に進んだ。


 弓絵に「赤ちゃんがデキちゃったみたい」と伝えられたときは驚いたが、うれしくもあった。家族を持つのは夢だったからだ。


「結婚しよう」


 克己からプロポーズした。彼女の答えはもちろんイエス。


 そこからは両親への紹介、結納、上司への報告、式場の手配など、あわただしく流れる日々の中、妊娠期間に思いを馳せる余裕はなかった。


(待てよ……あのとき、たしか通り魔事件があったんだよな……)


 弓絵のマンションの近くで女性が刺され、本人曰く「怖くなって」克己のマンションに押しかけてきて、その夜、男女の営みを持った覚えがある。


 検索エンジンで事件の記事を探し出し、日付を確認する。


(事件があったのは……11月5日か)


 そこから266日を経過させると、多少の誤差はあるにせよ、7月末あたりが予定日になる。


(7月10日では生まれるのが早すぎる?……)


 克己はディスプレイを見ながら胸が重苦しくなった。


 なにせ五年も前の話だ。その頃、営みを持ったのがその一回だけだったかというと正直、自信がない。ただ、妻への疑念が増したのは確かだった。


 ◇


「これがDNA検査に使う医療用綿棒です」


 男が英文の紙パッケージに入れられた十センチぐらいの青い封筒を差し出した。封筒を破ると、中から白い綿棒が出てくる。


「これで娘さんの口の粘膜をとってください」


 男が奥歯の歯磨きをするように、綿棒を口の中に入れてみせる。


「頬の内側の粘膜をこするように採取します。上下左右にゆっくり動かしてください」


 そこは雑居ビルの中にある「DNA鑑定ラボ」社の応接室だった。克己の前には眼鏡をかけたスーツ姿の四十年配の男が座っている。


「必要なのは唾液ではなく粘膜です。検体は二本採取して、こちらに送り返してください。娘さんには虫歯の検査とか、適当な理由を言ってください」


 手元の採取キットに克己は目を落とした。


「あの……ほんとにいるんですか? 托卵女子なんて」


 ドラマや映画の中の話だと思っていた。


「ウチの扱った案件では七割がクロ――つまり旦那さんの子供ではありませんでした」


「そんなに高い確率なんですか?」


「まあ、疑いをお持ちの方が鑑定に来られるわけではありますが」


「なぜそんなことを?……」


 うめくように克己が訊ねた。後に嘘がバレるリスクを考えれば、あまりに無謀な行動だった。


「妊娠はしたけれど、事情があって相手は結婚ができない。多くは妻帯者との不倫ですね。それで手近にいる独身の男性を夫に仕立て上げるわけです」


「ATM夫ってやつですか」


 自嘲気味に克己が言った。ネットでは、キリストを育てた養父にちなみ、ヨセフ夫などとも呼ばれている。


「ですが、娘の血液型はB型です。僕の血液型はO型で、妻はB型です。この組み合わせで、AとAB型は生まれません。これは偶然でしょうか?」


「結婚前に奥さんから血液型を訊かれませんでしたか?」


 いえ、と克己は首を振った。


 ただ、もう五年も前なので記憶はおぼろげだ。酒の入った場で血液型占いにでもかこつけて尋ねられれば答えたかもしれない。


 男が同情混じりの視線を克己に向ける。


「父親がO型、母親がB型なのに、子供はA型になるパターンもまれにあります。卵子の段階で、血液型を決める遺伝子に変化が起きるそうです」


 眼鏡の前で両手を合わせ、ようは――と続けた。


「血液型に〝絶対〟はないということです。ですがこのDNA鑑定なら、間違って親子と判定される確率は理論上、数億分の一です」


 検査キットを2セット渡された。1セットは予備だ。鑑定の結果を対面で聞きたいか、電話で聞きたいか尋ねられ、克己は電話での通知を希望した。


 男は検体が到着してから二営業日で結果はわかります、と答えた。克己はよろしくお願いします、と頭を下げ、その場を辞した。


 ◇


 週末、妻の弓絵は用事があって朝から出かけていて、家には克己と娘のあゆみしかいなかった。


 ソファにいる克己のところへあゆみがラケットを持ってやってくる。


「ねえ、パパ、お外でバドミントンをやろうよ」


「いいよ。その前にちょっといいかな?」


 ソファに娘を座らせ、ポケットから英文の書かれた青い紙袋を出す。例のDNA採取キットだ。


 紙袋を破り、中から白い綿棒を取り出す。


「なにそれー」


「あゆみのお口に虫歯がないか検査するんだよ。はい、あーんして」


 大きく口を開けた娘の口に綿棒を入れる。


 頬の内側の粘膜をこそぎ落すように採取する。男に言われたとおり、ゆっくりと十五秒ほど時間をかけた。


「ねえ、パパ、まだー」


 もう少し我慢してな、と言いながら二本目の綿棒で粘膜をこそぐ。


「よーし、もういいぞ。がんばったな」


 ビニール袋に綿棒を入れ、ジッパーで封をする。


(はっきりさせればいいんだ……あゆみは俺の子に決まってる……結果が出れば、母さんだって納得してくれるさ)


