理想の女
見渡す限り田園が広がっている。
稲はまだ青々としており、遠目からは広大な草原にも見えた。
―― こんなとこ、来たことあったかな。
男は真直ぐに伸びた未舗装の路を歩いていた。
雲雀の声が聞こえる。
油蝉の声が聞こえる。
穏やかな風が吹き、青い稲をなびかせてる。
―― 綺麗だな。
男は素直にそう感じた。
頭上には太陽が燦々と光り輝いているが、暑くはない。
とても気分が良かった。これほど平穏な気持ちになれたのは久しぶりだ。もしかすると、母の胎内にいるとき以来ではないだろうか。無論、憶えてはいないが。
ふと男は気がついた。自分自身が、どうやってこの場に来たかが分からない。
―― ああ、そうか。
男は自分の頬を叩いてみる。パチンと大きな音が響いたが、全く痛みは感じなかった。
やはりこれは、夢を見ているだけのようだ。
これに気がついた男には、低俗な欲情が湧きあがる。
―― 夢ならば、なにをしてもいいじゃないか。
男は走り出した。
するとよい具合に、路の先に女が見えた。白いワンピースを着た若い女だった。男と同じ方向に向かい、女はゆっくりとした足取りで歩いている。
「ねえお姉さん」
女を追い越して、男は声をかけた。普段のこの男は、ナンパなどしたこともない奥手であるが、それが夢だと気づいてからは何でもできる自信があった。男はそのまま、女を犯すつもりだった。
しかし、女の顔を見た男は文字通り固まった。
女は美し過ぎた。真っ白な肌、小さな顔、形のよい唇、そして大きな瞳。男の劣情を消し去ってしまうほど、美しかった。まさに、男が追い求めていた完全な女性がそこにいたのだ。
「なんですか」
澄んだ声で、女は応える。
「いや、あの、ここって、どこかなあと思って」
しどろもどろになる男を、女はしばらく不思議そうに眺めていたが、やがて微笑んだ。笑顔も美しい。
「わかりました。あなた、私を襲うつもりだったんでしょ」
怒る素振りもなく、女は問い質す。
「いや、そんなつもりはないよ。もうないって」
大げさに首を振り、男は否定する。
「まあいいわ。少し座って話しましょうか」
見ると、路のすぐ先に古いバス停が見えた。ベニア板で囲まれた空間に、錆びたベンチが置かれている。唐突に現れたバス停であったが、男は気にしない。だってここは夢の世界なのだから。
男と女はそのバス停に並んで座り、話をした。男が喋り、女が頷く。他愛もない会話が続いたが、男は楽しかった。これほど楽しい時間を過ごしたことはなかった。
しかし、突然女の顔に陰りが見える。
「どうしたの?」
男が聞くと、女はただ涙を流した。
「楽しかったわ。でもあなたは帰らなければならない。それが寂しくて」
女は泣き顔すら美しかった。
「帰らないさ。ずっとここにいる」
男は殆ど叫んでいた。しかし、エンジン音が近づいていた。この田園風景によく似合う、旧式のバスが走ってきた。
「そのバスに乗ってお帰りなさい。ここは、あなたがまだ来る場所じゃないわ」
二人の前に停まったバスの扉が開く。男は抵抗したが、自然と体はバスに吸い込まれていた。
「また会えるわ」
その言葉を最後に聞き、男の視界は光に包まれた。
「ヒロシ! ヒロシ! ああ神様。助かったのね」
目を開けると、男の目に泣き腫らした目をしている母の姿が映った。
「もう大丈夫だからな」
父親もいる。視界が開けてくると、自分がベッドに横たわっていることが分かった。病院だった。
「お前、トラックに轢かれたんだぞ。憶えているか? 頭を打ってな。心臓も止まりかけ、お医者さんには覚悟してくださいとまで言われたんだぞ。よく戻ってきたな」
父も泣きそうな顔だった。
ベッドの直ぐ隣には、男の心拍数を示す装置が、一定のリズムで鳴っていた。
「もう大丈夫。峠は越えました。意識も取り戻されましたし、後遺症もなさそうですよ」
白髪頭で白衣の男が自信たっぷりに両親へ語りかけている。
男はその医者に手を伸ばした。
「大丈夫ですよ。直ぐに良くなりますからね」
医者が男の手を握ろうとしたが、男はその手を払い除ける。そして、白衣の胸に並んでいたペンの中から万年筆を一本抜き取った。
周りが止める間もなく、男は自分の咽にその万年筆を突き刺した。
―― これで、戻れる。彼女の元へ……
心拍数を示す音が乱れ、やがて消えるのを男は聞いた。