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からたち

作者: 上宮穂高


 春・花小説企画参加作品です。

 詳細は『小説家になろう〜秘密基地〜』内に展開中のスレッドをご覧になるか、もしくは本作案内ページのバナーから飛んで企画ページまでどうぞ。

 また、キーワードで『春・花小説』と検索する、企画ページの作品一覧の欄を見る、等の方法で他の作者様の素晴らしい作品を見ることができます。




  

  

 今日の私は、いつになくそわそわしています。

 元来お転婆で、男の子と泥まみれになってかけずり回っていた私ですけれど、十と五つの歳にもなれば、女らしくたおやかでいることを強いられるものです。

 ですがどうでしょう。この朝、起きた時から私は、やけに一つ動き回りたい気持ちなのです。

 今日は静かな霧の朝でございました。ひいやりとした手が床を伝って、頬を撫でて来るような心地で、ふと目を開くと、障子の開かれた向こう、縁側の先はもう真っ白なのです。大方、師範学校の鼎姉さまが開けて行ったのでしょう。本町の学舎は遠いから、と彼は誰時に出かけるのが常でした。

 一人の床で、私は惚っとそこを見詰めておりました。姉さまの布団が上げられた部屋はいつもより広々として、目覚め心地の目に霧は頼りなく映りました。それこそ、一間ほどの障子の合間から見える庭の、しとやかに黙っている都忘れの花などに、目を吸いつけられて仕方がないのは、片時も忘れることのできなかったあの人のせいでしょうか。紫が目の奥に染みるようなのです。

 私の朝も早いのですが、今朝は母さまに、あれ、どうしたのと目を丸くされてしまいました。多少大きいとは言えお百姓の血を引くうちは、例外なく朝が早く、特に私はそれの象徴のようなものだったのですけれど、これはいかんせん、昨日の晩になかなか寝付けなかったからなのに違いありません。でも言わないのです。少女ごころは秘めて放たじ、なあなあに返すのですが、それでいて、自分は今、どんな顔をしているのだろう、と朧気に考えるのは、まるで今までとは違うのです。外の面の霧が、私の中に巣くったようでありました。

 それからの私はまるでぽんやりとしていて、あちらへこちらへふわふわと歩くことと来たらもやのよう、そう言うのがいいでしょう。

 朝餉の青菜を噛む時も、父さまからすめらぎさまのご宣旨が下ったことを聞いても、いつもなら気に気を使って学校に着て行くお着物を選ぶ時ですら、上の空と言いましょうか、冷たく湿った霧が胸の中を漂っているのです。

 全てはあの人。今日、面影を訪ねられるのも今日を限りのあの人のせいで、こうなってしまうのでしょうか。区切りに息をついて家を出ると、霧の向こうの垣根が、白いからたちの花に埋もれているのがよく見えました。丁度、この辺りで花は盛りなのです。

  

  

 中学校は、そんな私をも賑やかな声で迎え入れてくれました。

 私と鼎姉さまは、村の才女、一家の華、と家の内外で口々に誉めちぎられるのですが、それで胸を張るのは姉さまばかりで、私はどことなく快くはありません。家長たる父さまと、永く続いた家の跡取りたる兄さまと、周りを取り囲む村の人達、そのそれぞれの誉め言葉と激励をそのままに受け入れるのは、かつてお転婆の頭であった私が許したくないのです。

 野原をはしゃぎ回る代わりに、と言ってはなんですが、そんな大人の眼差しを余所に私は、学窓のほとりで物語を紐解く姿をいつも夢見ました。先生に願っては書物を――勿論、皆勉学とは関係のない小説や詩編ばかりを――お借りして、周りの煩雑ごとには耳を閉じて、ただ無数の頁に目を走らせました。それができるのが学校という場所だったのです。

