第2章 幕間 黒の女は嘆く
アロン達が “適正職業” の儀式を受けた日の夜。
“邪龍の森” 最深部
『彼奴が戻ってこないと?』
森の奥深く、蒼い月の光に照らされた広場。
ところどころに、朽ちた遺跡の残骸が転がるこの場所。
野太い唸り声と共に声が地響きとなって辺りの静寂を切り裂いた。
月明かりを受け、黄金色に輝く躰。
一際大きいその体躯。
カイザーウルフ進化種 “インパラトールヴォルフ”
地面に躰を優雅に横たわらせ穏やかに寛いでいるのだが、その気迫と声に、報告したカイザーウルフは全身をブルブルと震わせた。
『は、はい。長の命で北へと探索に出てすでに半年ほど。未だ、彼奴が戻ってくる気配がありません。』
森の北側の厭らしい場所を縄張りとしていた、怨敵ライトニングディアの気配が無くなったのを機に、怨敵の生死の確認と、ウルフ族にとって未踏の地であった北側への探索を任せた。
血の気の多い若者だ。
“くれぐれも、その先にある人間の集落範囲には近づくな” と念押しをしたが、人間の身の旨味を知っている以上、その口約束もどこまで通用するか。
だが、それも自然の掟。
探索に向かった若者のカイザーウルフが、欲望のまま人間を蹂躙するのも自然の営み。
そして、その逆も然り。
考えたくはないが、人間に駆逐された可能性もある。
『うむ……。婆よ、どう思う?』
インパラトールヴォルフの隣に横たわる、躰の小さなカイザーウルフに尋ねる。
銀、というより白い毛並みの狼は、呆れるように口を開いた。
『まず間違いなく、人間に駆逐されたね。姫がおっしゃるには、森の最北の集落に、“神々の使い” が二粒も生まれたとか。あの坊主、人間の集落に近づき過ぎたんだよ。』
それだけ告げ、寝入るように顔を伏せた。
グルル、と報告を行ったカイザーウルフが唸る。
『長。そして婆よ。我に彼奴の弔いの許可を。』
四つ目の眼光が月に照らされ怪しく光る。
若いとは言え、大切な同胞。
それが殺されたとあれば、黙っては居られない。
しかし。
『ならぬ。』
想像はしていたが、長は承諾しなかった。
『……何故ですか?』
『姫が、お認めになるはずがなかろうて。』
代わりに答えたのは、目を閉じて眠るような体制の婆だった。
その言葉に、ギリッ、と歯を食いしばる。
『長、そして婆よ。……姫、姫と、いつまであの腰抜けに我らは頭を垂れながらこの地に居座らなければならぬのですか。』
その言葉を受け、長は上体を軽く起こし、婆も目を開いた。
思わず、一歩引きそうになる。
『お前は……我が同胞の中でも一番力がある者だ。』
『……長を除いて、ですがな。』
長の言葉に、遜る。
事実、カイザーウルフという種の中では、この森の中では一番力がある。
しかし、カイザーウルフの進化種であるインパラトールヴォルフには、手も足も出ないほど実力に隔たりがある。
討伐危険度Sクラス。
集団討伐推奨レベル、450。
それが、インパラトールヴォルフというモンスター。
ただし、個体数が異常に少ない。
VRMMO【ファントム・イシュバーン】でも、レアモンスター扱いだ。
『お主に問う。我らの本懐とは何か?』
長の言葉。
若干、怒りも込められている。
身震いをしながら、カイザーウルフは答える。
『自然の摂理の調和。主たる邪龍マガロ・デステーア様の守護。』
一つ。
“自然の摂理の調和” とは、捕食者として頂点に君臨するカイザーウルフという種が、自ら能動的に狩りの範囲を広げ、矮小な生物を手当たり次第に蹂躙して生態系の乱れが生じないよう、自らを律し、他の種族にもその心得を広げることだ。
二つ。
婆曰く “姫”
森に住む者曰く “主”
“邪龍マガロ・デステーア” の守護。
かつて、憎き女神の卑劣な罠によってこの森の奥地に追い込まれ、その時の恐怖と後悔によって世界に生きとし生ける者と女神への懺悔を繰り返す、忠義と嘆きの龍。
それが、邪龍マガロ・デステーアだ。
遥か太古、世界を相手取り数多くのモンスターを引き連れて女神や “神々の使徒” に戦争を仕掛けたという逸話も聞くが、長や婆よりも遥かに若いカイザーウルフは、眉唾だと思っている。
決して表舞台に立つことがなく、奥の洞窟に引きこもって延々と女神や人類への謝罪の言葉を並べていると聞く、まさに “腰抜け” だ。
そんな腰抜けが、世界を相手取り戦争を仕掛けた?
