愛され上手検定
『ストレスに満ち溢れた現代社会をサバイブするため、いかに他者から愛される存在であり続ける能力が求められます。本検定では他者から愛されるための体系的な知識および実践能力を測ることができます』
パンフレットに記載された『愛され上手検定』の説明に俺は何度も目を通す。こんなものがあるのかと半ば呆れ気味に呟くと、目の前のテーブルに座った営業マンが白々しい愛想笑いを浮かべながらそうなんですと相槌を打つ。男性は両手の指先を擦り合わせながら、説明を続ける。
「我がライフレベル株式会社ではですね、個々人の生活の質の向上を通じて社会全体の幸福度を底上げするという理念を持った活動を行っています。で、今回ご説明させていただいた、この『愛され上手検定』というのも、弊社とは別の公共団体が実施しているのですが、その理念に共感するところがあり、それと連携したサービスを提供させていただいております」
具体的にはですねと言葉を置き、男性が鞄からまた別のパンフレットを取り出す。俺がそれを受け取り、内容を確認すると、そこには『愛され上手検定合格講座』とでかでかと印字されていた。説明をざっくりと流し読みすると、先ほどの『愛され上手検定』の合格を目指すための様々なカリキュラムを提供するという、よくある資格講座であるらしい。
「佐々木様の周りにもこういう人っていらっしゃいませんか? 仕事もできず、周りに迷惑ばかりかけているのにもかかわらず、なぜか顧客や上司からは気に入られ、お客様のような実際に仕事を回していらっしゃる人を差し置いて出世するような人が」
営業の言葉に俺は反応してしまう。俺の脳裏に一番嫌いな同期の顔が浮かぶ。仕事も遅く、単純ミスばかり。それなのに、上司と休日よく遊びに出かけたり、終業後に飲み会に顔を出すことで、上司から気に入られ、他の優秀な同期を差し置き、とんとん拍子で出世していったやつの顔が。営業は俺の一瞬の反応を見逃さなかったのか、ここぞとばかりに説明をまくし立てる。
「我々は愛され上手というのは人柄や性格ではなく、一つのスキルだと考えております。つまり、努力次第では愛され上手になるということです。適切なスキルを身に付けていただくことで、不遇な待遇を受けている人々がより幸せになれるようにお手伝いをさせていただきたいのです。想像してみてください。自分自身が、上司や顧客、いやそれだけではなく、友達や家族、恋人から愛される姿を」
俺はもう一度パンフレットに目を通す。パンフレットの下に書かれた顔写真付きの受講体験記。希望に満ちた体験記と表情に、俺は目を惹きつけられる。俺の会社での扱われ方がフラッシュバックする。誰にも話しかけられず、黙々と仕事を行う俺のすぐ横で、仕事にも手をつけず、周りの社員と楽しそうに雑談をする同期の姿。
「この講座はおいくらなんですか?」
男がにこりと微笑みを浮かべる。
「おすすめはですね、この『激速合格ワンツーマンコース』でして、入学料が五万円、受講料は三十万ですが、万が一検定に不合格になった場合には最大で十万円のキャッシュバックが……」
俺は身を乗り出し、パンフレットを指差しながらの男の説明にじっと耳を傾ける。
*****
「それでは前回の小テストの結果をお返しします。正直に申し上げて、佐々木さんの結果はよろしくないですね」
俺は返却された答案の内容を確認する。『食後のお礼メール』と題された小テスト。記述式で書かれた俺の回答が真っ赤な文字で添削されている。俺は回答とコメントを見ながらため息をついた。
「それではテストの振り返りを行いましょうか。まず、この設問2ですが、前回の講座で説明したテクニックが何も生かされてません。まず、文字の量が多くて、絵文字の数が少ないです。見た目が堅苦しくなると相手もそれに応じて堅苦しい返事を返してしまい、それによってちょっとした壁ができてしまいます。あと、わざと誤字脱字をするというテクニックを使うべきですね」
「誤字脱字なんて……そんな失礼なこと、ビジネスでは絶対にダメですし、相手に馬鹿だと思われちゃうじゃないですか」
俺の反論に講師がやれやれと肩をすくめる。
「いいですか。これはあくまでプライベートのお付き合いです。公式の書類では許されませんが、このような個人的なやりとりではむしろ、気持ちが前のめりの状態で送ってくれたんだなと好意的に受け取ってくれる可能性が高いです。それに、相手に馬鹿だと思われることこそが大事だと初回の講座で学びましたよね? 愛されると尊敬は違うんです。いかに相手の庇護欲をそそり、相手がお馬鹿さんなあなたと一緒にいることで自分のプライドを満たせるかどうかが大事なんです。正直に申し上げますが、このままでは検定に通らないですよ」
講師の説明に俺は申し訳ありませんと謝ることしかできなかった。俺は自分の情けなさに泣きそうになりながらも、どうしたらいいでしょうかと講師に助けを乞う。