 そこで私が最も好きになったのは、あの与謝野晶子でした。

「あれ、柏ちゃん、また鳳晶子?」

うん、と熱気の籠った声で私は応えます。

 私はその頃詩歌というものに心を傾けていて、熱の入れようと言ったら時を忘れるくらい、見て恥ずかしくなるほどの拙い歌を隠れて書き連ねたこともありました。

 その頃執心していたのは、彼女の歌集の中でも『みだれ髪』や『舞姫』で、与謝野を名乗る前の『鳳』の時代もちゃあんと知っているのです。

「好きね、柏ちゃんも」

その言葉を口火に、私は誰彼と言うなく与謝野晶子談義を始めます。友達もいくらか彼女の歌には覚えがあるので、賑やかに、この歌が好き、これはどういう意味なのかしら、と話に花を咲かすことができました。

 髪五尺、ときなば水にやはらかき、少女ごころは秘めて放たじ。

 晶子は、この歌のように私達の胸の奥底を代わりに語ってくれると思いきや、想像及ばぬほど婀娜でもあり、『乳ぶさおさへ/神秘のとばりそとけりぬ』とあった日には、この書いてあることが分からないの、どんなことなの、と姉さまに聞いて、ませ過ぎだと叱られたこともありました。

 よくよく恋歌は私達の聖歌であり、晶子だけにとどまらず、黴の生えた古典をも厭わず引っ張り出しました。恋人を求める為に天の火をも欲する、という奈良の女官の歌を見た時には、気性の激しさにくらくらと目眩を催したくらいです。

 でもその時は違いました。

  

  

  

  

 はっきりと感じたのです――熱っぽく語るそばで、どうも私のどこかが急に冷めて行くのを。いつもならそんなことはありません。それは、大人に近付きたくての背伸びじみた討論だったかもしれません。それでも、天辺から長く伸ばした髪の先まで完璧に一世界へ浸って、仲間達と酔いしれることができたのです。そのはずが、身が入り切らないのというのは至極不安でありました。恋を囃したて、愛を讃えても、先に見えるものがなし。例え色事の話題に足を踏み入れても、その時の私にはまるで些事にしか捉えることができなかったでしょう。

 私は戸惑いました。でもこれも、言わないのです。放課の後の騒々しい校内で、相も変わらず笑顔を作ってお喋りに興じても、言えまい、みんなこの私の気持ちは分かりっこないんじゃないかしら、と密かに思うのです。実際私は、晶子のめくるめく恋の道に似て、身を焦がして慕う人がおりましたので、いつも、私だけは違う、子供じゃないの、と爪先立って闊歩していたものです。五つも年上の鉄幹と恋に落ちた、晶子のように。ですからその時の、芯が凍るような悩みでさえ打ち明けられまいと決めたのです。私はいささか、傲慢でありました。

 友達と別れて、帰り路に就いた時も霧はなお濃く、心細く空を仰いだのを覚えております。

  

  

 どうせ会えなくなるのなら。ただ一目、ただ一目でいい、相まみえられたら区切りも何も付けられるものを。もう無理なんだろうか。そう虚ろにも、霧の中をさ迷えば、なおさら脳裏に浮かび上がるのは昔のことです。

 昔の私は、前にも言った通りの手のつけようのないやんちゃで、いつも友達と一緒に村中を走り回っていました。

 でもそれも誰かといるからで、出し抜けに一人になってしまえば――例えば霧に迷ってしまう、なんて――途端に視線が迷って、あちこちかけずり回って、果てはびぃびぃ泣いていました。

 そんな時はいつでも、どこからかやって来て、ホラ、探したぞ、迷惑かけんな、と手を伸ばしてくれる。決まってこっちはすぐ泣き付いたものです。自分は小農家の五男坊で、畑仕事も山とあるくせに、毎度のこと皆放っぽって駆け付けてくれたのですから、幼い私があの人のことを慕ってしまうのも無理はありませんでした。