“馬鹿馬鹿しい”
もし今、主が復讐だと自分たちを引き連れようとしても、従わないだろう。
恐怖に震える矮小な旗頭など、誰が従うか。
そんな気持ちを込めて、“本懐” が何かを答えた。
皮肉でしかない、その言葉。
しかし。
『そうだ。分かっているならこの話は終わりだ。』
上体を起こした長は、再び躰を地面へと預けた。
婆も目を閉じて、寝入る大勢だ。
グルルルル、とさらに唸るカイザーウルフ。
『……納得が出来ないか?』
『到底受け入れられるものではございません。』
カイザーウルフは、狼種の “皇帝” だ。
この “邪龍の森” では、邪龍の守護のために群れてはいるが、本来は下位種族を率いて一個師団を形成し、自らが “皇帝” となって君臨するのだ。
それが群れるなど、それこそ自然の摂理に反する。
自らよりも強大な長、インパラトールヴォルフが居るから大人しく従っているが、同じ皇帝位の同胞がやられたとなれば、黙っているわけにはいかない。
下手をすると、次は自分の番なのかもしれない。
その前に、芽を摘む。
すでに、数匹のカイザーウルフ同士でその話はついている。
後は、長の許可だけであったのだ。
しかしながら、一向に長は首を縦に振らない。
硬直状態。
“いっそ、この群れを抜け出して”
考えが過るカイザーウルフであった。
『分かった。』
その考えを察したのか分からないが、長が同意した。
四つの眼が喜色に輝く。
が。
『ただし条件がある。』
躰を起こし、立ち上がる長。
カイザーウルフよりも二回りも大きいその体躯は、立ち上がると見上げるほどだ。
『条件、とは?』
インパラトールヴォルフの肢体に恐れおののくカイザーウルフは、四肢を踏みしめ堪えるように尋ねた。
グルル、と一つ唸り、長は答えた。
『これから、直接、主に赦しを乞いに行く。』
◇
“邪龍の森” 最奥の洞窟
邪龍の森の最南端。
巨大な霊峰の堅い岩盤に、抉られたような巨穴がある。
それこそが、邪龍の住処。
そして、【ルシフェルの大迷宮】のゴールなのだ。
その中へと入る、長と婆、そしてカイザーウルフ。
薄暗い洞窟の中は、青白く輝く鉱石の光によって、夜空のように輝いていた。
『ここが、主の住処か?』
辺りをキョロキョロと見回し、警戒しながら尋ねる。
先頭の長は振り向かず『そうだ』とだけ答えた。
しばし歩く。
すると、一際大きい空間へと辿り着いた。
巨体を誇るカイザーウルフやインパラトールヴォルフが、全力で駆け巡っても余りある、異常な広場だ。
その中心。
数多の星空に抱かれ、青白く照らされる光の中。
中心だけ、異様に深く黒く、染まっていた。
『御祈祷の最中、恐れ多くもご尊顔を拝見したく馳せ参じました。我が主よ。』
躰を伏せ、頭を垂れる長。
やや後ろの婆も同じように、頭を下げた。
長と婆に倣い、慌てて同じように頭を下げるカイザーウルフ。
すると、
「何用かしら、親愛なる者たちよ。」
涼しい、女の声が響いた。
同時に、中心の黒い塊が動いた。
その塊は徐々にカイザーウルフ達に近づいてきた。
『お赦しいただき光栄でございます。我が主。マガロ・デステーア様。』
長が、さらに頭を下に降ろして遜る。
同じように頭をさらに下げるべきか。
チラリと長、そして近づいてきた黒の塊を見て、カイザーウルフは驚愕した。
それは。
人間の、女であった。
真っ黒な厚めの髪は、膝下まで伸びている。
細い腕に、細い足。
そして、細い体。
不健康そうなその女の虚ろなその眼は、燃え盛る火焔のように真っ赤。
肉が少なく、骨と皮だけのよう。
カイザーウルフの大きな口であれば丸呑みできそうだ。
“これが、邪龍?”
