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地底から金属質の叫び声を響かせながら、地下鉄はホームに入ってきた。人々の硬い靴音がトンネルにこだまし、地下空間は音で徐々に飽和しはじめる。汗や脂の染み出した空気は、人々の生産する二酸化炭素と混ざり合って乳化し、ぬるく滞っていた。彼はそれをゆっくりと吸い込むと、つんと鼻粘膜が刺激されるのを感じた。
彼は黒いコートを着込んで、大きなフードを深くかぶっている。高い襟を立てて、隠している口元にもマスクをつけていた。手袋をはめ、裾長のズボンで靴のかかとも覆い隠しているその姿は、あからさまに体全体の皮膚をまるきり覆いつくしてしまおうという意思を発していた。
改札を出た先で、飾りタイルが敷き詰められた壁にときどき寄りかかりながら、うつむいてただ突っ立っている。汗をかききつい体臭を発するスーツ姿のサラリーマン、タオルを頭に巻き汚れてぼろぼろになりつつあるツナギを着た作業員、携帯電話に釘付けでふらふらと先も見ずに歩く女子高生、改札を通り抜ける人物ひとりひとりを、フードの中から選別するように眺めていた。
カーンコーンと、飽和した音の中を貫いて、ひときわ硬いヒールの音が彼の鼓膜を震わせた。ジャケットに黒いストレートパンツを履いて、ぴっちりと布を体に沿わせている。肥えているわけでもなく、またやせ細っているわけでもなく、程よく肉感のある体をしていて、歩くたびに豊かで締まった尻が左右に振れていた。
彼はその姿をみとめると、指同士をこすりつけたりこぶしを握ったり開いたりして、息を今までより深く吸い込んだ。柔らかくかすかな香水の香りが鼻腔にしみ込む。彼女が数メートル自分の前から過ぎるのを待ってから、素早く周囲に目配せして確認する。電源の付かない割れた携帯を取り出して数秒画面をのぞき込み、時間を確認するようなそぶりをしめしてから、ポケットにしまって歩き出した。
地上に出るとすっかり闇が満ちていた。新月であるこの日はなおさら、街灯が作り出す光以外はまったくの暗闇だった。車の多い大通りからひとつ、またひとつと奥に入っていくごとに、わずかな光さえもなくなり、草むらや植え込みに潜みひりひりと虫の声ばかり感じられるようになっていく。
女との距離はわずかずつ、しかし確実に縮まっていく。フードの奥の目は周囲を隈なく警戒しながら、輪郭の判別しがたいスーツ姿を見失わないように一切まばたきをしないでいた。角を曲がるごとに人はいないか、草むらはないかと条件の合った最適な場所を探していき、十分ほど歩いたところで鬱蒼とした林を見つけた。
彼は音もたてず靴底を着地させ、速度を上げていく。コツコツと前方から響く音は次第に大きくなり、まばらにある青白い街灯に照らされては消え、消えては照らされる黒色の女体は徐々に輪郭をはっきりとさせ、彼のマスクにこもる吐息は熱を増して頬を覆う。
彼はいちだん大きく息を吸い込んで、こぶしを握りなおした。そして次には大きく腕をふって駆け出した。女はふと何かに気が付いたように振り向いたが、しかし一瞬の間に彼は肉薄したため、女の目が彼の姿をとらえたころにはすでに両の腕が伸びて肉体をがっしりとつかまれ、すさまじい力で身動きを固く封じられていた。声を出そうと息を吸うものの怪力の腕が喉元に食い込み、すぐに気管と頸動脈を締め上げる。女はバッグを振り回し暴れて振りほどこうとするも、さらに喉元に力をかけられ、体が持ち上がり、万力がものを押しつぶすような圧力がくわわった。
数十秒もすると目を白黒とさせ、女は肢体をだらんと投げ出して重力に身を任せた。そのまま彼はさらに念を入れてよくよく締め上げながら、あたりを確認しつつ林の闇に女ともども消えた。
木々を通り抜けちょうど体を隠せるぐらいの茂みを見つけると、彼は引きずってきた女を丁寧に草の上に寝かせた。手足は硬直して背筋はぴんと反り返っている。手袋を外して口元に手を当ててみると、不規則な吐息を繰り返しているのを皮膚に感じ取った。頸に手を当ててまだかすかに脈があることを確認し、彼は一息をつく。
もういちどあたりに誰もいないか確認した後、彼はフードをおろしてマスクを外した。ポケットにマスクをしまうと、女の着ているジャケットを慎重に脱がせ、白いシャツのボタンを手探りで外していく。ゆっくりとまばたきしながら自分の瞳孔が開くのを待っていると、だんだんと白い肌がぼんやり見えるような心持になってきた。
彼は右手で下着の上から乳房を撫でると、そのまま人差し指を下へと這わせてゆき、臍をいじってストレートパンツのチャックを下げた。こちらも慎重に脱がすと、下着のみになった白い女体を頭のてっぺんから足の先まで、造形美を堪能した。かすかな喘ぎが彼の口から漏れた。犯行がうまくいったことに対する安堵でもあり、己の選別が間違っていなかったことに対する自尊心でもあった。