 思い返せば、微かでも笑いがこぼれます。あの笑顔、あの人のとびきりの笑顔。尋常の小学校を出たきりで、大人しさ覇気のなさゆえ味噌っかすと呼ばれていましたけれども、私にとっては誰よりも頼りがいのある、まさに兄同然でした。一緒に夏の野で遊び回ってくれて、小学校に上がれば勉強も見てくれて、周りの人に叱られるなぞしていた時は、真っ先にかばってくれた……そんなあの人に、私が恋心を抱いたのはいつの頃からだったでしょうか。

 過去を巡り巡れば、思い出は尽きず、懐古にきりはありません。ところがその末、今に舞い戻って来れば、在りし日の風景は遠く彼方、霧の向こうに消えるのです。

 目の前は霧、ただただ霧。恋路も見えぬ、霧の奥。慕情だけでは、もはやまかり通られないのだろうか。

 そのそばで、もう諦めなさい、あの人はお国の為に死んで行くのだから、と私の影がささやきます。

 からたちの垣根に挟まれた細道は、今にも先の方が途切れそうに霞んでいて、寒戻りも過ぎたと言うのに、この冷涼さというと震えが来るくらいです。とぼとぼとそこを辿って、帰り着く頃には庭の都忘れが露に湿っておりました。

 沈みかけた気分で、只今帰りましたと引き戸を開けた時、一番に母が顔を出して、待ってたよ、と一枚の布を手渡しました。

「……これ、何……?」

運命とは残酷だったものです。

 私は一瞬に声が固まったのに、母さまは、千人針じゃないの、と私に握らすのです。

 渡されて、手はいよいよ震え出しました。忘れていたかったのに。軍に召された村の若衆に向けて、無事を祈って千人の女達が一針ずつ、白地の布に赤糸で縫い玉を作って、それで絵を仕上げるのです。それが千人針。『武運』『長久』と両端に赤く記された間には、ほぼ完成した虎の絵がありました。

 あんた、佐兵さんとこの泰平くんに散々お世話になったでしょう、だから最後に取っといたんだよ。虎は、眼の辺りの一針が抜けておりました。

 早い内に縫っておくんだよ、と母さまは勝手の方へ行ってしまい、取り残された私は、総身でわななきながら手の中のそれを見詰めていました。

 早い内に、縫える、訳がないじゃないの。来なければいい、来なければいい、と赤紙の次に恐れていたそれが今手の中にある。それはすなわち、私の想い人が、遠く相まみえぬ異国の地にさらわれて行く知らせだったのです。祈る無事とは何事なのでしょうか。

 すぐさま私は部屋に逃げ帰り、畳に拳を打ち付けて泣き出しました。声を殺した分涙が止まらなく溢れ出て、体さえ透き通って溶けて流れてしまうのでは、というくらい泣きじゃくりました。

  

  

  

  

 学童の私だって、戦場がどのようなものかぐらい知っています。兵隊さんが、すめらぎさまの御為に命を花と散らし行く、噂にでも耳にしています。そこに、小さい頃から実の兄のように慕って来た泰平さんが、消えて行ってしまうのだと思うと、悲しみはどうのしようもなく降りまさるのです。

 とうに涙という涙を絞り切ってしまった上から、言い聞かせて、言い聞かせて、諦めたつもりだったのがどうでしょう。後から後から目が潤んで、まるで何も見えないのです。まるで雲霧の中ではありませんか。

 恋歌に心をはやらせたすぐ後で、思い続ける人との糸が切れるとは、何たる皮肉でしょう。こんな時、歌達が役に立ってくれればよかったのですが、紙の上の綴り言葉は立ち向かうのに刃も持たず、私はどん底におりました。