姫と聞いていたから、雌であるとは想像していた。
だが、その姿は偉大な龍とは程遠い。
何とも弱々しい、人間の女であった。
「番人の長に、橋渡しの娘。そして……見ない顔ね。貴方の後釜かしら?」
マガロは、長の頭に触れて尋ねる。
“人間風情が、我らの長になんたる無礼を!”
一気に怒りが沸き起こる、カイザーウルフ。
だが、長と婆の手前、理性が怒りを辛うじて抑える。
反対に、涼しい会話を繰り広げる長と婆、そしてマガロ。
『は。この若輩者は番人共の中で最も躰が大きく、勇敢な者です。いずれ、この者も我と同じくインパラトールヴォルフへと辿り着く……もしくは、その先の境地に達する者でございます。』
『姫よ。妾たちの跡を継ぐ者に、祝福を。』
長と婆の言葉を受け、マガロはカイザーウルフをちらりと見た。
その態度も気に入らない。
“我は皇帝ぞ!”
矮小な、骨と皮だけのような弱々しい人間に、どうしてこうも遜るのか。
怒りが沸騰する鍋のように、抑えている理性が鍋の蓋のように、吹きこぼれそうだ。
「そう。……いいわ。」
まるで無関心のように呟く、女。
その言葉と態度で、我慢が限界に達した。
『さっきから聞いていれば! 貴様、我が長と婆に何たる無礼を!』
怒鳴る。
唸り声と共に殺意がまき散らされる。
長と婆が驚愕に目を見開くが、関係ない。
“こいつ” は、ただの矮小な人間だ。
邪龍?
馬鹿にしているか、と。
「……ごめんなさい。」
女は目を伏せて、カイザーウルフに一つ謝罪した。
『な、主よ! こ、このような無礼を働き申し訳ございません!』
『この者は若輩故! 妾と長で、言い聞かせるのでどうかお赦しを!』
慌てて、頭を下げる女に謝罪する長と婆。
謝る者に、謝る。
それが滑稽で、何よりも憤りを感じる。
『長よ! 何故この者にそうも遜る!? ただの、矮小な小娘では無いか! 力も何も感じぬ、ただの脆弱な人間ではないのか!? 我らを誑かすのなら、一噛みでその胴を砕いてやろうぞ!』
さらに叫ぶ。
もはや止めようがない。
唖然とする、長。
『……そうか、貴様は、何も感じぬのか。』
好き勝手に物言いする若者に対する怒りではなく、呆れ。
『意味が分かりかねるな、長よ! 一体何がというのだ!?』
今にも女に飛び掛かりそうなカイザーウルフ。
それに答えたのは、当の女。
「ここは私の魔力で満ちてしまっているの。脆弱な者では、私という存在を図りかねる。貴方の本能が、それを拒否しているのよ?」
カイザーウルフに近づく。
その瞳は、憂いを帯び、慈悲に満ち溢れていた。
『戯言を!』
口を大きく開き、一瞬で丸齧りにしようと飛び掛かった。
『ドゴッ!』
『グギッ!』
それを止めたのは、長だった。
遥かに巨体である長の前足に、地面に伏すように押さえつけられてしまった。
『馬鹿者が! 偉大なマガロ様に何たる狼藉!』
長の力と怒りに触れ、ガタガタと震えだす。
だが、その長の太い前足にソッと手を触れるマガロであった。
「そこまでにしてあげて。可哀想だわ。この子が怒るのも仕方ないと思う。」
『はっ。マガロ様がお赦しになられるというなら。』
長は前足をどかした。
すぐさま、立ち上がるカイザーウルフ。
再度、カイザーウルフに近寄る、マガロ。
「怖がらないで? 私は、貴方の味方よ。」
まるで、恐怖に震える我が子をあやすような態度。
もう一度、噛み砕いてやろうとするが、後ろの長が目を光らせて睨む。
