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「日本語、わかるんだな」
「……わかる」
それが言葉のひとつの名称だと彼は知っていた。しかしいつ知った単語だったかはわからなかった。というより、彼はこのニホンゴという言葉を、どこで知ったのか、どこで習得したのか、いつから使うようになったかを覚えていなかった。気づいた時には、思考するときはニホンゴを使っていたし、ヒトが話しているのを聞いて知識を得るときや、ごくまれに話しかけてくるヒトに対して使ったりしていた。
そういえば、自身がとっているこの生活様式も、いつ覚えたのか、だれに教わったのか、自分で身に着けたものなのか、わからなった。汚れたら洗濯する、夜は布団で眠る、外出をする時は衣服を着る、言語を用いて「コミュニケーション」をとる、これらの類すべてを意識せず行っているものの、その出自はいったいどこなのか、自分の歴史のいったいどこからそれが始まっているのか、彼は覚えていなかった。
ここに来る前から定住地を決めれば自然と生活を始めていたし、そのために必要なものは何をそろえなければならないかというのも知識に持っていた。しかしその知識はどこから来たものなのか、彼は記憶していなかった。
「ひとっぽいけど、ヒトじゃないしなぁ」
少年はひとり言のようにもらすと、気づいたように慌ててそっぽを向いた。自分は初対面だし、しかもヒトを殺して食べるようなものだから、少年はまともにしゃべりたくないのだろうな、と彼は考えた。
彼は食べるのをやめて自分の体全身を眺め始めた。手も二つあり、足も二つあり、指は五本で、胴があり、首があって頭がある。目は二つで鼻の穴も二つ、口は一つ、髪の毛も生えている。体のつくりとしてはヒトとはかなり似ている。
しかし少年のようないわゆるヒトとは、外見がかなり違う。まず、ヒトには鱗はない。自分は鱗で全身覆われてるので、これは自分とヒトとを比較してかなり大きくかけ離れた点であると彼は思った。それから彼は全身黒色を中心にして鼻先から背中にかけて黄土色の線が縦に走っていて、腹などの方は白っぽい色をしている。ヒトであれば全身白っぽい色からこげ茶色っぽい色のどこかにおさまっているはずだった。さらに、彼の顔は多少流線型に尖っていて、歯は一つ一つが尖り口からはみ出るような立派な牙も持っていた。
「わからない」
彼はそれだけ答えて、あと少し残っていた骨を口に押し込んで平らげた。
「おまえも、ヒトなのか?」
今度は彼のほうから少年に質問した。こんなふうにヒトと話すのは初めての感覚な気がしたが、なんだか遠い昔に辞めてしまったというような気もした。泣いて助けを請われた時は話すというより一方的にあちらがまくし立てていただけだし、自分は何一つ会話をしていなかった。ヒトと対面でしかも双方向の会話が行われているのは、これより昔にした記憶がない。
「おれ? おれは」
そう言いかけて、少年はまた気づいたようにそっぽを向いて体育座りになった。それから横目で彼の方を見ながらもそもそと口の中で喋るように答えた。
「ヒト、だと思う」
「ヒトは生き返らないよ」
「生き返る? だれが」
「ヒトはこんなに早くもとに戻らない」
彼は恐る恐る少年に近づいて、爪で少年の腕を極力弱く引っ掻いた。少年は顔をしかめてなにするんだと激昂した。腕には十センチほどの切り傷ができていたが、すぐに細胞は反応してゆっくりとふたつに裂けた皮膚がお互いの身を寄せて癒合した。
「ほら」
彼は得意げに少年に言った。少年はまた唇をかみしめてうつむいてしまった。
「おれは生き返っちゃったのか」
「そうかな、たぶん」
「お前に殺されたもんな」
「そうだよ」
少年はずっと奥歯のほうに力を入れて顎を固くかみしめさせていた。窓というより、小屋にぽっかり空いた穴からは、すでに外の景色が一面闇に包まれていて、限りなく細い隙間からちらりと顔をのぞかせているような月が、弱々しい光を提供していた。
彼は眠くなってきたが、このまま寝てしまうとおそらく少年が逃げてしまう気がしてきたので、棚のいちばん奥しまってあった古いランプの埃を吹き飛ばして、中に脂肪のかけらを入れてマッチで火をつけた。暗闇以下だった小屋の中はうすぼんやりとした不確かな光に照らされて、お互いの顔をようやく確認できるほどの明るさを取り戻した。