 思い返せば、かの与謝野晶子も最愛の夫・鉄幹に先立たれ、つい先頃に玉の緒を切らしたばかりなのでした。

 ああ、私に天の火があったなら。冗談のように話へ上らせていた、万葉の恋歌がふっと頭をかすめます。

 君が行く、道のながてを繰り畳ね、焼きほろぼさむ天の火もがも――引き止めておきたいあなたが、行くであろうその道のりを手繰り寄せて、焼き滅ぼす天の業火がほしい――。

 私は痛いほどよく分かるのです。女官のほとばしる愛情と、その裏の、叶わぬ恋への憤りが、自分に乗り移るような錯覚がしたのです。

 ですが、霧に濡れた私に火がつく訳がありましょうか。一死君恩に報ぜよ、と送り出されて行く泰平さんを、引き止めるすべは私にはありません。声も出せずに、畳表を一人濡らすのみでした。

  

  

  

  

 ――大和男子と生まれなば、散兵線の花と散れ……。

 軽いまどろみの果て、聞こえたのはそんな歌声だったでしょうか。夜の始まる部屋は水底のように暗く、耳が吸い付けられるほど静まっておりました。しおれた目蓋の先に、青黒く暮れた庭が見えます。

 そうだ、あれはあの日、この村の分限者である父さまが代表して詠じたんだ。今更のように思い出されて、胸に嫌気がさします。

 今日の夕餉の時、明日の出征の用意で今夜は早く床に就こう、というのに私が不平顔でいるものですから、父さまは気を悪くしたのでしょう、

『柏、何を思ってそんな顔をするかは知らんが……何の不満があった所で、その腹積もりは叶わないと思え』

いいな、と釘をさす父さまに私は、思わず心の中で拳を震わせました。

 何もかもを見透かしたように――泣き腫らした私の目を直視する、その眼光の何にもまして冷徹だったこと。

 父さまは恐らく、私と泰平さんのことを知っていたのではないでしょうか。どうせ狭い里のことです、その長からすると耳にするのに苦はないのでしょう。もしかしたら、私が母さまに急かされながら泣き顔で千人針を仕上げていたのを、見ていたのかもしれません。でなければあんなこと、言うはずがありません。

 そこから今まで、湯浴みから床を取る時に至るまで、私は悔しさで身が燃えそうでした。涙はむしろ出ず、体の中を血がざあっと駈け上って行くのを感じたほどです。

 それはこの、大日本の一大事、一億総身で神風吹かせ、という今日びに恋路にうつつをぬかすとは、まっこと愚かしいことなのかもしれません。

 ですが、例え神風が吹こうが吹くまいが、大日本が勝とうが勝つまいが、心の底ではどうでもよいのです。明るいきらびやかな時が世の中に訪れても、泰平さんと一緒でなければ私は、その真中に暗くこうべを垂れていることでしょう。もし、泰平さんがいなくなってしまったら……。そんな自分を、思い描くことすら嫌でした。

 父さまにぴしゃりと言いつけられてしまった後、私は皆に隠れるように寝仕度までをこなしました。家族の皆の面前であんなことを言われたのですから、ことあるごとに母さまや兄さまに気にかけられてしまって、でもそれも仕方のないことでしょう。

 ですがそのまま居心地悪く終わった訳ではありませんでした。床に就こうとする姉さまに、おやすみなさいと言った時のことです。

『いい。あたしはあんたを止めないわ。止めないけれど……覚悟はすることね』

と姉さまは独り言のように言うので、私は隣りにある布団まですがり寄って、知ってたの、と小さな声をぶつけます。あたしはあなたの姉なのよ、と布団をかぶってしまうと、会うなら自分の藍染めのかすりを貸してもいい、と付け加えてくれました。寝返りで向いた背中が、あんたのすることはお見通しなのよ、とでも言っていそうで、私は久々に、胸の内が少し軽くなりました。

 そういえばいつか私が、姉さまは今、恋をしてないの、と聞いた時に、したいけどできないわ、だから気を起こさない為に女子の師範学校に入ったんじゃない、なんて返してくれましたっけ。

