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  「旅」

作者: 孔明

最近は物忘れが激しくなってきていたものの、妻の菊代と二人で訪れた定期健康診断で夫婦そろって余命宣告をされるとは夢にも思わなかった。いや、思っていたが忘れているだけかもしれない。


 医者は、いつ死んでもおかしくなく、生きていることが奇跡だと言っていたが、今まで体調に異変を感じていなかった正蔵には、まるで荒唐無稽なことのように聞こえた。


 そんな中、一人息子の英治がカメラを買ってきた。齢四十を間近に控えながらも未だ独身であり、この家に住み続けているのだ。仕事こそしてはいるが、家事と名のつくものは一切せず、交際相手もおらず。孫の顔を見る夢なぞはとうの昔に捨てている。そんな寄生虫のような親不孝者の息子ではあるが、両親に迫る死には何か感じるものがあったらしく。


「俺の世話ばかりだったから、最後くらい二人で楽しんできてくれ」と旅行券とカメラを買ってきた。

 しかし、そんな息子が原因で十年ほど夫婦仲は最悪だった。追い出して自立させたい正蔵と手の届くところで可愛がりたい菊代、どちらがいい教育なのかはいまの息子を見れば明白であるが、夫婦の間に諍いは絶えず、最近では麦茶を作るか緑茶を作るかでさえ喧嘩をする始末だ。しかし死ぬ間際にまで喧嘩などしたくない。


「英治がカメラば持ってきよった。」シャッターを切りながら、正蔵が言う。ディスプレイには不自然にはにかんだ菊代が写っていた。

「昔から写真は苦手なんよ、どげな顔すれば良いかわからん」そう言って正蔵からカメラを受け取りシャッターを切る。今度は半目の正蔵が写っていた。

「こげん細かカードに保存しとるとばい」

 カメラからデータカードを抜きながら英治からの受け売りの知識を菊代にひけらかした。菊代は素直に感心していた。


 それからしばらく、二人の時間が増えた。九州をどの順番で回るのか、どこに行きたいか、何を食べたいのか。この後に及んで、菊代のことを何一つ知らない自分に気がついた。それは菊代も同じだったらしく、しきりに驚いたり笑ったりしている。こんな時間を過ごすのは久方ぶりだった。年甲斐もなく心を弾ませている。しかし、やはり二人の間に喧嘩は絶えず、飽きもせず毎日お互いを罵り合った。しかしそんな日々さえ残りが少ないと考えると愛おしく感じていた。そんな気持ちを抱えながら、二人は旅行へと旅立った。

 

十日間の旅行を終え、家へとたどり着き、すっかり役目を終えた身体をなんとか引きずって家の扉を開けた。


 この老夫婦は人生のピークはいつだったかと聞かれれば、間違いなくこの十日間と答え、自慢げにこのカメラのデータを見せるだろう。険悪だった老夫婦の旅行を撮った映像など誰が見たいわけでもないだろうが。しかしこの旅行の思い出は紛れもない宝物であり少し遅い青春だった。

 麦茶と緑茶を注ぎ、ぐったりと疲れている菊代に麦茶を渡す。長旅で疲れているのは正蔵も同じだ。遠くで英治が車を降りてくる音が聞こえる。緑茶を一口すすり、正蔵は心地よいまどろみに身を委ねた。

 

 英治は両親の引き出しの中に二人からの手紙とカメラを見つけた。

「英治へ、まずこの旅行をプレゼントしてくれてありがとう。言いたいことは山ほどあるばってん、俺とおっかあは二人とも英治が幸せになるんを祈っとる。二人でどんな所に行ったかはカメラ見たら大体わかるやろ。良か写真があったら遺影に使ってくれ。」


「英治へ、散々甘やかしてばっかりやったけど、側におってくれるだけでおっかぁは楽しかったよ。旅行を通してお父さんの知らんやった一面も知れたし、本当にありがとうね、あの人意外とロマンチストなんよ。これからは私らも居らんし少しは自立せないかんよ。」

 

 遺影に写る二人は、はにかんでいたり、半目だったりと遺影らしかぬ顔をしていた。

 

正蔵は自宅にデータカードを忘れていた。物忘れが激しい正蔵らしい、なんとも締まらない話である。

 英治はカメラを持って家を出た。二人が見た景色を探しに、仕事をしながら九州を回った。旅先で旅館の仲居さんと親しくなり、そこからは二人で日本を回った。データカードの中には、若い夫婦だけが写っている。お腹の膨らみはまだ人目につくほどのものではない。

 老夫婦の旅行の記録はどこにもない。

 誰も知らない。

 福岡を出発して早々喧嘩をして、

 大分で仲直りに温泉に行ったことも、宮崎のモアイ像に二人で年甲斐もなくはしゃいだことも、鹿児島の桜島での喧嘩も、熊本の、佐賀の、長崎の、沖縄の、二人の出会った福岡での旅の思い出も、二人が罵り合った言葉も、感謝の言葉も、そして旅の終わりの二人の気持ちさえも、まるで残っていなかった。

 

たった二人だけの、青春だった。

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