彼は長い舌をゆっくりと頬から這わせ、皮膚に湿り気を与えた。そうして一番柔らかい腹まで嘗め回すと、大きく口を開いて脇腹にかみついた。
水音が漏れる中、暗闇でもわかるほど赤い赤い血液がほとばしり、彼の口中を満たしていった。渋く甘酸っぱい味が舌を占領してゆく。新鮮さは最上級で、まだあたたかい。まことに、幸福の味だった。彼は一心にあふれ出す血をなめ、肉を裂き、臓物をすすり、骨をかみ砕いた。
白い肌はたちまちのうちに赤黒く染まってゆき、徐々に皮膚の部分は失われ、先ほどまで完全なヒトの肉体だったのが信じられないほど、ぽっかりと欠けた腹からはただの肉の塊が覗くような有様にすがたを変えていった。彼は悠々と、しかし手早く、巧みに口に運んでいく。皮膚ははがされ、見る見るうちに肉は胃に押し込まれた。
ひととおり新鮮な肉の味を堪能し、満腹になった彼はまた深いため息をついた。鼻腔を血液の匂いが満たした。懐から黒い大きなビニール袋を取り出すと、食べ残した部分を詰め込んでいく。入らない部分は関節を折ったり外したりしながら詰めていった。心臓は血管を激しく波打たせ、肺までも圧迫するような大きさに肥大しているかのようだった。そのうち肺と心臓は結合して、流れ込む血液で溺れるのではと思うほどの、はげしい恍惚の動悸だった。
がさり、と物音がした。
彼の心臓は今度は外へ飛び出すいきおいだった。体全身の筋肉が即座に硬直し、臨戦態勢になった。血の匂いを嗅ぎつけて、野生動物が来たのであろうか。それともこんな夜更けの鬱蒼とした林の中を、ヒトが歩いているとでもいうのか。今まで気にしていなかった体全身の汗が一瞬にして凍結したように、皮膚が冷気に覆われた。
周囲を注意深く探ると、ごく微量の光によって薄い輪郭が浮かんでいるのがわかった。どうやら人型のようである。彼はいっそう緊張して、息をひそめた。重心を低く、背を丸めて、いつでも飛び掛かれる準備をした。
「だれだ」
そう発した声の主は思いのほか甲高い声の持ち主だった。少女のようにも、少年のようにも聞こえる。目が慣れてはっきり確認できた、その輪郭の大きさからも察するに、まだ成長途中のものであることは間違いない。彼は多少拍子抜けをした。想像していた獣よりもずっとちいさなものだった。
自分の犯行がヒトに見られてしまったことは身も震えるほどの大失態だったが、それよりもなぜこんな時間に、こんな鬱蒼とした林に、しかも子供がいるのか、疑問に思うほうが彼の頭の多くを支配していた。
草を踏み分けて輪郭はゆっくり迫ってきた。彼はもう少し様子を見て、相手の行動を待ってから自分の行動をとることにした。子供の肉はまだ食ったことがなかったので多少の興味は沸いたが、彼にはまた微量の良心というものがあって、幼い子供を殺して食らうことへの躊躇もあった。また、声が甲高く輪郭が小さいからといって、必ずあれが子供であるという確証が持てなかった。
しかし、相手が驚愕して悲鳴でも上げようものならば、その甲高い声は遠くまで響き渡るだろうし、もしこの暗闇で万が一逃してしまえば、自分の犯行が世に広く知れ渡ってしまう。となればどちらにせよ、殺す以外の選択肢はない。
彼は決心して輪郭に飛び掛かった。輪郭は情けない声を上げて地面に倒れ込む。近くで見れば、やはりヒトの子供らしかった。まだここで性別を判別することはできない。とりあえず体をまさぐって首許を探し当てると、貫手の形にして一気に押し込んだ。柔らかい顎の肉はいとも簡単に爪に切り裂かれ、指に程よく硬くあたたかな感触があった。
そのまま深く刺し貫くと、子供はひゅっと息を漏らして体をのけぞらせた。暫くじたばたと手足をうごかしていたが、右手で小振りな頭をつかんで捻ると簡単に首が折れ、そのまま痙攣した。
彼はひどく汗をかいていた。子供を殺すのはこれが初めてだった。思った以上に簡単に殺すことができ、また思った以上にもろい肉体だった。ゆっくりと両手を離す。指を舐めてみたが、多少澄んだ味がするかもしれない、というぐらいはほとんど味の違いは感じられなかった。
とりあえず所持している最後のビニール袋を用意して、詰め込んだ。先ほどの食事でもう空腹は満たされていたので食べる気にはならず、かといって放置しておいても何者かに見つかってしまう可能性は高くなる。それにせっかく初めての子供の獲物であるので、後の楽しみとしてとっておこうという欲望もあった。
肉のかけらも残さず詰め込むと袋の口をかたく結んで、前に抱きかかえた。あたりに誰もいないのを何度も確認しながら、彼は慎重に林の奥へ消えていった。