 前はそれを、ただの軽口と受け止めていましたが、今顧みると水のように身に染みることといったらありませんでした。

 そんなこんなの出来事に思いを巡らしている内に、どうやら私は少し眠りかけてしまっていたらしく、あの歌が再び聞こえたと思ったのもそのせいなのでしょう。

 私はやおら身を起こして、忍び足で居間まで行きました。よかった、時計はまだ九時を過ぎたばかりです。

 でも愁いは晴れず、むしろ形も判然としないままそれが胸中に居座り出したので、私は足取りも定まらず部屋に戻りました。霧はまだ晴れないのです。

  

  

 あの日、あの歌が谺したあの夜こそ、村が最も華やかだった最後の時かもしれません。

 村一番の大家であるうちが、送別の宴で音頭を取ったのですが、それを受けた若衆は――と言っても私より年が二つ三つ上なだけなのです――濁りのない綺麗な顔をして盃を受けていました。一人を覗いて……。

 村の人達は皆、笑顔を繕って、やれ出陣だ、やれ別れの酒だ、更に尽くせよ一杯の酒、と騒ぎ立てるのですが、私はその隅でじっとしておりました。村一の大広間が、狭苦しく感じて仕方がなかったのです。

 夢の終わり、散会の後で降り出した小糠雨に、私は泰平さんを送って行くと申し出ました。せめてこんな夜、浮かれ立った空気を忘れたいと思ったのです。

 丁度からたちの咲き出した頃合で、連なる垣根の暗い枝陰に、ちらほらと白い花びらが顔をのぞかせていました。

 小さな古傘を傾けて、二人並んで歩いた道は今も忘れません。僕の方が体が大きいから、と半分外に出て、私をそっと入れてくれたのです。

 まだ、自分の思いを伝えることすら考えていなかったその時の私には、どれほどに信じられない出来事だったか知れません。喜びたいと言えば喜びたかったのです。でも、今までの祭り騒ぎが、押し黙った夜更けの空気が、この道のりが、私の口をふさぎました。

  

  

  

  

 どうしようもない。

 これは、当然のこと。

 天命。運命。

 身の周りの全てが私をうなだれさせます。定めに、しおらしくなってしまった様子はあまりにうぶでした。今もそうと言えばそうですが、このまま川の淵にでも身投げしに行くような心地だったのは、今言い表すのが許されるなら、情けない面持ちです。いつかのように、あの手が差し出されたなら私は、とすら夢想しました。

『柏ちゃん』

そこへ声を掛けられたのですから、ハッとして顔を上げました。

『寒くない』

『い、いいえ、少しも』

そんなに、畏まらなくていいじゃないか、と軽く笑う泰平さんの表情を、見たいと思ったのですが生憎傘の陰でした。国民服の、色褪せた肩辺りが浮き上がっています。

 あの頃に比べると、その声にせよ笑顔にせよ、どこか力なく感ぜられたのは、恐らく気のせいではないのでしょう。

『いいかい。僕は死んで行く身だけど、柏ちゃんは生き延びる身だ』

泰平さんの口調は、物静かなのに加えて平生より落ち着いていました。夜半の雨は音もなく降り続きます。

『せめて、体を大切にしてくれよ』

……いつもの泰平さんじゃない。

 鷹揚としない声音に、私が沈み切った雰囲気を感じるのは自然なことで、あの……でも、その、と言い淀んでいる内に真正面を見据える泰平さんの横顔に気付きました。

 触れている肩で分かります。泰平さんは僅かに震えていました。細かく細かく、顔こそ見えなくても、痛ましさを私の心へ伝えるには十分過ぎていて、まるでかける言葉が浮き上がって来なかったのです。

 私だって。

 私だって、私だって。

 全てに抗いたくて背中を向けたくて、なのにそうする為の力も血路もなくて、陰ですんすんとすすり泣いていたのです。

 仮にも里の長の娘であるゆえ、体面の為に駄々はこねてられない。それでなくとも時勢というものがあり、逆らえば人の目に、まるで賊かとばかりの冷たい眼差しを受ける。

 八方塞がりで、今にも泣き出してしまいそうだった私は、唐突に泰平さんの足が止まったことに身がふらりとしました。

『泰平……さん?』

畏まらなくても、という言葉は聞こえません。

 丁度一本道の一つ灯の下、つまびらかに見えた泰平さんの横顔に、私はハッと息が止まります。生まれてこの方十数年に、見たことのない泰平さんが――在りし日の『泰平兄ぃ』ではない姿がそこにありました。