 翌日、出勤途中に克己は赤いポストの前で立ち止まった。上着のポケットからDNA検体の入った封筒を取り出し、しばらく見つめた後、ポストに投函した。


 ◇


 それから五日後――


 克己は会社で会議中だった。ズボンのポケットでスマホが振動し、会議を中座して廊下に出ると、通話ボタンを押した。


『永瀬克己さんの携帯ですか?』


 男の声がした。


「はい、そうです」


『DNA鑑定ラボの遠藤と申します』


「ちょっと待っていただけますか」


 スマホの通話口を手で隠し、近くの空いている会議室に飛び込み、後ろ手にドアを閉めた。


「すいません。どうぞ」


『鑑定の結果が出ました。今、お伝えしてもよろしいですか?』


「……はい、お願いします」


 緊張で乾いた喉に唾を呑み、スマホを握りしめる。


『鑑定の結果、お二人が親子である確率は0%です』


 言葉の意味を頭が理解するまで数秒かかった。それから確認するように訊ねた。


「0%……つまり、親子関係はない、ということですか?」


『残念ですが、そういうことになります』


 その後、男の声は克己の耳にほとんど入ってこなかった。スマホを耳に当てたまま、目の前の壁を呆然と見つめた。


 ◇


 週末、克己は妻に内緒で実家を訪れていた。


 母がお盆でお茶を運んできた。テーブルの息子の前に湯飲みを置き、自分は向かいに腰を落とした。


「で、どうだったんだい?」


「……DNA鑑定の結果は0%。親子関係はないそうだ」


 克己が言うと、母が息を呑んだ。


「やっぱりそうだったのね……」


 眉間を寄せ、険しい顔をする。


「これからどうするんだい?」


 こめかみに手をあて、克己は疲れたように息をついた。


「少し考える時間が欲しいんだ……」


「なに悠長なことを言ってるんだい。自分の子じゃない子供を育ててどうするんだい。第一、あんたを騙していた弓絵さんを許すつもりかい?」


 克己が押し黙ると、母がさらに勢い込んだ。


「孫と血のつながりがないとわかった以上、あんたが弓絵さんと別れない限り、土地と財産は継がせないよ」


 重苦しい沈黙がテーブルに落ち、やがて克己は静かに口を開いた。


「……親子鑑定をしたのは、俺とあゆみじゃないんだ……」


 母の顔に困惑の色が浮かぶ。


「頼んだのは、俺とオヤジの親子鑑定だよ」


 病院に行き、脳梗塞を発症し、意識のなくなった父親の舌の粘膜からDNAを採取し、検査を依頼した。


「母さん、俺はオヤジの子じゃないんだね?」


 母の顔が驚愕で歪み、その瞬間、克己はすべてを悟った。


 どんな事情かはわからないが、かつて母自身が父に対して〝托卵〟を行ったのだ。


(だから弓絵を疑ったんだ……自分がしたように、弓絵が他人の子を宿したのではないかと……)


 母があえぐように口を動かす。


「なんで……」


 息子のとった行動を理解できないようだった。


「前に母さんが言っただろ? 子供は親の真似ばかりするって。あゆみは本当は左利きなんだけど、俺の真似ばかりしているうちに右利きになったんだ」


 箸も右手で持つし、バドミントンのラケットも右手で握る。


「母さんは知ってると思うけど、俺も本当は左利きなんだ。でも子供の頃、オヤジの真似をしているうちに右利きになったんだ」


 キャッチボールをしているとき、父が右投げなのを見て、自分も右で投げるようになった。


 週末、娘の舌の粘膜を採取した後、外でバドミントンをしているとき、ラケットを持つあゆみの手を目にして、不意にその記憶がよみがえった。


「利き手にも遺伝があるんだ。弓絵は左利きで、俺も本当は左利きだから、子供が左利きになる確率は26%。母さんと父さんは右利きだから、二人から左利きの子供が生まれる確率は9%だ」


 26%と9%――妻と母親、先にどちらを疑うべきかを考えた。病院に行き、父のDNAを採取し、鑑定に送った。


 妹の瑞穂は右利きだ。恐らく妹は父の実子だ。あのDNA鑑定会社の男も言っていた。托卵をした女はアリバイ作りのため、二人目は本当にその男の子供を産みたがるのだという。


 テーブルに目を落とし、克己はつぶやくように言った。


「……母さん、オヤジはたぶん気づいていたと思うよ……」


 子供の頃から、たまに克己をじっと見つめているときがあった。自分と顔も性格も似ていない息子をどう思っていたのか。


 だが、自分が愛されなかったとは思わない。妹の瑞穂と同じように、父は惜しみない愛を自分に注いでくれた。


「このことは誰にも言わないよ。母さんも忘れてくれ……」


 克己は立ち上がると、茫然自失した母をリビングに残し、廊下に出た。


 車の鍵を出そうと上着のポケットに手を入れると、指先に青い袋が触れた。それはあゆみの口の粘膜からDNAを採取した綿棒だった。


 克己はビニールの袋をじっと見つめた。


 あゆみが誰の子かをこれ以上、詮索してもしかたない。もし自分の子供でないとしても――と克己は思った。


 父が自分を愛してくれたように、俺もあゆみを愛するだけだ。煙たがられるほどの愛をあゆみに注いでやる。


 ATM夫だの、ヨセフ夫だの、言いたいやつには勝手に言わせておけ。


 DNAのつながりがあるから親子なんじゃない。子供を誰よりも愛してやったやつが親なんだ。


 克己は綿棒ごと小袋をひねり潰し、洗面所のゴミ箱に放り込んだ。


(完)

托卵をテーマにした短編は、他に「托卵女子」という作品があります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 克己が自分の娘との関係でなく、父親との関係に気付き、エッ!と思わせる展開になった点。 [気になる点] 最後の4行が、何かとても勿体ない。 [一言] もう少し、克己の父親の気持ちも書いて欲し…
[一言] 自分が父親の子じゃないと分かったなら母親を説得し、離婚させ財産分与無し、慰謝料支払うところまでもっていけば納得できる このままウダウダならクズな母親の子って印象 まぁ、関係ないけど、出産時D…
[一言] この男の選択が、正しいのか、未来に良い結果をもたらすのかは判らないけれど、そう来るか!?と予想を裏切る流れが、星新一のショートショートみたいな面白さがあって良かったです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