グウウ、と鈍い唸り声しか出ない。
その様子を眺め、フゥ、と大きな溜息を吐き出す長。
『主よ。本題は我らの同胞が一つ、行方不明であります。何かご存知ではありませんか?』
目線はカイザーウルフに向けたままだが、マガロに本題を切り出した。
ああ、と声を漏らすマガロ。
「あの子なら、殺されたわ。」
その言葉に、長も、婆も、カイザーウルフも目を丸くする。
『まさか……本当に、人の手で?』
「ええ。私もはっきりと見ていたわけでは無いけど。人間の子どもの手によって葬られたわ。」
“人間の子ども”
絶望に似た、沈黙に覆われた。
静かに、涼しいマガロの声が響く。
「予想でしかないけど “神々の使徒” であると思うわ。本来、彼らはその身に宿る “役割” が暴かれない限り、その力は十全に揮えないはず。そして、役割が暴かれているのなら、私の “瞳” でも捉えることが出来たはず……それが出来なかったということは、力も何もかもが不十分であった、幼子に屠られたということではないかしら。」
『馬鹿なっ!』
マガロの分析に、カイザーウルフが異を唱える。
『人間の子に、彼奴が殺されただと!? 馬鹿馬鹿しい! 彼奴は若いが、いずれ我の右腕となろう存在であった。それが、矮小な人間の子に殺されたと! 冗談も休み休み言え!』
『貴様! 先ほどから姫に対するその物言いは何かっ! 弁えよ!』
『婆よ! いつまでこの娘の戯言に付き合うつもりか! いい加減、飽きたわっ! 早く本物の主に合わせよ!!』
『ば、馬鹿者っ!?』
突然叫ぶ、長。
だが、遅かった。
「伏せて!!!」
突然、マガロが消えたと思いきや、三つの巨体を一カ所に集めて地面に押し込んだ。
『ガハッ!?』
余りの突然の事、抵抗ままならぬまま地面に押さえつけられたカイザーウルフは驚愕した。
あの細腕で。
あの細脚で。
このような腕力と脚力が出せるのか、と。
次には、三体の前に両腕を広げて構えるマガロの姿。
その、刹那。
『ガキガキガキガキガキガキ!!!』
轟音。
同時に、空間の更に奥から悍ましい速度と勢いで真っ赤に染まる茨の蔦が、触手のように蠢きながら、まるで矢のように何本も束になって襲いかかってきた。
『ドシュドシュドシュドシュッ!!』
その赤い茨は、容赦なくマガロの身体を貫いた。
「ぐ、うっ。」
それでも、マガロは両腕を広げて茨を押さえる。
マガロの身体と気迫に抑え込まれ、後ろの三体に茨は届かない。
時間にして、わずか数秒。
勢いよく飛び出してきた茨はピタリと止まり、ボロボロと、灰になるように朽ちていった。
『ドシャッ』
そして、マガロは倒れ伏せた。
真っ赤に染まる、血の海に。
『マガロ様ァーーー!!』
『いやああああああっ!!』
叫ぶ長と婆。
だが。
『ゴゾッ』
マガロの黒髪が、全身を包み、まるで球体のようになる。
『ズリュッ』
気味の悪い音が響く。
そして。
「ふぅ。」
髪がほどけるように、球体の中から無傷のマガロが現れた。
『え……?』
完全に固まってしまう、カイザーウルフ。
絶命は必至であるほど、全身という全身に大穴を開け、吹き出した血の海に沈んだはず。
しかし女は、一瞬で元に戻った。
“埒外の存在”
先ほどの、謎の茨を防ぎ切ったのもそう。
すぐさま回復したのもそう。
カイザーウルフどころか、知りうるどの生物にも、不可能な芸当。
―――まさか、本当に?