  

  

『柏ちゃん……いや、柏』

何が起きたか、しばらく分かりませんでした。

 ほとりと落ちる傘。髪に降りかかる細れ雨。

 泰平さんは、何も言わず私を抱き締めていました。

『あの……あ、あの、』

『何にも言わないでくれないか。何にも、何にも』

何にも、と泰平さんは静かにせがむのです。

 私の体は強く締め付けられました。腕に、背中に、回されている腕の力が服の上から熱く伝わります。

 まるでなすがままに。私は、傀儡の布人形のように引きずられ、雨の中、押し黙る胸元で、泰平さんの抱擁を受けるのです。

 私の中で、何かがほぐれて行きました。そしてその瞬間、やはり私は我慢できなくて、溢れ出す涙とともに嗚咽を上げ出しました。閉じ込められて来た一切の涙と泣き声が、堰を切って湧き上がって来たのですから、とめどなく私は泣くのです。わんわんと、雨の夜更けに染み渡るくらいに。

 泰平さんは、私を抱いて離しません。濡れることなど、気になりませんでした。いつの間にか、私の泣き声に混じって泰平さんも、くっ、うっ、うっ、と押し殺した声を洩らすのです。

『……好きだったんだ』

言葉ともつかない、か細くしゃくり上げる声がしたのを覚えております。

 咲き出しの、白いからたちに包まれた夜でございました。

  

  

 気が付いておもてを上げた頃、私はぽつねんと廊下に立っていて、箪笥のある奥の間の襖の前にいたものですから、小さく息をこぼします。

 どれだけ泣いても、どれだけ忘れようと努めても、泰平さんへの思いはこれっぽっちも消えはしないのです。

 あれから、私も泰平さんも、お互いを求める激しさは急激に増して行きました。私は中学校に通い、泰平さんは日々軍の訓練を受け。会えるのは自然と夜夜中に限られるのですが、今日のこの日までそんなに時間はなく、逢瀬も数えるほどしかなかったのに、私達はまるで何回も巡り逢いを重ねたようだったのはまるで不思議としか言えません。

 夜ごと、会って抱擁して、二言三言交わすだけ。それでも家を抜け出して来る私達にとっては危険が常にまとわりついており、これからお互いの世界が異なるものになり行くことを嫌なくらいに感じました。

 それでどうしても、まだ一緒にいたい、と胸の奥が疼くのです。

 そして今宵です。

 息を整えると私は、無人の部屋に忍び入り、確かな手付きで桐箪笥の一段を引き出しました。上から三番目の抽斗の、一番底に重ねてある藍のかすり。言われた通りの、場所とお着物。それは確かに上等のもので、抜き出すと肌にするりと布地が滑りました。

 『覚悟』。合わせて姉さまの言葉が蘇ります。

  

  

  

  

 それは今、私の胸裡にあるのかと言えば、まだそうだとは言い切れません。ただなぜか、無心に近い、変に神妙な心地だったと言えるでしょう。泰平さんは約束してくれたのです。最後に会った晩に、出征前夜もう一度会おう、真夜中、零時過ぎるかもしれないけれど必ず迎えに行くからね、と誓ってくれたのです。だから、だからこそ私は……。

  

  

 春卯月、まだなお消え切らぬ夜闇の冷たさが、足下から這い上がります。人の消えてしまった暗がりの一間で、私は、静かにかすりへ手を通しました。

 ああ、箪笥で染み付いた匂いが、かえって清々しいくらいです。それは帯も同じで、キュッ、と胴に締めるとまるで、その匂いに全身を浸したよう、さわさわと波立っていた心の内が治まって行くのでした。