少年がまた何か喋ったりしてくれないものかと、彼は思っていた。いままでずっとひとりで暮らしてきて、夜は虫の声や獣の声と共に寝ていたのだったが、今日ばかりはなぜか、この昨日まで食料としか見ていなかったヒトの少年の事が気になってしょうがないのである。食事の対象ではなく、むしろふいに自分のもとを訪れた同胞のような、食べる食べられるの弱肉強食のお互いの立ち位置ではない、対等の安らかな会話相手を得たような、不思議な心持だった。
彼はなかなか少年がしゃべりださないので、昨日狩った女の皮でも伸ばして干しておこうかと思った。早めに裏についた脂肪や細かい肉の塊をこそぎ落としてしまわないと、すぐに腐ったり食べ心地が悪くなったりする。
彼は皮をどうにか利用しようと考えていたが、食べてしまう以外には使い道がなかなか思いつかなかった。とはいえ研究するのは大切である。今まで食べたヒトが所持していたほかの獣の皮でできたものを見ながら、衣服のようなものができないかと日々研究をしていた。
彼は少年がまた騒ぎ出すのも嫌だと思って、後ろを向いて少年に見せないようにして作業を始めた。
石で肉の細かい破片をそいでいると、少年はとうとう口を開いた。
「昨日さ、見られちゃったんだ」
「なにを?」
「さっきみたいに、傷がもとにもどるところ」
「みられたらこまるの」
「困る。お前の言うとおり、人間はそんなにすぐ傷がふさがったりしないし。みんないやな顔してたから、変に思われたとおもう。おれもいやだった」
皮についた肉は波打ってはがれるところもあれば、なかなかはがれずに砕けてしまうところもあった。彼はその破片がでるたびに指でつまんで食べる。脂の味が強いのでこの作業をしているときはそれなりに楽しんでいた。
「みんなと遊んでるときに高いところから落ちて、おでこを石にぶつけて血が出た。でもすぐに血が止まって、何もなかったようにすっかり元通りになった。気を付けていたのに、みんなに見られた」
「にげたの」
少年は質問には答えず、またしゃべらなくなった。彼は破片が一定量集まると指でつまんで食べる。あらかたこそぎ終わると、彼は手で余った破片を集めて別にし、古いロープを部屋に張ってそこに干した。やはりどう見てもヒトの皮にしか見えなかったので、彼は少年が見て騒ぎ出さないように布団の下に隠すことにした。
「二週間前くらいに、怪我をしたときにわかった」
「なにが?」
「傷がばかみたいに早く治るっていうこと」
「しらなかったの」
「それまでは普通だったんだ、けがしてもすぐ治らなかった。ほんの二週間前から。その日、工作をしていて指を切っちゃったとき、すぐに傷がふさがっていくのを見てしまった」
「とつぜん?」
「とつぜん」
彼は作業が終わったので、少年から気をそらすことができなくなった。なるべく少年に近づかないようにしながら、腕を掻いたり手遊びをしながら彼の話すのを聞いていた。少年が少し身震いをしだしたので、ぼろぼろの布を少年に渡した。少年は臭いといいつつも口で体に引っ張り寄せて纏った。日中は暖かかったが夜になると気温は下がり、いつも就寝するときには布か毛皮が欠かせなかった。
「それまではヒトだったの」
「たぶん、そう。それからけがするたびにすぐに治るのがわかって、怖くなってけがをしないように気を付けてた。ずっと気を付けてたのに、ばれちゃった」
「ふうん」
「それで、怖くなって夜中に逃げてきた」
「なにから?」
「なにからって、それは、たぶんみんな」
「みんな? 友達? 家族?」
「友達とか、家族とか、まあおれを知っている人たち全員」
「みられたらこまるから?」
「たぶんそう、おれは人ではなくなったんだなと思ったから」
「うん、ヒトではないと思う」
「……そう、だから」
彼は自分なりに少年のいう事を納得した気分になった。ヒトはヒトでないものを見ると徹底的に攻撃する。たとえば自分のように、ヒトを食料にしているものには厳しい、というよりヒトに危害を加えるものに対しては厳しい。幾度となく彼はその攻撃にあってきたし、そのたびに荷造が途中でも次の場所を求めて逃げなければならなかった。少年みたいに、ヒトと同じ外見をしていても、ヒトではない生物なら攻撃するだろうなと思った。ヒト同士ですら攻撃しあうのだから、それくらいは日常茶飯事なのだろう。
「だから逃げてきた」
「そして、おれに見つかった」
「そう、まったくなんてひどい目にあったと思った」
「食べなかったじゃん」
「食べる気だったのかよ」
「肉だもん、へんな肉だったから食べなかったけど」
「あっそ」
少年はにらんだ後に布団を体にくるんでそのままそっぽを向いた。彼もそろそろ眠りたくなってきたので、ランプを消して別の毛皮を纏って眠りについた。