『ご、ご無事ですか……主よ?』
恐る恐る尋ねる長に、全身をじっくりと見回すマガロ。
確認が終わったところで、静かに頷いた。
「ええ。……でも驚いた。旦那様を刺激する発言は控えて欲しいわ。私も何度も、アレを防げるほど頑丈には出来ていないの。」
虚ろな瞳で、カイザーウルフに釘を刺す。
“守られた”
カイザーウルフは、四肢を伏せ、頭を垂れた。
『こ、この度は数々の暴言と有るまじき不遜な態度を取り大変申し訳ございませんでした! 我が主、マガロ・デステーア様ぁ!』
心の底から、叫ぶ。
この女は、いや、この方は。
本物の、邪龍。
伝説の存在。
“我らが守護する、主”
マガロは、静かにカイザーウルフの頭に手を触れた。
細く、冷たい指先。
しかし、何だか心が安らぐ。
――躰に宿る “邪龍の印” が、悦ぶ。
“ああ、この方は本当に、主なのだ”
四つの瞳から、涙が零れる。
自らの存在意義。
自らの本能。
それらが、歓喜に満ち溢れた。
「……ごめんなさい。」
再度、マガロから紡がれたのは謝罪。
「私は、ここに居て、こうして生きていくことしか出来ないの。それが私の役割。」
意味は分からない。
だが、偉大な主が、それを全うしなければならない理由が、ここにあると察した。
ならば、守護者たる自分は何を成すべきか。
答えは、一つだ。
『主よ。然らば我の役割は、貴女を守り抜くことなり。』
この日、幾年月を生きる邪龍の森のカイザーウルフに、信念が宿った。
長が、婆が、それ以前より先祖たちが成してきたように。
だが意外にも悲しそうに目を閉じる、マガロ。
「……ごめんなさい。」
再三の謝罪。
その言葉で、長も、婆も、マガロへと頭を下げる。
『貴女様の “咎” に比べれば、容易い。』
『いずれ、解き放たれるでしょう。』
その言葉の意味も、若いカイザーウルフには分からなかった。
だが、いずれ “長の座” を継ぐ時には、知り得るのだろう。
すでに、カイザーウルフの心は晴れた。
人の里に近づき過ぎて、駆逐されてしまった同胞には悪いが、奴もまた “自然の摂理” によって淘汰された存在であると、理解した。
カイザーウルフ達の本懐。
本来、群れることない彼らが、何故群れて、その場に居るのか。
それは、偉大な主を守護するため。
謝罪と、懺悔を繰り返す忠義と嘆きの龍。
“邪龍マガロ・デステーア” を守ること。
その祈りを、何人たりとも邪魔させぬこと。
青白い月明かりに照らされて、狼の皇帝は、決意した。
◇
「やぁ、傷は大丈夫かな。マガロちゃん♪」
だだっ広い祈りの間の中心で、手を組み懺悔の言葉を繰り返すマガロに、その空間には似つかわしくない、陽気な白い男が声を掛けた。
「……今日は、客人が多い。何か御用ですか、狡智神アモシュラッテ様。」
マガロは目も合わせず、祈りを続ける。
「いやいや。ちょっと忠告を、ね。」
ギロリ、とアモスを睨むマガロ。
「貴方から忠告など。碌でも無い。」
「まぁまぁ、そう邪険に扱わないでよ。」
お道化るアモス。
白い姿が、ボンヤリと薄暗い空間を照らす。
アモスは、祈るマガロの耳元に、顔を近づけた。
(世界の変革者が目覚めた。いずれこの地にも訪れる。)
嫌悪感丸出しで顔を顰めるマガロは、少しアモスから身を離した。
「それで? 私にどうしろと?」
アモスは妖艶な笑みを浮かべて、身を離したマガロの顔に再度近づいて耳打ちする。
(どうしろもこうしろも無いよ。普通に出迎えてあげて。)
はぁ、と溜息を吐き出す。