 時は恐らく、正零時を越えたでしょう。屋敷の中には、人の起き上がる気配などはしません。夜ばかりが瞑想の顔付きで薄く広がっています。それを確かめると部屋を出て――まさにそれは幽霊の足取りと言えるでしょう――恐ろしいほど大胆に、廊下を玄関へ向かいました。丁度、引き戸まで廊下は一直線でした。

 仕上げに、お下げを結っていた髪の毛、これを解きます。ぱさりと軽い音がして、夜闇の中、現われるのは濡羽色に波打つ千筋の髪。

 あの与謝野晶子が繰り返し歌中に用い、女性の象徴たるその黒い豊穣さを幾度も詠じた、髪、黒髪、乱れ髪。それの、お下げの痕を梳いて息がこぼれるたび、私はやっぱり晶子になりたい、と三和土を前に一人立つのです。

 さて、もう何もかも済みました。一通りの身支度は整いましたし、もう後には戻れません。戻りたくない、戻れないとはっきり悟っています。そっと下駄を突っ掛けて、引き戸をそろそろ開きます。

 霧、夜霧はどこまでも尽きずに立ち込めて、それでも濡れた飛び石と、その先の垣根は見えるくらいでした。

 きっとあの向こうに、泰平さんがいる。

 私はここでも、目尻からはらりと一雫を落として、それから夜の中へ歩いて行くのですけれど、満開のからたちの花々はそこに、ひた白くひた白く見えているのでした。

  

  

  

  



『からたち』

花言葉は《思い出》《温情》《泰平》(特にその花については《貞節》《相思相愛》の二つの花言葉あり)

花期は四〜五月


『都忘れ』

花言葉は《しばしの憩い》《別れ》《短い恋》

四月二十一日の誕生花


web『花言葉事典』より(春・花小説企画のページの《花言葉一覧》の欄にリンクがあります)



 まずは。ここまで読んで下さった皆さんに、切なる感謝を。本当にありがとうございます。

 この作品、あるきっかけで着想してからほぼ勢いで書き上げたので、いい出来……という自信はありません。

 あの島倉さんは、かような思いで歌ったものなのでしょうか……あ、いえ、それはこっちのことで。

 何より不安なのは……文体と語句、皆さんが読みづらくなかったかということで。ええ。文面を括弧だらけにするのもアレなのでルビなしです。はなからそんな難しい言葉使うな、って話ですよね……ご了承下さい。

 一部ですが、以下、注釈です。


彼は誰時……『かわたれどき』夜明けのまだ薄暗い時間帯のこと。

惚っと……『ほうっと』ぼんやりと。

一間……『いっけん』長さの単位で一間は約一.八二メートル。後出の『一間』は『ひとま』。

外の面……『とのも』外の辺りのこと。

『鳳』の時代……与謝野晶子の処女歌集『みだれ髪』は『鳳晶子』の名で刊行された。彼女は夫・鉄幹に先立たれた後、昭和十七年に没する。

寒戻り……『かんもどり』春になってから、寒さがぶり返すこと。

玉の緒……『たまのお』玉を通した紐のこと。転じて『命』の例えで、玉の緒が切れる、絶える、といえば『死ぬ』ことを指す。

分限者……『ぶげんしゃ』金持ちのこと。

細れ雨……『さざれあめ』霧のように細かく降る雨。『小糠雨(こぬかあめ)』も同じ。

抽斗……『ひきだし』引出し。

正零時……『しょうれいじ』午前零時のこと。


 尚、作中の人名『鼎』『柏』『佐兵』『泰平』は各々、『かなえ』『かしわ』『さひょう』『たいへい』と読みます。『泰平』は花言葉から、その他は全くの適当なのですが、戯れに柏の花言葉を調べてみましたら……『愛は永遠に』。えー、何と言いますか。偶然です。



 では、読者の皆々様、企画主催の文樹妃さん、参加者の皆さんに多大なる御礼を申し上げて、失礼致します。



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