~三毛猫~
義晃達が出撃した後、崇弘は談話室に残って、時折やって来る伊勢の退魔壇からのメールに対応していた。
傍らの座布団の上では、三毛猫が丸くなって眠っていた。
不意に机の上に置いてあるスマートフォンから着信音が鳴り、『着信 禎茂保昌』のディスプレイを確認した崇弘は、軽く咳払いしてそれを手に取った。
「はい、黒田です。」
『やあ、崇弘。今、良いかい?』
「ああ、赤磐警部の用事は済んだのかい?」
『まあな。朱雀淵公園で見つかった傀儡の事で、な。俺にとっては珍しくも何とも無い。それより、君が送ってくれた画像の件だが。』
「うん、何か判ったかい?」
崇弘は机の上のメノウの円盤を手に取って、弄ぶように光にかざした。
『ナナツが慌てていたよ。それは中東アッバース朝期の魔術具だ。ジャーヒリーヤ時代の古代神群との霊威を繋ぐアイテムで、通称《マナート(冥府の女神)の胸飾り》と言うものだそうだ。』
「つまり、どういうことだ?」
『キリスト教圏では異端扱いのものだが、デーゲンハルトは中東の古代神アヌンナキの力を使っていた。賛否両論はあるが、強大な力を使いこなすヤツの実力は皆が認めていて《東の門番》の地位に就いた。君も知っているだろ?』
「ああ。一度間近で、ヤツが巻角を持った有翼の魔物に変化したのを見たことがある。」
崇弘は手の中でメノウの円盤を弄びながら話を続けた。
『異端審問でヤツは異国の神の力を奪われ、失脚したと聞いた。ヤツが固執するそれは・・・』
「・・・ヤツの力の源か。」
崇弘は手の中のメノウ円盤を凝視した。
『本来ならバチカンか、メッカやリアドの方で管理されるべきS級の呪具であることは間違いないな。』
その時、傍らから獣の低い唸り声が響いた。
座布団の上で丸くなっていた三毛猫が部屋の片隅を見つめて総毛立っている。
しましまのしっぽが胴体ぐらいに膨らんで左右にぱたぱたと揺れていた。
「・・・話は変わるが、君の持ってきた三毛猫が宙を見て唸っているんだが・・・どう思う? 僕としては良ろしく無い兆候だと思うんだが。」
崇弘は猫の視線の先を見つめながら半騎座に身構えた。
『なんだって? その子は依り代の能力があるんだ。神聖結界を超えて来る程の輩がそこに来ている。気を付けろ、崇弘。』
視線の先の空間が黒ずみ、ぐにゃりと空間が歪んだ。
その歪みの前に烏帽子を被った若草色の狩衣姿の人物がふわりと姿を現した。
顔の前に掲げていた扇子をゆっくりと横に振ると、その下から木彫りの翁の面が現れた。
「どうやら使い魔クラスより上級の輩のようだ。」
崇弘はスマートフォンを机に置き半身に身構えた。
翁の面の眼が鈍く光る。
芝居ががった様子でその翁は扇子をパチリと畳んで崇弘に向けた。
「・・・その手にあるモノを渡してもらおうか。」
「ほう、これが何なのか知っているみたいだな。誰の差し金だ。」
「知る必要は無い。渡さぬならお主の命ごと頂く。」
「ふん、こう言う時の常套句だな。」
崇弘が返すと、一瞬で目の前に翁が迫り、水かきの付いた大きな手が振り抜かれた。
崇弘は既の所で身をかわし、畳に転がった。
水かきの爪に引っ掛けられた装束の肩口が垂れ下がった。
その時、突然黒い影が翁の面の前を横切った。
渇いた木が弾かれる音が響き、翁は水かきで顔を覆って飛び退く。
崇弘の前にクロヒョウと見違えるような獣が、姿勢を低くして翁を睨み低く唸っていた。
両目は緑色に輝き、体の輪郭は蜃気楼のように揺らめいている。
ずれた面を直した翁は右手の扇子と左手の水かきをゆらりと構えた。
「くっ。獣風情がなかなかやるな。叢雲の式神が敵わなかった訳だ・・・」
「ほう? 面白い事を口にしたな。知っている事をしゃべってもらおうか・・・」
崇弘はメノウを袂に収め、半身に構えた左拳を固めて前に突き出した。
左中指の金色の指輪がキラリと光った。
「矢掛!」
崇弘の声と同時に金の指輪が深紅に変色し、左拳の両端から鶯色の繊維の束が飛び出した。
左手の繊維は瞬く間に大弓に変化し、左腕を伝って右手に伸びた繊維の束は和弓用の『三ツ(つ)弽』の形状にまとまった。
弽を大弓の弦に沿わせると右手の虎弧(人差し指から親指にかけての膜の部分)から繊維が吹き出して矢の形を成し、崇弘はそれを座射の構えで引き絞った。
じりじりと間合いを詰めていた獣は、短く唸ると翁の右肩に飛び掛かった。
爪で左肩を裂かれながらも、翁は扇子で獣を叩いて身をかわし、壁を蹴って宙に舞う。
崇弘はその動きに合わせるように狙いを定め、滑らかにタン・タンと二連撃の矢を飛ばす。
矢は青い光の軌跡を描いて翁に向かう。
翁は身を翻して一撃目をかわし、続く二撃目の矢を手にした扇子で弾き、そのまま崇弘へと襲い掛かった。
左手の鉤爪を振りかぶった時、二本の青い光が翁の体を左右から射抜いた。
「ぐはっ!」
たまらずに翁は膝から崩れ落ち、黒い獣はその翁の顔目掛けて飛びついた。
翁に突き刺さっていた矢は繊維状に解けて、しゅるしゅると大弓の弦に吸い込まれた。
「僕の式神『矢掛』は矢も含めて一体なんだ・・・さて、さっき叢雲と言ったな。蒼月派の天狗、叢雲とどういう関係だ?」
木彫りの面を引き剥がした獣が、崇弘の傍らにその黒い体を寄り添わせた。
口には半分かみ砕いた面が咥えられている。
再び崇弘は大弓に弽を添え、矢が形作られる。
藤蔓巻きの大弓に似た、矢掛の弦がキリキリと音を立てた。
「く・・・」
小さく唸ると、狩衣の袖をすっと下ろし、覆っていた顔を覗かせた。
ヤツメウナギにカエルのような目を付けた妖の顔がぬらりと灰色に光った。
突然妖の装束から煙が噴き出し、その白煙の中から蛇のようなシルエットが飛び出した。
それはぬるりと崇弘に纏いつき、袂の中からメノウの円盤を抜き取った。
「我が名はヌタナワ。マナートの胸飾り、確かに頂いた。」
ごつい両腕の付いたヤツメウナギのような姿をくねらせて、この妖は歪んだ空間の中にするりと逃げ込んで姿を消した。
崇弘の放った矢が青白い軌跡を引いて敵を追尾するも異空間のゆらぎは通過出来ず、そのまま床の間の柱に突き立った。
忌々しそうに舌打ちをする崇弘の傍で黒い霧がふわりと散り、物陰からしっぽを膨らませたままの三毛猫が姿を現した。
「猫ちゃん援護ありがとうね。」
逆立った背中の毛を撫でられて、三毛猫は少し目を細めた。