再度、身を捩らせて離れる。
「異なことを申されるな。それはつまり、茶の相手をせよという事かしら?」
あはははは! と大笑いするアモス。
「相変わらず面白いね、君は。それでも良いけど、きっと、君自身が驚くよ?」
さらに顔を顰めるマガロ。
「意味が分かりませんね。どのみち、変革者なら殺すことが出来ません。友好的なら、人間の口に合う茶を用意しましょう。もし敵対するようなら……説得してみます。」
「相変わらずの博愛主義者で、惚れ惚れするよ。……もし、説得が失敗したら?」
ニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべるアモス。
『ズリュッ』
アモスの質問と同時に、黒髪に全身が覆われたマガロ。
黒の球体となるが、徐々に、歪に、その容が膨らむ。
「……わぁお♪」
遥か天井を見上げる、アモス。
その眼前。
巨大な邪龍が、姿を現した。
天を貫かんとする、そそり立つ四本の角。
煌々と輝く瞳に、黒い靄を吐き出す紅い口。
女性のようなしなやかな躰に、鋭い爪が輝く細腕。
全身は刺々しい黒い艶やかな鱗に覆われ、その背には四枚の蝙蝠のような翼が広がる。
胴体から伸びた尾の先端は、焼けた剣山のような棘がずらりと生え揃う。
邪龍マガロ・デステーアの、真の姿。
マガロはアモスを見下し、答えた。
『もう一度説得しますわ。この姿で、一緒に茶を楽しみませんか? と。』
爆笑し、腹を抱えるアモス。
「いいねぇ! やはり君は面白い! そこで、忠告だ!」
笑い転げていたアモスが、消えた。
(せいぜい、抗うことだ。彼は向こうで君の旦那様を屠ったほどの、実力者なのだからね。)
巨大な邪龍となったマガロの肩に立ち、再度耳元で囁く。
『ボウンッ!』
マガロの全身が、黒い球体に包まれた。
「おっと!」
その瞬間、消えるよう避けたアモスであった。
球体は徐々に小さくなり、人間の女の姿となるアモス。
その表情は、
「……いいねぇ。久々に見たよ。マガロ。」
「黙れ。裏切り者め。」
常に憂いを帯びた表情では無い。
憤怒に、憎悪に、貌を歪めるマガロであった。
ふふふ、と笑いがこみ上げるアモス。
「いずれ、君の旦那様にも会いにくるね。」
その言葉と同時に、マガロの右手に黒い光を放つ槍が握られた。
「黙れ、と言っている。……ご存知ですよね、我ら “大罪と美徳” を司る存在は、神をも殺せる力を持つことを。」
「おお、怖い怖い。もちろん知っているよ。」
お道化るアモス。
そして、眼をギラリと輝かして告げる。
「だからこそ、君は “暁陽大神” に反旗を翻したんだよね?」
眼を見開き、握っていた黒い槍を消した。
表情が、徐々に落ち着くマガロ。
「……貴方は、一体何をお考えなのですか?」
「さぁ? 僕は、楽しければそれで良いんだよ?」
ふん、と鼻で息を吐き出し、マガロは中央の祭壇へ腰を下ろした。
「今日、貴方にお会いしたことは忘れます。先ほどの発言も、全て、無かったのです。」
そして再び、祈りを始める。
「助かるよ、マガロちゃん♪ 恐らく、僕が言わんとしたことは、彼に会えば少しは理解出来るかもねー。」
それだけ告げ、アモスは消えた。
静寂が、残る。
星空のように輝く青白い鉱石の光に覆われ、マガロは一人呟いた。
「あのいい加減な神が絡むとは。嘆かわしい。」
口元が、歪む。
そして、再び呟いた。
それは、未だ見ぬ “変革者” を想って。
「そうね。……良い茶葉を、仕入れましょう。」
久しく、心躍るマガロであった。