「そうですね。講座の受講とは別に自宅で本なんかを読まれるのもいいかもしれませんね。ぜひ、佐々木さんには、公式の団体が出版している参考書や問題集を買うのはいかがでしょうか? どちらも五千弱でお高めですが、検定合格者がみんなこのテキストを買われてますよ」
「はあ」
「お仕事が忙しいのであれば、音声付きの参考書がおすすめです。出勤時に流し聞をするだけでいいですからね。おすすめです。お値段はまあ……1万円と高めですが、検定に合格できるのであれば安いもんですよ。いかがです?」
講師が上目遣いで尋ねてくる。今まで高い金をすでに払ってきている。ここまで来て検定に落ちるということは今までの努力とお金を無駄にするということだ。俺は生唾を飲み込み、答える。
「……買います」
それではあとで受付で購入手続きをしてくださいと講師が頷く。
「それと、公式テキストと問題集とは別に公式が提供している模擬試験を受けてはどうですか?」
「模擬試験ですか?」
「はい。実際の試験と同じような時間配分で受けられるので、おすすめですよ」
「受験料は……?」
「一回、8900円です。個人的には受けずに後悔するよりはましだと思いますけどね」
「……やります」
俺は絞り出すようにそう答える。それでは今回の授業を始めましょうか。講師が促し、俺はテキストの該当ページを開いた。
それから俺は心を入れ替え、公式テキストの自学を含めて必死に勉強を進めた。講座を受ける態度も真剣になり、模擬試験も一度だけではなく複数回も受講した。すべては愛される人生を歩むため。俺は必死に勉学に励んだ。
時間はあっという間に過ぎていき、検定本番の日がやってくる。俺は講座で習ったことを試験にぶつける。午前の筆記試験はほぼ満点に近い手応え。いける。俺は終了の合図と同時にそう確信する。そして、午後は鬼門と言われる実技試験。この対策のために、はじめに受講したワンツーマン講座とは別に新しく追加で講座を受講している。五万円の追加出費は痛かったが、それでもそれだけの価値はあったはずだ。抜かりはない。俺の名前が呼ばれ、上司と顧客役の試験担当官とやりとりをかわす。試験で出た内容は、自分が苦手意識のあった飲み会での振る舞い。それでも俺は講座で教わったテクニックをすべて駆使し、必死に相手に好かれようと自分のプライドを投げ捨てて媚びまくった。終了の合図とともに試験管が俺に退室を促す。習ったことはすべて出し切った。俺は満足な気持ちで試験会場を後にした。
*****
『不合格』
検定試験の合否通知書にはこの三文字が印字されていた。内容は完璧に近かったはず。俺は慌てて試験結果の詳細を確認する。試験ごとの細かい評価点がシートに記載されており、午前中の筆記試験は九割近い数字で文句なし。しかし、午後の実技試験が合格ラインをわずかに下回っていた。習ったことは全部出し切ったはずなのに、なぜ。総評部分に目を向けると、そこには担当試験官からのコメントとしてこう書かれていた
『テクニック自体は身についていたものの、対応全般に心が通っておらず、相手に気に入られようと媚を売っている印象を受けました。肩の力を抜き、もっと自分らしさを出すといいかもしれません』
通知書を持つ手が震え出す。自分のプライドを捨て、自分の気持を押し殺し、ひたすらテクニックを学んできた。そんな俺の努力に対する、もっと『自分らしさ』を出せというコメント。自分らしさを出した状態では愛されなかったからこそ、ありのままの自分では愛されなかったからこそ、テクニックを学んだはずだった。俺の全身から力が抜けていく。一体どうすれば良いんだと叫ぶ力すら残っていなかった。
俺は受講講座の担当教官に電話をかける。頭が回らない状態のまま、俺は不合格の結果を伝えた後で、一体どうすれば愛されるのかについて、藁をもすがる気持ちで尋ねた。
「人から愛されることだけが幸せではないですからね……。とりあえずは、まあ、趣味や仕事に励むというのはどうでしょう?」
担当教官はそんな当たり障りのない返答を行った。それから、キャッシュバックが受けられるはずなので事務方の人間に電話をつなぎますねと早口で俺に伝え、保留ボタンを押して通話から離脱していく。面倒な相手とこれ以上話したくないんだろう。俺は担当教官の態度からそんなことを考えてしまう。
保留音を聞きながら、俺はこれからの人生について考えを巡らせる。つまり、誰からも愛されず、誰とも情緒的な関係を結びことができない人生について。俺はもう一度通知書に書かれた『不合格』という文字を見る。それの文字はまさにこれからの俺の人生を端的に言い表したような言葉のようだと、俺はふと思った。
そして俺が絶望の気分に沈み行く中、右耳から聞こえる保留音だけが、虚しく頭の中を響き渡っていた。